論文集

 

伊都能売(いづのめ)大神様は神の頭領

岡田茂吉師の御論文です
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病気が治った体験談

浄霊で病気が治った体験談が載っています

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病気とは排毒作用

(岡田茂吉師御論文です)


病気とは排毒作用

『救世』57号、昭和25(1950)年4月8日発行

 そもそも、病気を最も判りやすくいえば病気とは体内にある不純物、すなわち有毒物を種々の形によって排泄さるるその過程をいうのである、従ってこの世の中に病気ほど結構なものはないので、もし人間から病気をなくすとすれば、人間は健康を保ち得ず、到底長命などは覚束(おぼつか)ない虚弱者となるのである、これが千古不滅の真理であって、これを基本として成った医学こそ真の医学である、ゆえに、もしこの真理に外れたいかなる医術といえども、それは真の医術とはいえない疑似医術であるから、到底病気は治し得ないのである。
 そうして有毒物とは、彼の喀痰、鼻汁、喀血、出血等の汚血や、膿汁、下痢便、濁尿、汗、唾液、目脂(めやに)、涙、耳ダレ、発疹、皮膚の紅潮、仝〔同〕斑点、田虫、水虫、フケ等々であって、まず喀痰、鼻汁、汗、濁尿等の排泄作用が感冒であり、下痢や痔出血等は全身毒素が腹部へ集り、肛門から排泄されるのである、また膿汁毒血等は腫物によって排泄され、各種の毒血は天然痘、麻疹(はしか)、猩紅熱(しょうこうねつ)、発疹チフス、疥癬等によって皮膚面から排泄され、その他は毒素はそれぞれ、種々の形によって排泄されるのであるから、病気とは換言すれば、人体の清掃作用である以上、清掃された結果は血液が清浄化するから、健康を増すのである、そのため血行の循環はよくなり、殺菌力は強化され、体力強靭となるから罹病し難くなり、精神的には爽快感の持主となり、楽天的となるのである、これに反し、常に寒冒に罹りやすく、絶えず不快で、根気なく怒りやすく、憂鬱で、神経衰弱や結核に罹りやすいのは、濁血が原因であるのは言うまでもない、そうしてあらゆる病気の中でも、最も簡単にして健康上効果顕著なのは感冒に越したものはないのである、従って、出来るだけ寒冒に罹るようにするのが最もよいのであるから、常に感冒に罹るよう心掛ければ、結核及び神経衰弱などに犯される事はないといってもいいのである。
 しかるに、この理を知らない医学は、およそ反対の解釈であるから、いかに誤っているかが判るのである、何よりも今日医学は進歩せりと言いながら実際的効果ははなはだ疑問である、むしろ進歩すればする程、真の医道と遠ざかるばかりである、見よ、今日寒冒の原因すら不明であり、結核の解決さえもいかに苦心努力しても思うようにならないというに見ても明らかである。
 右の理によって、今日至極簡単な病気でさえも容易に治らないのは逆療法によるからである、事実、吾らからいえば、病気なるものは、まことに容易に治るものである、それは神が与えた清掃作用である以上、不純物がある程度溜れば人間自身が持っている良能力の活動が発生し治るからであってみれば、ほとんどの病気は、何らの手当もせず自然に放任しておくだけで速かに治癒するのである。
 ところが、いつの時代か判らないが、前述のごとく、病気を逆の意味に解し成った医学である以上、いか程進歩したとても治るはずがない、それどころか反って苦痛は増し、生命にまで危険を及ぼすのであるから実に恐るべきものとし、適当の手段を行わなければ安心出来ないという訳で、誤りを解決するのに誤りをもって発達したのが今日の医学である、とすれば、何と恐るべき愚法を続けて来たかと言えるのである、しかも、これがため何百何千年間人類はいかに大なる犠牲を払って来たであろう、それらを考える時全く聖書にある禁断の果実とは医薬をいったのではないかとさえ怪しまれるのである。
 しかしながら喜ぶべし、いよいよ天の時至って、この誤謬の真相を開明し、病なき世界を出現させようとするのであるから、近き将来すべて人間の寿齢は百歳以上は可能となり、且つ無毒者が殖えるに従って、病なく貧なく争を好まない人間が増える訳で、吾らのモットーである地上天国の実現は近づきつつありと確言するのである。
 もちろん、かくのごとき空前の大救業は神の大愛の発露と時期到来にある事はもちろんで、その最も基本的条件は、人間から病を除去する一事で、そのための主要なる点は、医学の是正でなくてはならないと共に、ここに始めて一切の誤謬は解決し地上天国は成立するのである。

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病気と苦痛

(岡田茂吉師御論文です)


