夕映えのはな(少女編)4     作り話です

四方を山々に囲まれた盆地には、主要な街道と大きな恵みの川が走っていた。

( ・・・日本屈指の名峰が頂を連ね、八百万の神が宿らんばかりの峰々を、雄々しく朱色に染めて映し出す、穏やかな湖面。
その湖の先の東の空が飴色に光り輝き、白く雪に覆われた山並みの、背後から驚くほどに燃え上る、一際大きな朝陽が姿を現してくる。
久々の、周辺工場一斉休業に周囲の空気は澄みきって、感動の吐息さえ、どこまでも湖面を響き渡りそうだった。
ここのところ朝晩めっきり冷え込んで、やはり初雪の知らせであったろう。
冷たくかじかむ両手に息を吹きかけながら、おもむろに後ろを振り返る光恵。
湖畔に舞い降りた白いじゅうたんの上を、ゆっくりと歩み寄る愛しい人。
本格的な冬が、もうそこまで来ていたのかもしれない・・・)

 夜半まで降り続いた雪で、窓の外は一面銀世界だった。
暴れ大川を挟んで林立する工場の煙突からは黒煙が立ちのぼり、とうに満天の星空を覆いつくしていた。
まだ明け切らぬしじまの構内を、靴音を響かせながら駆け寄ってくる一人の若い工員。
うとうとしていたのであろう、ふっと、顔をあげて我に返り、そのまま後ろを振り向く光恵。
ここのところ、深夜まで根を詰めて、身も心も休まるはずもなかったろう。
被った手ぬぐいの下の襟髪をそっと直しながら、静かに男から視線を逸らしてゆく。

いよいよ湖面が東の空を朱色に映し出すころ、いきなり、そこかしこの工場から朝一番を知らせて汽笛が鳴り響いた。
場内はまるで堰を切ったように、隣接する宿舎からいま起きたばかりの女工等が、形振り構わむ格好で一斉になだれ込んで来る。
初雪の、吐く息も白い晩秋の冷え込みも、棟内はすでに釜に火がつけられ、蒸気と熱気でむせ返るほどだった。
慌しく行き交う工女等を尻目に、次々と、機械の蒸気を調整してゆく若い男、田中賢市、二十歳。
素知らぬ素振りで、すでに作業台に腰を下ろす光恵の後ろを通り過ぎる。

越後の頚城から出稼ぎに来て早六年、その真面目さを買われてこの春から、班長見習として社員に登用されていた。
自ら小僧とともに繭車を牽き、窯に火を付け、機械に明かりを点してゆく。
馬鹿がつくほど真面目な性格で、仕事もほどよくこなし、会社にとっては将来有望な現場の幹部候補生。
自身、ようやく将来の希望が見出せて、仕事にも張りが出始めたころである。

賢市の実家は、米どころ越後頚城地方の極めて棚田が多い山間の農家で、御多分に漏れず、その狭いが故の苦労を強いられていた。
その上、先の関東大震災から続く景気低迷と相次ぐ大飢饉の煽りを食い、米生産農家にあって尚、今日明日の食い扶ちに事欠く有様だった。
家には両親と息子四人、娘三人の子供等、そして中風で寝たきりの祖父がいた。
すでに次兄と姉二人が出稼ぎで都会に出て働き、賢市も尋常小学校を卒業するや否や口減らしのため、愛知の機械問屋へと丁稚奉公に出されるのである。
雪国山間僻地の貧農の一家に生まれ、七人兄弟の中で質素に育った賢市は、幼いうちから何事にも辛抱強く、贅沢も望まず、貧困や差別に挫けることなど無かった。
この奉公先でも、陰日向無く、愚痴一つこぼさずに良く働いた。
他の誰よりも先に起き、先ず他人が嫌がる仕事から手をつけてゆくのである。
誰に教わったわけでもなかったが、この歳で最早、兄弟のなかの存在や社会との係わり合いを意識し、どんな状況でも自身の立ち位置を見出せるようになっていた。
だがそのことで周りの従業員からは疎まれ、誤解され、いつしか皆から後ろ指をさされる状態だった。
小学校を出たての丁稚の身で、大人たちの顔色を窺いながら、ずる賢く振舞っているように受け取られてしまう。
性格が大人しいうえに不器用で、また地方訛りが強い分だけ無口なため、ますますエスカレートする嫌がらせや誤解に対して、言い訳することも、自身の気持ちを素直に伝えることさえ出来ずにいた。
何より、彼等の仲間に加わる術を、未だ幼い賢市が持ち合わせていよう筈も無かった。
そして半年も経たぬうちに有らぬ噂を立てられ、周囲には疑われ、それに対して反論することもなく、店を去ることになるのである。
さらに、すべての事情を知っていた店の主人でさえ賢市を慰留することをしなかった。
それは賢市の、朴訥として多くを語らず、自分の言い分さえ主張できない性格が、商人としての資質に欠ける事をその時すでに見抜いていたのだ。
その上、賢市の存在で、店の中の和が保てなくなっていたのも事実なのである。
それとて、越後人気質や賢市個人の性格、そして世間知らずの幼さからくる立ち振る舞いと周囲が理解し、配慮してやることで多少は問題を解決出来たのかもしれない。
賢市は、明確な解雇理由さえ告げられずに店を追い出されてしまう。
いつしか迎えに来た父親に連れられ、姉の伝を頼って、山々が猛々しく四方を覆う盆地の、この美しい湖の畔に足を留めることを決意した。

