(作り話です))

 

                                       
                            夕映えのはな
      昭和7年5月 
   新潟 松之山・・・

向こう側の空が朱色に染まり、連なる山並みのシルエットが浮かび上がっていた。
富子は、刻々と沈み行く太陽を見るのが好きだった。
今ようやく代掻きも済んで、満々と水を張られた棚田が眼下に広がっている。
その小さく仕切られた一つひとつの田んぼに中には、その数の分だけ赤焼けの空と、山並みの稜線を焦がす太陽が映っていたに違いない。
「ほらー、早く帰りなさーい。暗くなっちゃうわよー」
「うーん」
 山あいの小さな分校。
その、猫の額ほどの校庭のそこここには、春の訪れが遅い分だけ余計に、初夏の草花がにぎやかしく咲きほころんでいた。
古びた木造校舎の背後には針葉樹林の壁が迫り、眼下の棚田へとスロープを形成している。
金網の向こうの、沈み行く太陽を凝視する富子。
「ふーっ・・・。ふふふ、やっぱり、富子さん・・・」
「ああ、りえせんせい・・・」
校舎の中から手を振りながら駆け寄ってくる、若い女性教師、宮川りえ。
「ほら、すぐに暗くなるわよ。お父さんとお母さんが心配するでしょう。ねっ」
「うっ、うん。あっ、はいっ・・・。あのなあ・・・」
「ええー、どうしたの?」
何か訳ありげな、富子の様子を気遣う、りえ。
「んっ、ううん。おら、なんでもね」
「ねえ富子さん、心配事が有るんだったら先生に話してちょうだい、いいわね・・・。へえーっ、それにしても、こうしてじっくり見ると本当にきれいねえ。富子さんもそんなに好きなの?、棚田のこと・・・」
富子の真後ろに立ち、背後から抱き抱えるようにして顔を覗き込んだ。
「あっ、ううん。おら、だんだんだっぽなんかすきじゃねっ。まちのひろいたっぽのほうが、いい・・・」
錆きった金網に指をかけたまま、食い入るように夕焼け空を見つめる富子。
「あら、そうなの、ご免なさいね。ほら、富子さん、さっきからずーと見ていたから・・・。でも先生は棚田が好きよ。こんな山あいの斜面を切り開いてお米を作る農家の人たちもすごいと思うし、だってこんなにもきれいじゃない。春まだ雪深い中でもあぜ道だけが最初に顔を出してくるでしょう。可愛らしいふきのとうをたくさん抱えててね。こうして代掻きも済むと一面水を張られた一枚一枚の田んぼが朝日や青い空、夕焼けだって鏡みたいに映し出す。これから田植えが始まれば、斜面全体が明るい黄緑色に覆われ、今度は季節ごとに色が濃い緑色から取り入れ時期には山全体が黄金色に変化してゆくの。一つひとつの小さな田んぼの表情が人の顔のように見えてきて本当に楽しいと思わない?・・・。ふふふ・・・。あら、そうそう暗くなってきちゃう。 家族の人が心配するから、ねっ・・・」
「う、ううん・・・。あのなあ・・・」
やはり何かを言いかけては口ごもる富子。
「えっ、どうしたの?」
「あっ、ううーん。べつに、なんでもね。いい」
「ねえ、富子さん。後で先生が家まで送って行ってあげるから、先生達のところでおまんじゅう食べていかない?。美味しいわよ。おまんじゅう、嫌い?」
「う、ううん。おらはいいけど・・・」
富子の様子に異変を感じたりえは、心のうちを察してあげようと教務員室に誘うのである。
富子にとって、饅頭が嫌いなはずもなかった。
「そう、良かった。じゃあ、いらっしゃい」
「う、うん・・・」
夕闇迫る薄暗い校庭を、富子の手を引くようにして歩み始める、りえ。
狭い運動場を横切り、直接非常口から先に教務員室に入ってゆく。
「ほら、富子さん。中に入って、ここに座って・・・」
「ん、うん」
入り口の間仕切りの隙間から中の様子を伺う富子を招き入れ、自身の椅子に座らせた。
室内では所狭しと、明日行われる運動会の準備の品を床に並べている男性教師二人。
「あれ、トミちゃん。まだ学校に居たんかい?」
「あっ、うん、こうちょうせんせい」
作業の手を休め、顔を上げて富子に話しかけてくる校長、高梨秀夫。
「こんなに遅くなって、お父さんやお母さんは心配しないんかい?」
「えっ、ああ、私が帰りに一緒に家までついていきますから・・・。先生方もお茶を飲みますか?」
給湯室の中から、お茶の用意をしながら事情を説明する、りえ。
「ああ、そうそう、ちょうど今休憩しようと思ったところでーす。りえ先生、お願いしまーす」
ここぞとばかりに手を休め、笑顔で首を垂れる若い男性教師、市村浩二。
「はい、はい・・・。あっ、そうそう、これ明日の運動会の紅白まんじゅう。お店の人がね、多く作りすぎたから皆さんでどうぞって、置いてってくださったんですよ・・・。富子さんは私の分、半分こっね」
給湯室の戸棚から、お皿の入ったお盆の取り出し、そのまま食台に置かれた。
中に並べれれた三つの大きな紅白饅頭。
りえは、その中の一つ、赤饅頭を丁度真ん中から二つに切ると、富子の分の漆の小皿に載せて顔を覗き込んだ。
「ほら、どうぞ。富子さん」
「ああ、うん・・・。いただきます」
甘いものが高価な時代。
されど遠慮がちだった富子にして、饅頭の誘惑には勝てなかった。
「ふふふ、どう美味しい?」
「うん、うめっ・・・」
「そう、良かった。じゃあ、もう半分もどうぞ」
りえはガラスのコップにサイダーを注ぎながらも、美味しさに顔を崩して食べる富子の表情だけで満足だったであろう。
更に残りの半分を、富子の小皿に載せながら笑顔で目線を送っていた。
「それ、りえせんせいのぶんだ。おれ、いらね」
こしあんのしっかり入った饅頭を口いっぱいに頬張りながら、富子は健気に首を横に振ったものである。
「そうですよ、それはりえ先生の分ですよ。だから僕のを富ちゃんに半分あげますから。二人とも、それだったらいいですよね」
隣で様子を見ていた教師市村が二人の間に割って入り、両者に対して同意を求める。
「おら、いらね」
「ほら、こっちは白い饅頭だよ。おいしいんだから・・・」
「富子さん。ねっ、せっかくだから頂きなさい」
「あー、うーーん。じゃあ、おらもらう!」
りえに促されると、顔を綻ばせながら待ってましたとばかりに両手で受け取る有様。
饅頭を口いっぱいに頬張る屈託のない笑顔の中にも、りえは時折見せる暗い表情が大いに気がかりであった。
「ねえ、富子さん。何か心配事があるんでしょ。遠慮しないで言ってみて、ねえ」
「んっ・・・んんん」
りえは静かに椅子を寄せながら、富子の肩にそっと手を添えて顔を覗き込んだ。
「そうだよトミちゃん。良くわからないけど、困ったことが有ったら言ってみな。みんな仲間だよ・・・」 
沸騰した唸るアルミのやかんを持ちながら、富子の様子を気遣う校長、高梨。
「・・・ん、うーん・・・」
「ほらったら、富ちゃんったら・・・」
昭和七年、世は不景気の真っ只中、甘いものが容易に手に入る時代ではなかったろう。
早生まれの富子、小学校に通い始めたばかりであった。