病気と苦痛

未発表、年代不詳

 人間一度病気に罹るとする。病気に罹ったと言う意識は苦痛である。言わば病気即苦痛である。しかし苦痛にも色々の種類がある。これまでの医学は病気と苦痛を同じものにみていた。それがため苦痛を緩和すればそれだけ病気も緩和すると思っていた。この考え方が根本的に間違っている。それを説明してみよう。ここで最も多い感冒を取上げてみるが、まず熱が出るとする。頭が痛いから氷で冷すや幾分楽にはなるが、それは病気が軽減したのではない、苦痛が軽減したのである。これが根本的誤謬である。それは病気と苦痛とは別々のものであって、実は苦痛を緩和すればする程病気は悪化するのである。この説を見た現代人は余りの意外に唖然とするであろう。しかし、これこそ絶対動かす事の出来ない真理であって、これを基本としなければ真の医学は生れないのである。以下解くところによって何人(なんぴと)といえども衷心(ちゅうしん)から納得して一言の否(いな)を唱うる事も不可能であろう。昔の人が自惚(うぬぼ)れと瘡気(かさけ)のない人はないと言ったが、誠に面白い比喩である。実際どんな人間でも先天的毒素を保有していないものは一人もないと言っていい、しかも毒素保有量は予想外に多いものである。この毒素とは薬剤の変化したもので吾らは薬毒と云う。この薬と毒については別の項目に詳説するが、ともかく右の保有毒素は新陳代謝の活動によって、体内の各所に集溜する。そうして時日の経過に従って漸次固まってしまう。「毒素の集溜の個所としては神経を使う局所であるから、何と云っても上半身、特に首から上である。」頭脳を始め、目、鼻、口、耳、咽喉部等々で、これは目の醒めている間ほとんど休む事はない。特に最も神経を使うところは頭脳であろう。従って、全身の毒素は頭脳に向って不断に集溜すべく動いており、首の周囲に最も集溜するのである。それは、目、鼻、口、耳などの神経も実はその根原が頭脳にあるからである。ほとんどの人間が首の周りにグリグリや塊りが出来たり肩が凝ったりするのは皆そのためである。ところが右のごとく漸次固まった毒素が頂点に達するやどうしても健康に支障を及ぼすので、これの排除作用が始まる、これを浄化作用とも言う。造物主は浄化作用に当って巧妙を極める。それはまず最初発熱する(この熱については別の項目に詳説する)。この熱で塊りが溶けるのである。すなわち溶けて液体となった毒素は、一瞬にして肺臓内に入るや、間髪を容れず咽喉を通って外部へ排泄する。これが喀痰である。喀痰を排泄するポンプ作用が咳と思えばいい。ただし後頭部から延髄部付近の毒素は鼻汁となって鼻口から出る。そのポンプ作用が嚔(くさめ)である。咳の後には痰が出、嚔の後には鼻汁が出るにみても明かである。また、首から下の毒素は液体となって排泄される、それが盗汗(ねあせ)である。また頭痛とは液体化した毒素がいずれかの口を求めて排泄されようとし、神経を刺戟する、それが痛みである。その毒素は肺臓目がけて流入し、痰となって出るのである。何よりも吾々が頭脳を浄霊するや、瞬時に咳と痰が出、頭痛は減るのである。また節々の痛みとは、人間は常に手足を屈折するので、関節へ固まり、それの浄化が痛みである。
 右のごとく、人間の病気とは、溜った汚物の掃除である事を説いたのである。従って、実は感冒程有難いものはない。という事は、病気程有難いとも言えよう。この理によって健康不良の原因は、汚物の溜ったためで、病気という清掃作用によって浄められ健康を回復するのである。従って、病気の苦痛は、有難い苦痛なので、言わば清掃作用であるから、この苦痛を手をつけずにそのままにしておけば、はなはだしい苦痛はないのである。ところが、医学は病気の苦痛を悪い意味に解釈し、止めようとする。言い換えれば、自然に出るべきものを、出さないようにするため、自然と人力との衝突が起り、苦痛が増大する。この自然抑圧法を治病の方法と錯覚し、進歩し来たったのが今日の医学であるから、いかに誤っていたかが知らるるであろう。以上のごとく、毒素が局所に固まるや、浄化作用が起ると説明したが、これには条件を必要とする。その条件とは、毒素を排泄する活動力、すなわち浄化力である。この浄化力こそある程度の健康体、すなわち新陳代謝が旺盛でなくてはならない。これを逆に解した医学は浄化発生を停止させようとする。それには新陳代謝を弱らせなければならない。それは健康を弱らせなければならない。それは健康を弱らす事である。その方法として唯一のものは薬剤である。元来薬剤とは、実を言えば毒物である。毒だから効くのである。と云うとおかしいが、毒を服(の)めば身体が弱る。弱っただけは浄化も弱るから、それだけは苦痛が減る。それを錯覚して薬で病気が治るように思ったのが既成医学であった。薬剤に限らず、あらゆる療法も同一で、熱があれば氷で冷し、氷で冷してせっかく溶けかかった毒素を元通り固めようとしたり、絶対安静とは運動を止めるから弱らすには何よりである。病人でなくとも健康体でも数ケ月も絶対安静すれば胃は弱り、食欲は減退し、手肢は使わないから痩衰え、大病人になるのは必然である。言わんや病人においてをやである。また湿布であるがこれも弱体法である。人体は口からの呼吸以外全身の皮膚面からも毛細管を通じて呼吸をしている。それを止めてしまうのである。何よりも湿布をすれば熱は減り、その部の苦痛は軽減するという事は湿布面だけは浄化が停止されるからである。
 以上のごとくであるから、医学が行うあらゆる方法は人体を弱らせ浄化を停止させ、以って苦痛を軽減させるだけのもので、今日に至ったのであるから、病気を治すと言う意味はいささかもないのである。忌憚(きたん)なくいえば、医学とは苦痛を軽減させようとして、実は病気を重くしているのである。すなわち精神は治そうとするが行為は治さないようにしているのである。嗚呼、何と怖るべき誤謬ではなかろうか。

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病気の真因

(岡田茂吉師御論文です)