今の光恵には、けたたましく鳴り響く始業のサイレンも、戦場と化した工場内の喧しささえも只の子守唄に過ぎず、何故かまた、うつらうつらと意識が遠のくのを意識していた。

(・・・谷越しに、山一面が朱や黄金の色に燃え上り、なだらかな裾野の湖畔までをも焦がしていた。
黙ったまま、賢市の後について歩く光恵。
岩肌から伸び出た漆の枝がまるで手招きでもするように、色鮮やかに、眼下の寺院の五重の塔を、今を盛りに大イチョウが彩を放っていた。
モミジやカエデの落ち葉を踏み分けて上る穏やかな坂の上には、四方が日本の名峰の小高い丘が見えてくる。
なお、立ち止まる賢市の大きな背中の向こうには、目も覆うほどの眩い陽射しと澄み渡る群青の空、稜線に沿って、麓に伸び広がる艶やかな木々の実りと紺碧の湖。
光恵は息を飲むのも忘れたまま穏やかなに、野を渡る風に任せて舞い上がる、一羽の山の鳥に視線を奪われていた。
気付いたように、振り向きざまに見上げる賢市。
二人はその時、故郷の、刈り入れの済んだ棚田から、天高く舞う一羽の山鳥を思い出していたのであろう、抑えようもなく、大きく息を吸い込むと、大空の彼方へ向かって駆け出してしまう、光恵。  
そして、突として立ち止まると、賢市に、微笑み返してみせるのだった。
その、眼下に浮かび上がる湖の縁の、立ち並ぶ、多くの煙突の中の一本を指さしながら、頷きながら・・・
静かに、歩み寄る賢市。
賢市こそ光恵の視線に頷くと、眼下の街道沿に伸びた盆地をゆっくり上方から辿りながら、美しく、青さを湛えた湖面に目を留めた。
周りを所狭しと立ち並ぶ工場や、その煙突の中から、光恵の指さす先はすぐにも見当は、つく。
そのマッチ棒ほどの細い煙突の、そのマッチ箱のような小さな工場の、見るからにちっぽけなその空間の中には、二人にとっての総てが有ったのだ。
ともに越後の貧農の家に生まれ、尋常小学校を出たてで口減らしのため出稼ぎに出され、朝から夜まで無心で働き通し、その給金一切を貯めて親元に仕送りを続ける親孝行の二人。
郷里の、家族のため、自身のため、そして二人のための夢が詰まった小さなマッチの箱。
湖畔から伸びた大川沿いにまで多くの工場がひしめき合い、その工場の中でうごめき合う工員の一人ひとりはさぞかしちっぽけに見えたことだろう。
だが光恵も賢市も、自身らと、その二つの家族の将来に、はっきりとした希望を見出していた。
賢市の手を掴んで小さく歓声をあげる光恵の視線の先には、雪を頂く霊峰富士が東の彼方にくっきりと浮かび上がっていたものだ。
そして、二人は腕を取り合い、麓の茶屋へと下っていくのであった・・・)


