厳島神社-№2 尾道市岩子島 | 安芸もみじ / Photos, Historys, Trains - Hiroshima JAPAN

厳島神社-№2 尾道市岩子島


岩子島の厳島神社です。

私は、宮島の厳島神社以外には、3ケ所の厳島神社へ行ったコトがあります。

1つは、先日、父に拉致された三次の厳島神社です。


1つは、出雲の日御碕神社の摂社となっている厳島神社です。

そしてもう1つがここ、尾道の岩子島にある厳島神社です。

厳密に言うと、地御前神社も厳島神社外宮なので、4ヶ所になるのかも知れませんが、あくまでも外宮なので宮島の厳島神社の一部と考えます。


ここの厳島神社には、宮島の本宮と、因縁めいた話が残っています。

岩子島に厳島神社が建立された年代の詳細は不明なのですが、市杵島姫が滞在した伝説があるので、恐らく本宮より遅れるコトわずか数百年以内と思われます。

すなわち、平清盛が太政大臣になった時には、岩子島にも厳島(宮島)にも、厳島神社はあった訳です。


平清盛が厳島を開拓したのは、日宋貿易の中継基地として機能させるためですが、彼がその中継基地を設置するにあたり、厳島と岩子島のどちらがふさわしいか検分しています。

貿易港と貨物集配倉庫を造る訳ですから、何百隻の唐船や和船が停泊できなければなりません。

結局、地の利が長けていたのが厳島だったので、外国からのお客さんや、朝廷からの遣いが訪れても恥ずかしくない街造りを、厳島へ行いました。


その一環として、航海の安全守護、地元豪族や土着民たちとの融和を図り、厳島の本宮を現在のような壮麗絢美な社殿へと増改築したのです。

その結果、後には上皇や天皇、皇太子などが参拝するようになりますが、もし、その時に厳島ではなく岩子島に中継基地が造られていたら、あの優美な寝殿造りの社殿は、岩子島にあったかも知れません。

ところで、市杵島姫がなぜここ、岩子島に滞在したのかと言うと、季刊"郷土史"によれば、幼子を連れての逃避行によるもののようです。


詳細は不明なままですが、単身赴任をしている夫の元へ行く途中、彼女は夫が暗殺されたコトを知ったよです。

そして魔の手は後継子息と、その子を産んだ彼女自身にも及びます。

彼女が滞在したと記された場所に、岩子島は含まれていませんが、公式に記された場所から場所への移動途中に、この岩子島が位置しています。


すると、岩子島滞在伝説は事実の伝承なのかも知れませんし、あくまでも自然発生した神話だったのかも知れません。

どっちにしろ、岩子島の厳島神社はタイプAに分類されます。

近年、岩子島の厳島神社は、別の意味で有名になりました。


東映の『男たちの大和-YAMATO-』のロケ地となったためです。

実は、岩子島の厳島神社は知識としては知っていたのですが、行くにはとても不便な場所にあり、とうてい行けるような場所ではない存在でした。

そこへ、尾道の造船所跡に大和が復元され、しかも一般公開されているのをきっかけに、千光寺公園で花見へ行くコトになり。


元自衛官で酒を飲まないR君を運転手に任命し、うちの父と、あと友人数名を拉致して尾道へ向いました。

大和に乗艦し、千光寺で宴会し、余った時間を活用して、岩子島の厳島神社へ強行しました。

神社へ到着した時には、既に夕暮れに近かったのですが、海がとても美しく、行き交う船を見ながら、平家の船団を思い浮かべ・・・・。


う~ん、それも間違いでは無いんですが。

どっちかと言うと『ここっ!この場所だよ』『ここで白石加代子さんが米軍機に銃撃されたんよ』『蒼井優はあそこからあそこに向って走ってたよ』といって、はしゃいでいた方が多かった気がします。

思い出すこと、それは2006年4月3日のできごとでした。


この写真で鳥居の右側、もう1つ上の写真では鳥居の左側に写っている、角地の民家は。

松山ケンイチさんが演じる特別少年兵・神尾克己の実家セットです。

立入禁止の札があったため、中には入れませんでしたが、元々あった廃屋を改装してロケセットにしたようでした。


ここは厳島神社の裏手で、幅員3m未満の狭い生活道路とつながっています。

写真の参道の奥が境内です。

狛犬がある通り、地元の方が参拝される時は、こちらから入るのが多いようです。


境内の砂浜から、沈む夕陽を撮りました。

平清盛公が、この地ではなく厳島を整備したのは、やはり瀬戸内海の民と手を結ぶのに、利便性のみならず信仰が重要だと感じたのでしょう。

当時は既に厳島の厳島神社は、全国の厳島神社・弁天神社(堂)の、総本社でしたから。


科学と信仰は紙一重。

僅か150年前には結核は死の病でしたが、現代は注射と飲み薬で治るように、1000年前では信仰と呪術は最先端科学でした。

1000年後から21世紀の今を見ると、癌で身体を切除したりすることは、とても原始的で野蛮に感じることでしょう。


日本史を学ぶ時には、その時代の文化や価値観などを十分に考慮しなければなりません。

さて、最後にですが。

東映映画・終戦60周年記念作品"男たちの大和"の、ロケセット会場の写真もUPします。


3階建の建物に匹敵する高さの第2主砲塔と、4階建てに匹敵する第1副砲塔。

敵機からの銃弾に対して無防備な、対空機銃。

全長264mの戦艦大和の前部分1/3を復元した、実物大のロケセット。


造船所に復元されているので、甲板から海が見える環境にハマって、何度も通いました。

視界の殆どはコンクリートと山なんですけどね。

入場口は艦首付近からで、出口はロケセットの途切れた位置なので、最後は狭いドックゲートを歩いて送迎バス乗り場へ出ます。


右手はドックなのでコンクリートの深い谷、左手は海で、少し怖い感覚が最後の楽しみでした。

バス乗り場はイベント会場となっていて、鮮魚や青鮮などの販売所だったり、コーヒーやソフトクリームを売っていて、オープンカフェのようになっていました。

春~夏は太陽と海と海風が、気持ちいいイベントでした。


俳優さんやスタッフさんが利用していた仮宿泊施設は、映画で使われた小道具などが展示されていて、一般解放されていました。

一角には兵員室も復元されていて、他にもバス亭や郵便ポストなども展示されていました。

他にも出演者さんやスタッフさんが利用していた食堂は、そのまま見学者向けに営業していて、男たちの大和カレーは私のお気に入りメニューでした。


大和ミュージアムで販売されているお土産の他、限定品のお土産も販売していました。

閉鎖・解体の時にはすごく残念でなりませんでした。

戦艦大和を実物大で復元した、テーマパークとか造れないものでしょうか。


【撮影日=2006年4月6日・写真改訂=2018年1月28日】