病気の真因

『明日の医術(初版)第一編』昭和17(1942)年9月28日発行

 凡そ人間が此世の生を受けるや、遺伝毒素即ち最初に述べた天然痘毒素を主なるものとして種々の毒素を保有してゐる事は前項に述べた通りである。そうして之等の毒素の支障によつて健康が完全に保持出来得ないから、体外に排泄せらるべく絶えず自然浄化作用が行はれるやうに造られてゐるのが人体である。そうして自然浄化作用が行はれる場合或程度の苦痛が伴ふので、その苦痛を称して、“病気”と名付けられたのである。此例を説明するのに一般的に最も多い病気―即ち感冒をとりあげてみよう。感冒だけは如何なる人と雖も経験しない人はないであらうからである。そうして此病気は今以て医学上原因不明とされてゐるが、私の発見した所によると之は最も単純なる浄化作用の一種である。それは先づ感冒に罹るとすると発熱・頭痛・咳嗽・鼻汁・喀痰・食欲不振・全身の倦怠感・四肢の痛苦―其他である。之はどういふ訳かといふと、不断に行はれつつある第一の浄化作用によつて、全身の各局所に溜結せる毒素が第二の浄化作用によつて排除せられんとする活動が起つたのである。
 茲で、浄化作用なるものを説明する必要があらう。抑々浄化作用なるものは、体内の不純物質ともいふべき然毒、尿毒、薬毒等が不断の浄化作用によつて漸次的に或一定の局所に集溜し、凝結するのである。そうして集溜する局所は如何なる所かといふにそれは特に神経を使ふ個所であつて、その個所は後段に詳説する事とするが兎も角右の毒結の排除作用が発生する―それが病気の初めである。故に浄化作用を二種に大別されるので、一は―体内一定の局所へ毒素が集溜凝結する作用、二は―一旦凝結した毒素を体外へ排除する作用である。故に前者の場合では未だ大した苦痛はないから病気とは思はない。併し肩とか首とかが凝るといふ事はそれであつて、次に後者である其凝りの溶解作用が起るので、それが感冒的症状である。即ち其苦痛が病気である。世間よく肩が凝ると風邪を引くといふのは右の理によるのである。
 以上説いた如く熱は毒結を排除し易からしめんが為の溶解作用であつて、其溶解されて液体化した毒素が即ち鼻汁であり喀痰である。又発汗・尿・下痢等にもなるのである。然し液体毒素と雖も尚濃度である場合、排除に困難なる為それの吸引作用が起る。それが嚔(くさめ)及び咳嗽である。嚔は鼻汁を吸出せんが為、咳嗽は喀痰を吸出せんが為の喞筒(ポンプ)作用ともいふべきものである。故に嚔の後は鼻汁が出て咳嗽の後は吐痰するにみても明かである。そうして食欲不振は発熱と吐痰と服薬の為である。又痛苦は、その局所に溜結せる毒素が溶解し液体毒素となつて排除されようとして運動を起し神経を刺戟するからである。咽喉部の痛みは、喀痰中に含まれたる毒素が粘膜に触れる為粘膜を刺戟して加答児を起すからで声が嗄れるのは右の理によつて声帯や弁膜が加答児を起し発声弁の運転に支障を来す為である。頭痛は頸部又は頭部の毒素の発熱によつて溶解した液体毒素の排除作用の刺戟である。
 右の如きものが感冒であるから何等の手当も服薬もせず放置しておけば、浄化作用が順調に行はれて短時日に完全に治癒するのである。故に感冒程容易に浄化作用が行はれるといふ事は全く天恵的ともいふべきである。此理に由つて感冒に罹るだけは毒素は軽減するのであるから、感冒を自然治癒で治せば次の感冒は必ず前よりも軽減し且つ感冒と感冒との間の期間も漸次延長し、終には感冒に罹らなくなるのである。それは、無毒になるから感冒の必要が無くなるといふ訳である。此時期に到ると稀には感冒に罹る事があつても、それは微毒であるから発熱は殆んどなく少量の鼻汁・喀痰位のもので其他の苦痛はないといつても可い位であるから、日常通り業務に携はつてゐて殆んど知らぬ間に治つてしもふものである。
 然るに今日迄の凡ゆる医学上の理論は之の反対であつて、感冒は重病の前奏曲かのやうに恐れられるのであつて昔から“風邪は万病の基”などと謂ひ、今日では結核の門のやうに恐れられてゐるのである。然し右の理に由つて、感冒は“万病を免れる因”結核に罹らぬ方法であるといふべきである。故に、感冒に罹る事は寧ろ喜ぶべき事で“感冒に罹るやうにする”事こそ何よりも健康増進の第一条件である。
 右の理に不明であつた今日迄の凡ゆる療法は感冒を恐れ感冒による苦痛を悪化作用と誤認し抑圧すべきであるとして研究されたのであるから、感冒といふ折角の浄化作用を停止しようとするのである。その方法として第一に薬剤を用ひる。元来薬剤なるものは全部毒素であつて、昔漢方の其大家は「薬は悉毒である。故に薬を用ひて病気を治すのは毒を以て毒を制するのである」と言つたが洵に至言である。
 即ち薬といふ毒物を用ひるから体内の機能を弱らす、機能が弱るから浄化作用が停止されるのである。又氷冷法も浄化作用を停止させるのであるから発熱や苦痛を軽減させる。湿布も同様である。元来人体は、鼻孔の外皮膚の毛細管を通じて呼吸作用が行はれてゐるので、湿布はその呼吸を停止させるのであるから其部の浄化作用が弱まり、苦痛が軽減するのである。此様な種々の方法は悉く浄化作用を抑圧停止させるのであるから、苦痛は軽減し病的症状が軽減して一旦は治癒の状態を呈するのであるが、それは毒素が排除された真の治癒ではなく折角浄化作用の起つた毒素を再び凝結せしめるのであつて、いはば浄化作用発生以前の状態に還元せしめた迄である。従而時を経れば再び浄化作用が発生するから又風邪を引く又停止させる復(また)風邪を引くといふやうに繰返すのである。事実そういふ人が世の中には沢山あるのは誰も知る通りである。そうして厄介な事には薬毒がその都度加はる事になるから浄化すべき毒素が倍々増加する事になる。従而漸次悪性の感冒となるのは当然である。其結果として肺炎等が起るのである。
 元来肺炎といふ病気は浄化作用の強烈なものである。それは感冒の重症であると言つても可いのである。前述の如く小浄化作用である感冒を抑圧するから其都度毒素が蓄積増大され、それが一時に反動的に大浄化作用となつて現はれるのである。
 右の如く其根本に於て誤謬から出発した現在迄の医学である以上、医学が進歩すればする程病者は殖え体位は低下するのは当然の理である。故に、医学の進歩とは病気を治癒させる進歩ではなく、「病気を治癒させない進歩である」といへよう。人口増加率減少も其主因は女子姙孕率の低下である事は学者も認めてゐる所である。乳幼児の死亡も結核の増加も現在の医学の誤謬に因る事は勿論である。
 次に第二の人口増加率低減と死亡率減少と平行するといふ事はどういふ訳かといふと斯ういふ理由によるのである。欧洲文明国に於て近年伝染病や肺結核が漸減したといふ事は社会衛生の進歩に由るとされてゐるが、それは一部の理由であつて全般的理由ではないのである。勿論衛生施設の完璧が或程度奏効した事にもよるであらうが、それよりも根本原因は体力低下の為である。体力が低下した為に伝染病は減るといふと摩訶不思議なやうに思ふであらうが事実は斯うである。元来伝染病及び結核等は体力旺盛に因る浄化作用の強烈な為であるから、体力が低下した民族は浄化作用が強烈に発生し得ないのは当然である。支那民族に伝染病の多いといふ事は衛生に無関心であるといふ事よりも体力強盛が原因であるといふことになるのである。
 右の理論を推進めてゆくと斯ういふ事になる。今判り易く人間を三種に分けてみよう。即ち第一種の人は完全健康体で無毒であるから病気が起り得ないのである。第二種の人は有毒者にして体力強盛なるが為浄化作用が起りやすいといふ人(此種の人が大多数である)第三種の人は有毒者であつても体力劣弱なる為浄化作用がおこり得ない。起つても微弱である。唯此種の人が運動等によつて体力が幾分強盛になつた場合おこるのである。故に斯ういふ人は早速薬剤を用ひて安静にすれば還元するから一時恢復するのである。之等の人は過労を避けようと勉めるものである。
 然るに、今日の医学は右の理に不明であるから、第二種の人を第三種にしようとするのである。其例として、都会の児童や医師の子女即ち最も医師に触れる機会のある者ほど弱体者であるといふ事実と、今日の医学衛生の理論を忠実に守る青白いインテリの多いといふ事は何よりの実證である。尤も第二種の人を第一種に改善しようとしても其方法は現代医学では不可能である。
 そうして死とは如何なる理由によるのであるかといふと、古来何人と雖も病気によつて死ぬとされてゐるが、実は病気に因つて死ぬ事は極稀であつて大部分は“病気を抑圧するから死ぬ”のである。何となれば再三説いた如く、浄化作用へ対して抑圧方法を行ふから毒素は排除されないで還元しその上薬毒が加はる、そうして浄化作用との衝突を繰返す。それが衰弱を増進させ終に生命を失ふまでになるのである。
 今一つの理由として、文化民族に於ては医療施設が完備せる為発病の場合直ちに医療を行ふので、それが右に説く如く浄化停止と薬毒追増となるから体位を衰耗させる。然るに非文化民族は発病の場合、殆んど放任して自然治癒に任せるから完全に浄化作用が行はれる。それが体位強盛の原因となるのである。
 故に其結果として文化民族は体力が低下する。低下するから浄化作用微弱となり発病の機会が少くなる。少くなるから死亡率が低いのである。此反対に今日の文化民族が未だ浄化作用が旺盛であつた時代は発病の機会が多い、多いから医療を受ける。医療は逆効果であるから死亡率が高いといふ事になるのである。之が体力の強盛であつて出生率が高い時代は死亡率が多いといふ真因なのである。
 然乍ら、現代医学の功績は相当ある事は認めない訳にはゆかないが、其功績に何倍する程の誤謬もあるといふ事が人口問題や其他の原因となつたのである。そうして其誤謬なるものが如何に驚くべく怖るべきものであるかをあらゆる角度から検討してみよう。
 そうして人口問題解決に就てはその根本原因たる“種痘”の廃止とそれによる天然痘毒素の解決にある事は言ふまでもないが、それは別の項目に譲る事として次に肺結核と乳幼児死亡の問題を説く事にしよう。