むせ返る繭の異臭と多湿に騒音、次々に吹き出る額の汗が、痛いほどに目の中に染み入ってくる。
息苦しさに咳き込みながら顔を起こす、光恵。
とうに工場内は、湿気と熱気で体中が汗ばみ、床をも濡らすほどだった。
どれ位の間こうしていたのだろうか、まどろむ光恵には、蒸気で霞む目の前の光景が果たして夢なのか現実なのかさえ、すでに分からなかった。
何故か調整もされない蒸気弁が異様に唸りをあげ、同時に、繭箱からの糸がよれて絡み合い、枠車が大きく異音を発している。
今までは絶対にこんなことは無かったし、悪夢だとしても気にはなる。
だが、今の光恵には気力も体力も萎え果てて、もう、どちらでも良かった。
ただ、ひとつだけ確かなのは、夢の終いの、賢市とともに連れ込み宿に入ってゆく女の後姿は、決して自分では無かったことだ。
おそらく、それらこそ、総てが現実だったのかもしれない。
何より、機械が白煙を発して空回りし、隣の女工が立ち上がり、血相を変えた班長の怒鳴り声とて、光恵には何ら苦にもならず、むしろ何から何までが心地よいほどだった。
一瞬、息も止まるほどに夢見心地で、まるで走馬灯の如く、遠く離れた松之山の楽しかった思い出が脳裏に蘇り、優しき父母の笑顔や幼い妹の仕草が頭の中を駆け巡る。
そこには恋焦がれる賢市も、この美しい都会の町や、優しき同僚達や、どのこの仕草に思い出の一遍たりとも姿を現すこともなく、いいや、もしかしたら、感じていた総ての事柄が妄想であったのかもしれない。
それは突然、雁字搦めに繭糸が絡みついた目の前の機械のごとく、心の中で湧き出づる楽しかった記憶と思考の総てが吹き飛んだ。
何度か軽く咳き込みながら、何故か意思を持たない夢遊病者のようにふわふわと立ち上がり、ゆっくりと、青ざめて血色さえぬ口元を両手で覆う、光恵。
この世のものとは思えぬ小さな唸り声を上げて背中を揺すり、青白くやせ細った頬を汚し、すでに濡れ切った前掛けを伝って土間に流れ落ちるおびただしい量の鮮血。
光恵は、周りの驚く女工一人ひとりの表情が冷静に読み取れるほどにゆっくりと、その場に崩れ落ちてゆくのだった。  