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病気を治す薬は一つも無い

(岡田茂吉師御論文です)


病気を治す薬は一つも無い

『新日本医術書』昭和11(1936)年4月21日執筆

 薬では、病気が治らないという事は、医家自身も常に痛感している事であろう。しかし、ただ、苦痛を緩和する効果はある。要するに、病気を弾圧するか、又は、麻痺に寄〔依〕って一時苦痛の感受を軽減し得るだけの事である。薬剤とは、それ以外の何物でもないのである。しかしながら、常に私も言うごとく、苦痛とは病気治癒工作の過程であるから、苦痛緩和はそれだけ、病気治癒を遅らす道理である。のみならず、それに、薬剤の余毒が伴うのであるから、二重の不利を受ける訳である。実に薬剤による血液の汚濁は恐るべきものであって、それは、いかなる薬剤といえども、多少の血液汚濁は免かれないのである。
 血液汚濁の害としては、浄化力を衰耗させる結果、著しく活力を減退さす事である。故に、その結果として、病気に罹り易くなり、病気治癒の力が弱まるのである。それは、濁血程殺菌力が無いからである。
 かくのごとく、薬剤なるものは病気治癒を遅らせる事と、血液を汚濁させる害がある以上、他面、苦痛を緩和させるという益と比較してみる時、それは、害の方がはるかに優っている事を知らねばならないのである。
 しかるにも不拘(かかわらず)、近代人は無暗に薬剤を用いたがる。それは全く薬剤の害を知らないからであるから、一日も早くこの理を知悉(ちしつ)させなければならないのである。近代人の罹病率や短命の多きと病気治癒の遅々たる事実は、少くともこれが原因である事は、争う余地が無いのである。
 二六時中、薬餌に親しみながら、これという病気もなく、といって健康にもならないという人は、大抵皆、薬剤中毒患者と言ってもよいので、そういう人は薬剤使用を廃止すれば、漸(ぜん)を逐(お)うて健康は恢復するのである。
 私は大いに叫びたい。国民保健は、薬剤廃止からである……と。
    (昭和十一年四月二十一日)

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病気とは何ぞや・アメリカを救う

(岡田茂吉師御論文です)


病気とは何ぞや・アメリカを救う

『栄光』179号、昭和27(1952)年10月22日発行

アメリカを救う

 私は標題の著書を目下執筆中であるが、左の一文はその中の一項目で、参考になると思うから、載せる事にした。

病気とは何ぞや

 序論にもある通り、現在米国における病気の漸増は何がためであるかを、その根本から説いてみるが、まず病気なるものの発生原因であるが、驚くなかれ病気というものは医療が作るのであって、特に薬剤がその中心をなしているという事実である。つまり病気を治し、病人を減らそうとするその方法が、反対に病気を治さないようにし増やしているという、到底信じられない程の迷盲である。そうしてこれは説明の要のない程明らかであるにかかわらず、それに気が付かないのであるから、全く二十世紀の謎といってもよかろう。それどころか益々医学に信頼し、これを進歩させれば病気は解決出来るものと固く信じているのである。ではそのような不可解な原因はどこにあるかというと、それは医学の考え方が逆になっており、病気をもって悪い意味に解釈しているからである。それをこれから徹底的に解説してみよう。
 本来人間なるものは、生まれながらにして例外なく先天性毒素と後天性毒素とを保有している。先天性毒素とは無論親からの遺伝であり、後天性毒素とは生まれてから体内へ入れた薬毒である。というと何人も意外に思うであろう。何となれば昔から薬は病気を治すもの、健康を補うものとの観念が常識となっていて、良い薬さえ出来れば病気は解決するものと信じ、それを医療の主眼としているからである。特に米国は薬に最も重点を置き、新薬発見に非常な努力を払っているのは誰も知る通りである。ゆえにもし薬で病気が治るとしたら、病気は漸次減らなければならないはずであるのに、逆に益々増えるのはどうした訳か、これ程理屈に合わない話はあるまい。元来薬というものは、地球上ただの一つもないのであって、ことごとく毒物であり毒だから効くのである。それはどういう意味かというと薬という毒の作用によって病気症状が減るから治るように見えるので、実は治るのではないのである。
 では薬がなぜ毒物であるかというと、そもそも人間が口へ入れるものとしては、造物主が人間を造ると同時に生を営むべく用意されたのが食物である。そうして食物にも人間が食うべきものと、食うべからざるものとは自ら別けられている。すなわち食うべきものには味を含ませ、人間には味覚を与えられているのであるから、人間は食いたいものを楽しんで食えば、それで栄養は充分摂れるので、これだけを考えても造物主の周到なるは分るはずである。この意味において生きんがために食物を摂るというよりも、食物を摂る事によって生きてゆけるので、ちょうど生殖と同様子を得る目的で男女が営むのではなく、別の目的の営みで偶然子は授かるのであるから、神秘極まるものである。
 右のごとく人間の体内機能は、食物として定められた物以外の異物は完全に処理出来ないようになっているので、薬は異物である以上含まれている栄養分だけは吸収されるが、他は体内に残ってしまう。これが薬毒であって、しかも厄介な事にはこれが各局部に集溜し、時の経つにつれて固結してしまう。その集溜個所としては神経を使うところに限られている。神経を使うところといえば、もちろん上半身特に首から上で、頭脳を中心とし眼、耳、鼻、口等であるから、そこを目掛けて毒素は集中せんとし、一旦頸の周りに固結する。いかなる人でも頸の周り、肩の辺に必ず固結をみるであろう。これが凝りであって、ある程度に達するや自然排泄作用すなわち浄化作用が発生する。その場合発熱によって毒結は溶けて液体となり、咳、痰、鼻汁、汗、下痢、熱尿等になって排除されようとする。これを名付けて感冒というのである。
 ゆえに感冒とは毒素排除の過程であるから、少し苦しいが我慢して自然に委せておけば順調に排泄され、体内は清浄化し治るという実に結構なものであるから、感冒とは全く簡易な生理作用で、神の摂理であるから、大いに感謝すべきであるにかかわらず、それを知らない人間は、この浄化の苦痛を反って悪い意味に解釈し、これを止めるべく考え出したものが医療であるから、いかに間違っているかが分るであろう。そうしてこの浄化作用なるものは、人体の活力が旺盛であればある程発り易いので、これを停めるには人体の活力を弱らせるに限る。そこで薬と称する毒を用いたのである。昔から草根木皮、鉱物、動物の臓器等から探り出し、煎じたり、粉末にしたり、抽出したりして水薬、丸薬、塗布薬、注射薬等色々な形にして浄化停止に応用したのである。それには毒が強いと生命に関わるから、微弱にして、少しずつ服ませる。このため一日何回などと分量を決めたので、よく効く薬とは中毒を起さない程度に毒を強めたものである。
 このように薬毒をもって溶解排除せんとする毒素を固めて来たので、今日の人間がいかに有毒者であり、病気が起り易くなっているかは、近来予防衛生などとやかましく言ったり、感冒を恐れるのもそのためである。また人間の寿命にしても六十余歳となったといって喜んでいるが、これも大変な誤りである。というのは人間病さえなければ百歳以上は楽に生きられるのに、百歳以下で死ぬのは病による不自然死のためで、無病となれば自然死となる以上、長生するのは当然である。右のごとく医療とは病を治すものではなく一時的苦痛緩和手段で、そのための絶対安静、湿布、塗布薬、氷冷、電気、光線療法等々すべての療法は固め手段ならざるはないのである。その中に一、二異(ちが)うのは灸点と温熱方法であるが、これも一時的熱の刺戟によって、その個所へ毒素を誘導させるので、楽にはなるが時間が経てば元通りになるから何にもならないし、またラジウム放射で癌を破壊する方法もあるが、これも癌だけの破壊なら結構だが、実は組織をも破壊してしまうから、差引プラスよりマイナスの方が多い訳である。
 以上のごとく現在までの療法という療法は、徹頭徹尾固め方法であって、治す方法とは毒素を溶かして排除させる以外決してないのである。何よりも医師は治すとは言わない。固めるというにみて明らかである。しかも固め方法の内最も有効なものが薬であり、その薬が病原を作るのであるから、医療を受ける程余病が発り易く悪化するのは当然である。その結果ついに生命の危険にまで及ぶのである。それについてこういう事がある。治そうとして熱心に高貴薬など用いる患者程成績が悪く、その反対にどうでもいいと思う患者程治りがいいという話は、医師からよく聞くところである。また衛生に注意する者程弱く、無頓着の者程健康である事や、医師の家族や病院の看護婦などが多病であるのもよく聞くところである。面白い事には稀な健康者、長寿者に訊いてみると、自分は病気した事がないから、医師や薬の厄介になった事はないなどというが、吾々からみればそれだから健康であり、健康だからそうであるので、この点大いに味わうべきである。

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毒素とは何か

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毒素とは何か

未発表『医学革命の書』昭和28(1953)年執筆

 病気の原因は体内に溜った薬毒の固結が、溶解排除される苦痛である事と、医学はその苦痛を逆解し、溶けようとする毒素を固める事であるが、それには毒を体内に入れて弱らす事である。というのは毒素排除すなわち浄化作用なるものは、人間が健康であればある程旺盛なものであるからである。そこで浄化作用を停止する事で、それには健康を弱らす事である。その理を知らない人間は、昔からその毒を探し求め飲ませたところ、からだが弱り、浄化が弱り、苦痛が軽減したのでそれで治ると思い、有難いものとして薬と名付け、病気の場合これを唯一のものとして用いたのである。これについて有名な漢〔蘭〕方の名医杉田玄白のいった事は、「薬は毒である。治病に薬を飲ませるのは、毒をもって毒を制するのだ」との言葉は至言である。ただいささか徹底しない点は、毒をもって毒を出さないようにするといった方がなおハッキリする。この理によって毒の排除を止めるに毒をもってする以上、古い毒素の上に新しい毒素を追加するので、古い毒の固りの外に新しい毒の固りが増えるから、最初より浄化が悪性となる。それに対しまた新しい毒を入れるから、段々毒が増えてゆき、からだは弱る上に弱るので、浄化の力も弱くなる。こうなった人は顔色悪く、風邪引き易く、元気なく、常に医者と薬に浸りきりになり、生ける屍のごとくなって、年が年中苦しみ通しであって、一人前の仕事など到底出来ない哀れな者である。しかもそうなってもその原因が分らないから、相変らず次から次へ医師を取換え、新薬を探し求め、灸や禁厭(まじない)、民間療法、信仰等に遍歴しているが、それでも根本が分らないため、散々金を使った揚句(あげく)、苦しみながらあの世行となるので、この因はといえば医学の誤りであるから、この罪悪こそ驚くべく恐るべきもので、結果からいえば医学は悲劇の製造元であるといってもいい。
 このように私は思い切って赤裸々にかいたが、これを読んだ医学関係者は何と思うであろう。中には憤慨する者もあるであろうが、全人類救済上止む事を得ないので、小の虫を殺して大の虫を助ける訳であって、これこそ神の大愛によるのであるから、むしろその恩恵に感謝すべきである。その結果病なき人間が増えるとしたら、この世界はどうなるであろうか。今までの地獄世界は一転して、地上天国、極楽世界となるのは必然で、想像するだに歓喜幸福の希望が湧くであろう。