昭和六年、名立たる四方の山々を彩る実りの便りが麓の町まで舞い降りて、程なく、逸早い初雪が、晩秋から初冬への意識の覚悟を知らせていた。
世に吹き荒れる不景気風や、不安定な生糸相場に四苦八苦する製糸紡績業界。
だが、当時その強力な煽りの大方を引き受けてくれたのが繭生産農家だった。
そして工場経営者等は、機をみて更に操業を拡大してゆくのである。
女工等には、年末年始の正月休みや旧盆休みを故郷に帰省させず、一部工場を稼動。
光恵にしても、正月に、盆休みに、愛しい家族の待つ松之山へ帰省することなく、工場に居残り、働き通していた。
すでに一流工になっていた光恵。
一円たりとも無駄使いすることなく貯めた給金全てを仕送りし、一刻も早く、その金で買い求めた田畑で、家族のための美味しい米を、父親に作らせてあげることを夢見ていた。
世に言う世界大恐慌故の生糸単価の大幅な下落でも、良い糸は売れ、良い糸を紡ぎ出す女工等は稼げ、彼ら優秀な女工を多く抱える経営者は大いに利益を得ることが出来たのである。
当然の如く会社側は優良工女に手厚く報奨金を与え、他の工場へ引き抜かれないよう、策を講じざるを得なかった。
ようやく育った稼ぎ頭に逃げられては、会社の存亡に関わる大事態になりかねまい。
だからこそ、募集員には大枚を叩いてでも地方からまだ幼い健康な娘たちを集めさせ、さらに、他の工場の腕のよい熟練工を躍起になって引き抜いた。
終いには、優秀な女工に男子社員を宛がい恋愛をさせ、または優良女工と優良男工の婚姻を推奨するなどして社内の優秀な人材を確保し、組織固めを進めてゆくのであった。
光恵にしても、自身の夢のために朝早くから夜遅くまで人一倍身体を動かし、全神経を使って秀逸な糸を紡ぎだしていた。
手先が器用で真面目な性格は、働くほどに給金が上がり、周りから尊ばれ、そして何時しか自信にもなって、もうすでに今が自身の夢の九合目だと錯覚したとして、一途な光恵の微かな希望をはたして何処の誰が笑えよう。
しかし、他の女工たちのように町に出て心身を休めることもなく、決められた僅かな休憩時間さえ惜しんで精出し、働く光恵。
次第に目に見えぬ疲労が体内に蓄積し、疲れを癒やす術を未だ持たない田舎出の幼い少女の心身を何時からか病魔が蝕んでいた。
一年中、機械の蒸気の熱気と湿気で肌が汗ばみ、着衣や前掛けや床をも濡らす室内は、目の前が白く霞んで見通せぬほどに高温多湿で、結核菌の繁殖に適した環境そのものだった。
さらに冬季などは、室内外の寒暖差で体の抵抗力が弱まり、健康を害す若い女工等の間へと感染が拡大してゆくのである。
まさに工場内は一斉感染の格好の場と化し、まるで結核病の温床と言わざるを得ないこの労働環境の中でさえ、いったい誰が光恵の身体の変調などに気に留めようか。
いいや、違う。
周りはもうすでに不治の病に取り付かれた光恵を哀れみ、恐れ、近寄ろうとさえしなかった。
境遇を同じくして、小学校を出たてで口減らしのため出稼ぎに出され、朝から夜まで働きづめでその汗と涙の給金一切合切を信じる国許の父、母に仕送りを続ける健気な光恵の姿に自身を投影し、余りにも惨めでかける言葉もかけられる言葉も見当たらず、よりによって最悪の糸引き女工の末路を垣間見た彼女等は、命を張って身代わりにババをひいてくれる貧乏神の背中にさえ恐れおののき、遠ざけ、明日は我が身の定めでないことだけを唯ひたすら祈るだけだった。
しかしそれとて、周りの視線など今の光恵にとっては毒でも薬でもなかったろう。
何故か微熱が続いて乾いた咳が一向に止まずに長引こうとも、多分、たちの悪い風邪だと思い、時折り胸の苦痛と不意の喀血に見舞われ不安が過ぎろうとも、おそらく軽い肺炎だと思い、それが更に耐えられないほどに激化し日常生活に支障をきたそうとも、ひょっとしたら、軽い結核で直ぐにでも治るものだと心底思い込みたかったのではなかろうか。
それでも家族思いで一途な光恵は、最後まで奇跡を信じ、最後まで家族との夢を追い続けたかったに違いない・・・



              数日後・・・
心地よく振動を伝える列車の硬い座席。
光恵は身動き一つせず、宙を見据えたまま揺れに身を任せていた。
幾度となくトンネルを抜け、その度毎に汽笛が鳴り響き、ガラス窓を覆い尽くす機関車の吐く黒煙の向こう側に、今を盛りの頚城の秋の彩りを目の当たりにした光恵が、いったいその時、何を思ったことか。
父と娘は終始向かい合い、されど言葉を交わすことも、互いに目を合わせることさえしなかった。
だが光恵には、夢半ばで突きつけられた不治の病という引導よりも、ひとりでは抱えきれないほどの恐怖と不安からようやく解き放たれ、こうして温かく、最も恋しい父母や妹や山深い松之山の懐に抱かれる喜びを体中で感じとっていた。
もう、己ひとりだけで思い悩むことも有るまい。
この得体の知れない難病や、冷ややかな世間の目、突然宣告された自身の逃げようのない運命を共に分かち合い、理解してくれる家族がここにいる。
そう、私はやるだけのことは、やったのだから・・・
光恵はその時、心底自身に言い聞かせようとしていた。
それは、この、暖かい家族にあって、なお新たな生きる目途を必死に見出そうとしていたのではなかったか。
隣には、ずっと黙ったまま目を閉じ、時折り咳き込む我が身を案じる父の背中があった。
光恵が大量喀血したその日の夕刻には家族の元へ電報が打たれ、事情も呑み込めずに取り急ぎ、駆け付けていた。
(ムスメビョウキスグヒキトレ)
希望に燃え、順風満帆であったろう光恵と光恵の家族に言い渡された、たった一枚だけの、過酷な宣告。