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薬毒の種々相

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薬毒の種々相

未発表『文明の創造』昭和27(1952)年執筆

 あらゆる病原が薬毒である事は、充分納得出来たであろうが、単に薬毒といっても、非常に多くの種類がある以上、それによる症状も自ずから千差万別であるのは言うまでもない。それらについて詳しく書いてみよう。
 まず洋薬であるが、これにも服薬、注射、消毒薬、塗布薬等種類があるから、まず服薬から取上げてみるが、これは昔から一番多く用いられており、その種類も何千何万あるか、数え切れない程あって、気が付いてみればこれらもおかしいのである。なぜなれば、いかなる病気といえども、その原因は一つであって、その現れ方の局部によって、種々なる病名が付くのであるから、本当から言えば、効く薬ならたった一つでいい訳である。ところが右のごとく多数あるという事は、全く真に効く薬がないからである。
 そうして口から服む薬は、強すぎると口が荒れたり、中毒したりするから、大いに弱めたと言いながら、何しろ一日数回で何日、何十何百日も服むとしたら、幾ら少ない毒素でも相当の量に上るのである。そうして面白い事には洋薬による苦痛は鋭い痛み、痒み、高熱、麻痺等すべて強烈であるが、漢薬の苦痛は鈍痛、重懈(おもだる)さ、微熱等で緩徐(かんじょ)的である。また疫痢に対する蓖麻子油(ひましゆ)とか、便秘に用いるカスカラ錠とか、その他色々な新しい薬もあるが、なるほど一時は効くが結局は悪くなる。下剤も糞便処理の機能を弱らせるから、一層便秘する事になる。また下剤を服む、便秘するというように鼬鼠(いたち)ゴッコになり、ついに慢性便秘症となるのである。しかも僅かずつでもその薬毒が溜る以上、他の新しい病原となるが、このための病気は腎臓が多い。また腸を掃除するといって下剤を服ませるが、これなども実に馬鹿馬鹿しい話で、掃除はチャンと腸自体が具合よくするのだから、余計な事をして妨害するからいい訳はないのである。言うまでもなく不潔不必要なものが溜れば、腸は下痢にして出すように出来ている。疫痢なども私の長い経験上、蓖麻子油を服まさない方が結果がいいのである。ここで浣腸についても注意したいが、これも非常に悪い。ヤハリこれも下剤と同様、腸の活動を鈍らせるからである。考えてもみるがいい。糞便という汚物が溜れば、自然に肛門から出るように出来ている。それだのに外部から誘導して出すなどは、何たる反自然的行為であろうか、考えるまでもなく駄目に決まっている。またよく解熱手段として浣腸を行うが、これは熱と糞弁とは何ら関係ない事を知らないからである。以前こういう患者を扱った事がある。それは三歳の男児で、腹が太鼓のようになっている。訊いてみると生まれて早々から浣腸を続けて来たので、段々癖になり、浣腸をしなければ便が出ないようになってしまったので、つい悪いと知りつつも、余り苦しがるので止める事が出来ないというので、私は医学の無智に呆れたのである。今一つは医学は便秘すると自家中毒を発(おこ)すとよく言われるが、これなども全然意味をなさない。医学は便が溜ると、便毒が身体中に廻るように想うのだろうが、実に滑稽である。便はどんなに溜っても便の袋以外に滲出するものではない。溜れば溜る程段々固くなるだけであるから、何程溜っても健康にいささかも支障はないのである。私の経験から言っても、一、二ケ月くらいはザラで、酷いのになると半ケ年も出ない者があったが何ともなかった。以前ある婦人雑誌に出ていたが、二ケ年もの人があったそうだが、何ともなかったという事である。これで見ても便秘は心配ないのである。
 次に寒〔感〕冒、結核、胃、腸等に関する薬剤は既に述べたが、その外脳に対する鎮静剤、点眼薬、含嗽(うがい)薬、利尿剤、毒下し、温め薬、強壮剤、増血剤、風邪引かぬ薬、咳止、痛み止等々あらゆる薬剤は、ことごとく病気増悪の原因となっても、病気を治し得るものは一つもないのである。それについて種々な実例を示してみるが、まず頭脳に用いる鎮痛剤など、一時はちょっと効果を見せるが、ついには癖になって、知らず識らずの裡にその余毒が溜り、種々な病原となる。また点眼薬は最も不可で、目星等でも固めてしまうから、反って治り難くなる。また世人は知らないが、点眼薬はトラホームの原因ともなるから注意すべきである。これは点眼薬にもよるが、事実は眼瞼(まぶた)の粘膜へ薬毒が滲透し、年月を経て発疹となって出ようとするからである。また悲しくもないのに常に涙の出る人は、点眼薬が時を経て涙に変化したものであるから、出るだけ出れば自然に治ってしまう。ところが医学は涙嚢(るいのう)の故障等というが見当違いもはなはだしい。また目脂(めやに)は前頭部の毒素または眼の奥の浄化によって排泄されるものであるから非常にいいので、何よりもいかなる眼病でも目脂が出るようになれば必ず治るのである。
 次は鼻薬であるが、鼻薬の中、特に恐るべきはコカイン中毒である。よくコカインを吸う癖の人があるが、一時爽快なので止められなくなり、長い間に脳を冒して、夭折する人も少なくないが、特に芸能人に多いようである。
 次に含嗽薬であるが、これは極稀薄な毒ではあるが、始終用いていると、口内の粘膜に滲透し、毒素となって排泄する時、粘膜が荒れたり、加答児(カタル)を起したり、舌がザラザラしたり、小さな腫れ物等出来たりするから廃めた方がいい。特に咽喉を使う芸能人には最も悪い。また一般水薬についても同じ事が言える。長い間にヤハリ粘膜から滲透した薬毒は右と同様になるが、薬が強いため悪性である。しかも意外な事には舌癌もこれが原因である。ところが医学は薬で治そうとするから、病を追加する訳である。また薬入り歯磨等も、歯を弱める事はなはだしいのである。
 次は塗布薬であるが、これも仲々馬鹿にはならない。塗布薬の毒素が皮膚から滲透して、種々の病原となる事がよくある。以前こういう患者があった。最初身体の一部に湿疹が出来たところ、医師は悪性として強い塗布薬を塗ったので、段々拡がり二、三年の内には全身に及んでしまった。それまで有名な病院に掛っていたが、もう駄目だといわれ、私の所へやって来たのであるが、私は一目見て驚いたのは、身体中隙間もなく紫色になっており、ところどころに湿疹が崩れ、汁が流れており、痒みよりもそれを打消す痛みの方が酷いそうで、夜もろくろく眠れないという始末なので、流石の私も見込みないとして断ったが、それから一、二ケ月後死んだそうである。
 またこういう面白いのがあった。この患者は肩や背中が凝るので、有名なある膏薬を始終貼っていたところ、長年に及んだので、膏薬の跡が背中一面幾何学的模様のようになってしまい、いくら洗っても落ちないという事であった。それは膏薬の薬毒が皮膚から滲透して、染めたようになってしまったので、しかも絶えず相当痛みがあるので、私も随分骨折ったが、余程強いためと見えて、一年くらいで大体治ったが、たかが膏薬等と思うが、決して馬鹿にはならない事を知ったのである。
 今一つ全然世人の気のつ付かない事がある。それは有名な仁丹(じんたん)で、この中毒も相当なもので、これは幾人もの例で知った事だが、仁丹常用者は消化機能が弱り、顔色も悪く病気に罹り易くなる。今日問題となっている麻薬中毒の軽いようなものである。
 ここで、薬毒中の王者ともいうべきものを一つかいてみるが、それは彼の駆黴剤としての六〇六号、一名サルバルサンである。これは砒素(ヒソ)剤が原料となっているくらいで、耳掻一杯で致死量となる程の劇薬であるから、浄化停止の力も強いので、梅毒の発疹等にはよく効く訳である。もちろん浄化によって皮膚へ押し出された発疹であるから、一度サルバルサンを注射するや、症状はたちまち引込むという訳で、一時は綺麗になるが根本的ではない。これは医学でもサルバルサンは一時的で、他の駆黴療法をあわせ行わねばならないとしている通りである。これについて私は大発見をした。というのはサルバルサンの薬毒は頭脳に上り易く、上ると意外にも精神病になる事が多いのである。すると医診は梅毒が脳に上ったと思うが、何ぞ知らん、実際はサルバルサンが脳を犯〔冒〕したのである。これは専門家諸君においても、この理を心得て充分研究されたら分るはずである。
 次に、一般注射についての誤った点であるが、注射といえども一時的浄化停止であるから、効力も一定期間だけであるが、副作用がなければ結構だが、その余毒は他の病原となるから厄介である。そうして近来伝染病に対し、それぞれの予防注射を懸命に行っているが、遺憾ながら伝染病の根源は不明であり、治す方法もないから、止むを得ないとしても、予期の効果は仲々得られ難いのである。ところが我浄霊法によれば梅毒も伝染病も、至極簡単に治るのだから、これが一般に知れ渡ったとしたら、予防注射の必要等は全然なくなり、大いに助かるのである。ここで予防注射による弊害をかいてみるが、まず予防注射による薬毒の悪影響が、最も明らかに表われるのは、膝から下に小さな腫物が出来る事である。これも放任しておけば、ある程度腫れて自然に穴が穿き膿化した注射薬が出て治るのであるが、それを知らない医学は、塗布薬を用いたり、切開したりするので長引く事になる。しかも注射によっては、脱疽やひょう疽の原因ともなり、指を切られる事さえある。しかも運の悪い人は、それが因で生命にまで及ぶ事さえ往々ある。以前私はそういう患者を扱った事がある。四十歳くらいの人妻で、注射の薬毒が足首へ垂れて、腫物となったところ、医療は切開したので仲々治らず、益々悪化し激痛も加わり、拡がって行くので、医師は足首と膝との中間を切断するより方法がないというので躊躇(ちゅうちょ)していたところ、私の話を聞き訪ねて来たのである。なぜそれ程悪化したというと、全く切開後使用した消毒薬のためである。
 ここで、消毒薬について説明してみるが、これは薬毒中最も恐るべきものである。元来消毒薬とは殺菌力が非常に強いので、中毒を起し易く、しかも手術の場合、直接筋肉に滲透するから、なおさら影響も大きい訳である。ゆえにこれがため種々の病原となるので、この理と実際とを、医家は照らし合せて貰いたいのである。
 右の例として、今も記憶にまざまざ残っているものにこういうのがあった。七、八歳の女児、珍しい病気との事で、その家に招かれたところ一目見て驚いたのは、患者は右側の唇から頬へかけて、鶏卵大くらい頬が欠損していて、歯茎まで丸見えである。もちろん食物を口へ入れても出てしまうから、僅かに牛乳を流し込むようにして、漸く生きているという始末である。その原因を訊いてみて二度吃驚した。というのは最初口辺に小豆粒くらいの腫物が出来たので、医師に診て貰うと、これは水癌という非常に悪性なものだから、強い薬で焼いてしまわなくてはいけないと言って、そのようにしたところ、一週間で右のごとく焼け切れたというのである。察するに消毒薬ではないが余程強い薬であったためであろうが、手のつけようがないので、私は断って帰ったが、それから一ケ月程経って死んだとの事であるが、これらも実に考えさせられるのである。
 そうして、注射薬にしろ消毒薬にしろ、目方の重い軽いがあって、重い程下降し、最も重いのは膝から下、足の裏まで垂れて来て固まる。そうなると足の裏が痛くて地につけないで歩行困難となる。また薬によっては下降して膝から下に溜り、痺れるので脚気とよく間違えられる。その他神経痛、リョウマチスの原因も薬毒であるから、私は何よりもまず薬毒の恐るべき事を、専門家に自覚させたいので、これだけでも人類に与える福祉は蓋(けだ)し計り知れないものがあろう。