そして、到着駅を知らせる車掌の甲高い声。
父と娘は意を決したように立ち上がった。
列車のブレーキ音は響きわたり、単線ホームへと滑り込むと、車体を揺らして停車した。
父は、おもむろに、車両の重い手動扉を開けてゆくのだった。
一斉に飛び込んでくる、恋しかったであろう、この街並みと人々の息吹。
娘は、まどろむ虚ろな瞳さえ輝かせ、一瞬息をも吸い込んだ。
たしか、一年ぶりの帰省だったろう。
つい昨日のことのように、自身の未来に思いを馳せ、希望を抱いて飛び立った故郷の駅に、まさかこのような形で引き戻されることを誰が予想し得たであろうか。
おぼつかない足取りでホームに降り立つと、光恵は顔を上げて静かに周りの山々を見渡した。
小学校を出たてで多感な時期に、やはり周りを山々に囲まれた都会の街で過ごしたこの数年間が、何故か遠い昔の薄らごとのように脳裏を駆け巡る。
仕事に対する嫉妬や妨害、死病におののき嫌い何時しか自分を避けるように噂しあう同僚たちの白い目、そして、さげすむように、或いは哀れむように落ちぶれ女工の背中を見送る工場の門番。
だが心身を蝕まれ、社会の片隅に追いやられてゆく自身の運命だけは、決して他人のせいではなかったのである。

澄み渡った空の下、汽笛も高らかに、黒煙を吐いて一気に勢いを増す蒸気列車のその後ろを、天水連峰から吹き降ろす晩秋の風が音もたてずに追って行く。
残されたのは、傷を負った娘とその父親の二人だけだった。
父は、列車の行方を虚ろな眼差しで追う蒼白い娘の顔を眺めながら、不条理な神の掟を呪ってやることしか、もう何もしてやれなかったのかもしれない。
駅舎を出ても、父の勧める食堂の炉連を潜ろうともせず、ただ首を横に振るだけの光恵。
父こそ、それ以上、強制すること無く、ひとり静かに店の中へとのみ込まれた。
光恵は、店先の、深い庇の太い柱に背を凭れ、ぼんやりと、以前とは様変わりした街の風情を感じ取っていた。
だが、変わってしまったのは光恵自身で、四方を覆う山々の景色や街の佇まい、目の前を通り過ぎる一人ひとりの意識や感情など、どれ一つとってみても、多分それほど変わってはいなかった。
出稼ぎに出てこのかた、幾度と無くこの町の風情を感じながら、自身の夢の到達を意識していたはずだから。
それにしても、こうした光恵の姿に気づき、恐る恐るでも振り返ってくれるのは周りをうろつく野良猫か、はたまた店の飼い猫くらいで、何しろ、まるで建物でも、背景にでも同化してしまいそうな、その存在すらを見失うほどに今の光恵は影が薄かった。
やつれた表情の、窪んで虚ろな瞳と蒼白く扱けた頬や一見老婆と見間違うほどに痩せ細り、落ちた細い肩と小さく丸まった背中。
ひょっとしたら、若い娘の背負った運命を悟り、知らぬ存ぜぬを決め込んでくれる心優しき街の衆だったとしても不思議では有るまい。
何しろ静かに瞼を上げて、見上げる先の鳶が小さな獲物を見つけて急降下しようとも、それに驚き逃げ惑う野良猫が騒ごうとも、光恵は身動きもせず、瞬き一つすることも無かったろう。
ようやくして、店の中から姿を現す父の顔。
笹の葉に包んだ握り飯二つを手に、後生丁寧に挨拶を済ませると振り返り、めし屋の暖簾を避けながら口元を綻ばせてくる。
差し出された掌の中の大きな塩結びを握り返した光恵は、ただ黙って小さく頷くだけだった。
今を合図のように、ゆっくりと山に向かって歩き出す、覚悟を背負った娘とその父親。
 