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薬毒

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薬毒

自観叢書10編『神示の健康法』昭和25(1950)年4月20日発行

 前項のごとく今日まで、病気の浄化作用を知らず、それを固める事のみ専念したが、固めるという事はもちろん浄化発生以前に還元させる事で、本当の事が判った眼からみれば愚の一字に尽きるのである。もちろん自然は毒素を排除しようとするのを一生懸命に排除させまいとする事を治る方法と錯覚したのであるから全然反対であった。したがって今日までの医学は健康者にしないように一生懸命骨折って来た訳である。しからばどうしてそのような誤謬に陥ったかというと、浄化は苦痛が伴うので薬剤を使用すると、苦痛が幾分か緩和するから、これで病気が治ると思ったのである。一言にして言えば、一時的効果に眩惑され、知らず識らず医の本道を踏違え今日に至ったのであるから、薬剤を唯一のものと思ったのも無理はなかったのである。これがため長い間薬剤本位に進んで来た医学は、真の医道ではないから治りそうで治らないため次々新薬が出来る。この結果現在薬の種類の多い事は恐らく何百何千に上るであろう。しかも今もって新薬の出現が絶えないのは右をよく物語っているのである。
 右のごとく薬剤迷信に陥った医学であるから、今日吾々が病気の原因が薬剤のためである事を説いてもあまりの意外に到底信じ得られないのである。
 よく言う言葉に、薬はいくら服んでも注射してもさっぱり効かないとは長い病人のいつもいう言葉であるが、これを聞く毎に私はこう答えるのである。薬が効かないなどとはとんでもない間違いである。効かないものなら心配する必要はないが、実は効き過ぎるくらい効くのである。というのはよく効くのではなく悪く効くのである。すなわち薬は病気を作るからで、もし人間が薬を用いなくなれば病気は消滅してしまうであろう。とすれば人類史上これ程意外であると共に大問題はあるまい。これによって私は薬毒を知らしめる事が、まず人類救済の第一歩であると信じ徹底的に説くのである。
 したがって、この地球上に薬というものは一つもない。全部毒である。毒によって人体を衰弱させ、浄化停止される程よく効く薬という訳である。私はいつも言うが新薬を造って金儲けをするのは訳はない、それは死なない程度の毒の強い薬を造ればよく効くから最も効果ありとされ、流行薬となる事請合である。以上の理によって今後といえども何程新薬が出現しても真に病気を治し得るものは一つもない事を断言してはばからないのである。近来注射が流行るが、服めば中毒を起す程の強烈な毒薬であるから服む薬よりよく効く訳である。
 そうして薬毒によって一時的苦痛緩和の結果はどうなるかというと、その薬毒は人体に残存するのである。ところが医学では副作用のある薬毒もあるにはあるが、薬毒はすべて消失するというのであるが、これほどの間違いはない。それは薬毒発見までに医学は進歩していないからである。何となれば、人体の消化器能は天与の食物のみに限定されており、それ以外の異物は処理されないように出来ているからである。実に造化の妙は自然の二字に尽きるので、処理され得ない異物である以上、薬毒はほとんど残存する。それが時日を経るに従い、各局所に集溜し固結する、これがあらゆる病原となるのである。
 何よりも医療を受ける程病気は殖え次第に悪化するにみて明らかである。また余病発生という事もそのためである。すなわち一の病気を治そうとして二となり、三となるというように病気が殖えるのは、医家も常に経験するところであろう。もし真に薬剤で治るとしたら三の病が二となり一となり零となるべき順序ではないか、この判り切った事に今まで気がつかなかった事は実に不思議というべきである。
 右の理によって罹病するや、放任しておけば大抵は治るものである。もし容易に治らないのは薬毒多量のためであるから、そのような場合気永にすれば漸次治癒に向かうのは当然である。ところがその理を知らない医学は、人為的に治そうと骨を折れば折る程逆効果となり、漸次重体に陥り死にまで至るのである。
 嗚呼、医学の誤謬たるや何と評すべきか言葉はないのである。今日まで数千年間この理を知らなかったため何億の人間が犠牲になったかは計り知れないであろう。しかるに私がこの発見をしたという事は、時期到って神が人類救済のため、私を通じて公開されたのである、という事はいよいよ人類の理想である病無き世界がここに実現するのである。
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薬毒