周りの木々が色とりどりに鮮やかで、天空に舞う鳶の鳴き声が周囲の山々に響き渡り、眩いほどに燦々と陽射しが降り注いだとして、この親子にとって一体何の慰めになったであろうか。
知り合いなのか、或いは全くの他人か、時折り行き交う人が足を緩めても、二人の尋常でない様子を窺い知ると、また何毎も無かったように足早に立ち去ってゆく人、ひとり、ふたり。
前を歩いて後ろを気遣い、後ろに退いては娘の歩調に合わせ、なだらかな上りの坂道を踏みしめる父。
娘とて、咳き込む口元を押さえながら、父には心配かけまいと額の汗を隠して上ってゆく。
もう、駆け足のように蒸し暑い窪地の夏が過ぎ去って、見下ろす限り裾野に繰り広がる棚田や段々畑の実りの取り入れは、とうに終わっていた。
季節はすでに晩秋の、初雪も降って、朝晩めっきり冷え込む頚城の峰々。
暑くも寒くも無かったが、胸の病を負った光恵には、どれほどの勾配の坂道にしても難儀なことだけは確かだった。
大きく弧を描いて曲がりを過ぎる毎にいよいよ視界が開け、周りの木々が益々色鮮やかに照り輝こうとも、今の光恵にはそれを愛でる余裕など既に無かった。
時折り口元を両手で覆い、痩せ細った両肩を小刻みに揺すって咳き込む娘の後ろ姿を、まさか父親は、何事もなかったように平然と見過ごせるはずも有るまい。
帰省する度に、驚くほど眩く成長を続ける我が娘の背中が、一体如何してこんなにも早く小さく萎んでしまったのか、父には目の前の現実が未だに信じられなかった。
突然の、容赦の無い一方的な電報にしても、他人と見間違うほどに変貌した光恵の容姿にしても、病気になって、まるでごみのように使い捨てにされてゆくことも、そして、この期に及んで泣き言ひとつ溢さず、気丈なまでに歯を食いしばり畝った山道を上る我が娘の背中が・・・。
何故だ、如何してこうなる前に言ってくれない。
痛いとか、辛いとか、もう辞めてしまいたいとか。
昨年の盆休暇の帰省から一年と三月、父親は光恵の変わり果てた姿を目の前にして、どこをどう探しても本人に問いかける言葉など見当たらなかった。
せめて正月でも盆休暇にでも実家に帰省してさえいれば、家人の誰かが気付いてあげられただろうに。
何故なんだ、如何して帰ってこなかった。
好い人でもできて帰れないとか。
仲間と旅行で帰れなかっただとか。
ああ、それならば頷ける。
だとしたら、これほど無残な娘の姿を絶対に目の当たりにすることもなかっただろうに。
ふらつきながら、いよいよ歩幅も縮み今にも倒れそうな光恵。
己の病に覚悟を決めてそれでも必死に前に進もうとしていた。
そしてこんな時でさえ心配かけまいと気丈に振舞う光恵の背中に、一体何を言うべきことがあろうか、何がしてあげられるというのか。
時折り深く溜息をついて、その場に立ち止まる光恵を労わりながら父は考えあぐねていたものだ。
そして、息も絶え絶えに今にも前のめりで倒れ込みそうな娘の前に背中を向けてしゃがみこむと、振り向きざまに両腕を後ろ手に差し出した。
一瞬、驚いたように首を振ると大きく後ずさりをする光恵。
不治の病と嫌われ恐れられる、はやり病に冒された娘の、必死の形相で拒む姿が何を言わんとするかは分かっていたが、それでも無言のまま近寄りながら更に催促の視線を投げかける父。
光恵はその執拗なまでの大きく深い気持ちに意を決し、後ろ手に手招きをする父の背中に黙って頷くと、か細い肢体を折りながらそのままゆっくりと体を凭れ掛けてゆくのであった。
安堵したような、背中に負ぶった娘の体を両腕でしっかりと抱え、片膝をついて静かに立ち上がろうとする父の穏やかな表情が一転にわかにかき曇ったのはその時だ。
背負い込んだ娘の体がこれほど軽く、まさかこんなにまで細く華奢になっていたことを改めて認めざるを得ない父親の心境は果たして幾許のものだったか。
余りにも大きく、独りでは抱えきれない恐怖と不条理な現実に苛まれた娘の代弁者は、その時かの子の前途を悲観した絶句か、溜息か、言葉すら発することも出来ないこの状況を背中の娘に悟られまいと、何事も感じなかった素振りで静かに立ち上がった。