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薬毒

『明日の医術(初版)第一編』昭和17(1942)年9月28日発行

 今日迄、西洋医学に於ては二千五百年以前ヒポクラテス創始の医道以来、又支那の医祖伏羲が、五千年前創始せられた医道は固より其他幾千万の病気療養の方法は尽く浄化作用停止又は一時的苦痛軽減の方法以外には出でなかつた事は再三述べた通りである。そうして最も効果ありとしたものが、薬剤療法であつた。
 そうして薬毒なるものは、啻(ただ)に浄化作用停止だけではなく、その人間の健康に及ぼす悪影響は実に想像されない程の恐るべきものがある。私の長い経験によれば、凡ゆる痛苦は悉く薬毒の結果であつて、痛みも発熱も不快感も疲労も神経衰弱も原因はそれであり、全身的新陳代謝の衰耗も機能の弛緩も咸(ことごと)く薬毒の結果である。従而、人間の健康の良否も病気の軽重も“薬毒の多寡に因る”といふも過言ではないのである。
 今日迄、人間が一度病気に罹るや、浄化作用を薬毒によつて停止するが、それ以外、薬毒なる新しい毒素を追増するのである。その例として、何よりも周知の事実は、医師が医療を行ひつつ、余病が発生するといふ事である。最初の病気を治癒する目的であるに拘はらず、第二第三の病気が発生するといふ事は甚だ不合理ではあるまいか。即ちその療法が適正であるならば、最初の病気が軽減しつつ余病など発生すべき訳はない筈である。即ち拾の病気と仮定して、時日を経るに従ひ、九となり八となり七となるやうに、漸次軽減しなければならない筈である。然るに何ぞや治療を施しつつあるに関はらず、十一となり十二となり、十三となる―といふやうに増加する不可解極まる事実である。之に対し、患者も医家も、何等の疑念を起さないのであるが、これは全く、医学が一種の迷信化するまでに到つたためであると思ふのである。
 故に、私は斯う想像するのである。日本人が薬剤使用を全く中止し拾年経たなら恐らく病人は半減するであらう。従而日本人の寿齢は延長し、数十年を経るに於て平均寿齢八拾歳位は易々たるものであらう。何となれば短命とは病気に因る死であるからである。所謂不自然死である。病気が減少すれば自然死が増加する。自然死といへば、少くとも九拾歳以上でなければならない筈である。又人間が死に際会して苦痛が伴ふといふ事は、天寿ではないからであつて、天寿を全うして死ぬといふ場合は、例へば樹木が樹齢尽きて自然に仆(たお)れるが如く、聊かの苦痛もないのが当然である。そうして死の苦痛の原因は何か、言ふ迄もなく、薬剤其他の方法によつて浄化作用の停止を行ふからである。即ち自然である浄化作用を、不自然なる抑止をする―その摩擦が苦痛となるのであつて、而も、衰弱し切つた肉体であるに於て、苦痛は倍加するといふ訳である。
 古から“人は病の器”といふ言葉があるが、之は大いに謬つてゐる。実は“人は健康の器”であり、健康が原則であらねばならないのである。神は人間をして、神の理想を此地上に顕現せんが為に生ませられたものである―と私は信ずるのである。従つて、其使命を遂行するに於て不健康であつてはならない。故に不健康といふ事は、人間が何等かの過誤即ち神の摂理に反してゐるからで、その過誤の最大なるものが“薬剤使用”である。
 次に、今一度私の事を言はして貰はう。元来私自身は、生れながらにして頗る虚弱者であつたから、四拾歳位までは、人並以上の薬剤崇拝者で、殆んど薬びたりといふ程で、それまでは、健康時より罹病時の方が多かつたのである。然るに会々(たまたま)或動機によつて薬毒の恐るべき事を知り、断然廃(や)めたのであつた。それから年一年健康に向ひ、二拾数年後の今日では、実に壮者を凌ぐほどの健康体である。又私の家族十数人も、今日稀にみる健康体の者ばかりである。其他私の説を信じ、それを実行してゐる人達は例外なく、年々健康になりつつあり、健康家族が造られつつあるに察(み)ても、疑ふ余地はないのである。
 私は爰で、今一つ重大な事を述べなくてはならない。それは薬毒保有者は、左の如き悪影響を受ける事であつて、それが多量ほど甚だしいのであるが、世人は全然気が付かない事である。
 一、常に不快感のある事。
 二、頭脳の活動が鈍くなる事。
 三、身体の動作が弛緩する事。
 右の三項目に就て詳説してみよう。
一、の不快感は、薬毒集溜個所に微熱があるから、局部的又は全身的に悪寒があるので、常に普通以上寒がるのである。又、何事を為すにも億劫(おっくう)がり、寝る事を好み物に倦(あ)き易く長く一つ事に携はる事が出来ないのである。そうして物事の解釈は凡て悲観的となり、常識を欠き、陰欝を好み、従而、晴天の日より雨天の日を好むのである。又腹立ち易く、甚だしいのは自暴自棄的になつたり、又常にクヨクヨとして、些かの事も気にかかり、ヒステリー的ともなり、自分で間違つてゐる事を知りながら、どうする事も出来ないといふ状態で、又それを煩悶するといふ事になり、最も甚だしいのは厭世(えんせい)的となり、廃人同様となる人さへある。
 一家に斯ういふ人が出来ると、他の者まで影響を受けて、家庭は暗く、争ひの絶間がないので、人生の幸福を得る事は到底期し難いのである。
二、現代人は非常に頭脳が鈍くなつてゐる。従而、記憶の悪い事も夥しい。故に、今日重要なる地位にある人の講演が、殆んど原稿なしではやれないといふやうになつてゐるが以前は原稿を持つ事は恥のやうにされたといふ事を聞いてゐる。
 幕末期、彼の杉田玄白や高野長英等の人々が蘭学を飜訳するに当つて、参考書も碌々ないのに兎も角やり遂げたといふ事は、余程頭脳が良かつたに相違ないと思ふ。現代人にはそういふ人は殆んどないであらう。又弁慶が安宅(あたか)の関に於て、白紙に向つて勧進帳を詠んだ如き、稗田阿礼があれ程浩瀚(こうかん)な古事記全巻を記憶してゐた如き実に日本人の頭脳の優れてゐる事は、世界無比であらう。
 又、現代人は簡単明瞭な所説では、充分頭へ入らないやうである。諄々(くどくど)しく、微に入り細に渉り、又種々の例證を挙げて説かなければ、会得が出来ないやうである。本来、頭脳の良い人は、一言でその意を悟り得るのである。昔の諺に“一を聞いて十を知る”といふ事があるが、現代人は“十を聞いて一を知る”のが関の山であらう。又、実際よりも理論を重んずる傾向があり、その為に、医学なども理論に偏し、実際を無視したがるのである。
 又、政府が新しい施設や政策を行ふ場合、国民に対してラヂオや新聞やポスター等、これでもかこれでもかと宣伝に努力しても、国民が速かに理解し実行しないといふ事実は全く今日の国民全般の頭脳が鈍くなつてゐるからであると惟ふのである。
三、現代人の動作の遅鈍なる事は、また甚だしいのである。之は、国民の大部分がそうであるから気が付かないのである。特に、都会人の歩行の遅い事は驚く程である。之は身体が鈍重である為である。
 昔の武士や武芸者等が、咄嗟(とっさ)の場合、飛鳥の如く身をカワしたり、又飛脚屋が一日二十里を平気で日帰りしたりしたといふやうな芸当は、現代人には到底出来得ないであらう。
 元来、日本人は、外国人に比べて非常に身が軽く、動作が敏捷であるのである。日本人の飛行家が特に優秀であるのは、何よりの證拠であらう。
 従而、人間の不幸も争ひも、その根本は、薬毒にあるといつても過言ではないのである。故に、薬毒のない人間の社会が出現するとしたら如何に明朗であるかを私は想像するのである。全く薬毒が無くなつた人間は、頭脳明晰で、爽快感に充ち、生々溌剌としてゐるのである。(岡田茂吉師御論文です)岡田茂吉師御論文はこちらから  

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