ああ、これが天の下した裁定なのか。
もう逆戻りも、差し替えることさえ出来ない家族の運命。
瞼こそ見開いてはいても、父と娘の目の前には一点の希望の灯すら見えず、頭の中こそ絶望の淵を知らせる半鐘が鳴り響いていたに違いない。
これこそが貧農の出の娘の、生まれながらに背負った宿命なのだと諦めるしかない運の悪い人間だということか。
父は、娘の総てを背負い込むと、曲がりくねった小石の坂道を、一歩一歩噛み締めるように上ってゆく。
ここまでくると周りでは、ブナやカエデの木々が陽射しに映えて眩く光り輝き、風に揺れる白いススキの穂の群れが道端から四方の峰々を束ねていた。
ブナ林の木漏れ日の中を、番の山リスが足元を小走りに通り抜け、頭の上では渡りの野鳥が涼しい声を響かせる。
もう既に、遅れてきた赤とんぼが父娘の都合などお構いなしに目の前を飛び回り、終いには二人の肩口で翅を休めた。
ゆっくりと瞼を開く光恵。
如何にも自然の恵みを受けて、鮮明に、顔まで朱に染めたアキアカネ。
それほど気候も良かったのか、今年の山の取り入れはさぞかし豊作だったろう。
ああ、ひょっとしたら、ここにも真の生き方が有ったに違いない。
とうに覚悟を決めた父娘は、何かに取り付かれたように生き急いだこの数年間を、透明な翅の向こう側に透かして振り返える。
誰が悪かったわけでもなく、だが、ただ運が悪かっただけでは済まされない貧困農村地帯の現状は、一大凶作による飢餓や娘の身売り、果ての一家心中、そして都会で働いた娘達が持ち帰る不治の病という名の土産物。
そして、噎ぶように息を吸い込む光恵の、手にした握り飯が潰れるほどに細い腕が撓り、痩せ細った小さな肩が小刻みに震え出すと、父はもう、どうにも抑えきれない感情を、唯一出来る娘の為ぞとばかりに何憚ることなく、この世のものとも思えぬ形相で嗚咽したしまう。
それでも涙で霞んで前が見えぬまま足を緩めることなく、既に骨と皮だけの娘の両腕を握り締めながら、こんなになるまで分かってやれなかった自身の不甲斐無さをただただ悔い続けてやるしかなかった。
だが光恵には、自分を背負って共に大きく肩を震わす、父の背中の温もりだけでもう十分だったのだ。
実は、最初から総てを分かっていたのは光恵自身だったのかもしれない。
都会に出て家族のために背伸びをしようとしすぎたことを、夢など叶うはずもなく、いつしかはかなく消え失せてしまうことを、山懐に抱かれた村々の風情や人々の心情が以前と少しも変わることなく、夢破れ、満身創痍の己をも何事もなかった如く自然体のままで受け入れてくれることを、そしてこここそが自身の総てであり、何よりかけがいの無い唯一無二の場所だったということを・・・。
父娘は、互いに語ることなく、いよいよ上りの急坂を何気張るでもなくただ淡々と歩を進めていった。
これから訪れるであろう困難にでも立ち向かえるかのように。
もうそこには峠が控え、後は下りだけの、愛しい母と妹の待つ家へと繋がる一本道。
沢伝いに聞こえる川のせせらぎや、アカショウビンの絶え間ないさえずりが脳裏にまで染み渡る深い黄金色のブナ林を抜けるころには、辺りを吹き渡る風が忙しなくザワザワと笹や葦の葉を揺すりながら出迎えることは分かっている。
開けた視界の先の、いよいよ頂を知らせる鳶の物悲しい鳴き声だけが暮れなずむ大空に響いていた。
振り返る父と娘。
ふもとの町から吹き上がる気流に任せて、大きく弧を描く勝手気ままな鳶の姿をどんなつもりで見つめたものだろう。
息苦しいほどに天高く澄み渡るしじまの空は刻々と紫がかった朱色に染まり、向こう側に聳える峰々は、任せるようにその灯りの輪郭を映し出した。
今こうしているのが不思議なくらいに心穏やかで、今ぞとばかりに光恵は父の耳元に合図を送るのだった。
静かに父の背中から降り立つ光恵の傍らには、ひっそりと大地に佇む一輪のカワラナデシコが遅咲きの可憐な花びらを風に靡かせていた。
しっかりと、眩いばかりの夕日に映えて、訪れるであろう未来に思いを馳せて・・・。



「豪雪を生き抜いた農民たち」「国史大事典」「あゝ野麦峠」等を参考にさせていただきました