     
      令和6年 6月
   東京 中央区・・・

週末の仕事帰り、眩いほどの初夏の陽射しは一向にとどまることを知らなかった。
繁華街の目抜き通りから一本裏通りの、周りとは若干場違いにしっとりと落ち着き払った雰囲気の喫茶店。
「やあ舞子ー、お帰りなさーい。主役決定おめでとう。やったわねえ、日本でも大々的に報じられているのよ。本当に凄いじゃない」
素通しの、重厚のガラスドアを開けて姿を現す主役を、奥の席から一斉に声を掛ける親友たち。
「何よみんなー、それって嫌み?。主役なんかじゃなくてよ、もー。ふふふ、でもありがとう」
「ふふふ、準主役だったかしら?、ふふふ・・・。はいはい、ここに座ってちょうだい。今日の主役はあなたなんだから」
一瞬白々しいジョークでさえ、怒る筋合いもなかった。
満面笑みに立ち上がり、拍手で迎い入れてくれている。
寄り添うように各々と手を取り合ってひとしきり、再会を喜び合ったものである。
そして、いよいよテーブルに載せたバッグから、彼女らの好みであろう買い求めた英国土産を手渡してゆく。
「ええーっ、舞子ありがとう。ねえ開けていい?」
「勿論ですとも。どう?」
「うわー、これ本当に欲しかったのよ。日本ではまだ発売されたいないでしょう」
「ええ、喜んでもらえたー。全部色違いなのよ。みんなで取っ替え引っ換え出来るとおもってねえ。ふふふ・・・」
本場ヨーロッパで若い女性に話題沸騰の人気ブランドイヤリングだった。
日本では未だ発売されておらず、彼女らが喜ぶのも頷けたろう。
「そうそう、ねえ、私たちもささやかなお祝いをしたいんだけど何かリクエスト有るかしら?。何でも気兼ねなく言ってよねえ、舞子」 
「あらあらっ大きく出たわね。そうねえ、まあ色々と有るけど、どれも高いわよーっ」
あれもこれもと、如何にも思案げな顔を見せつけたものだ。
「えーっ?、もう脅かさないでよ舞子。私たち新人OLの身分も少しはわかって頂戴よね」
「ふふふ、嘘よー、うそうそ、冗談よ。みんな、本当にありがとう。ふうー、でも、このお店だけは何故か全然変わっていないわねえ。ほらほらマスターにしてもそうでしょう、私たちが高校生の時のままじゃない。それよりこの近くのお店って随分様変わりしちゃったわよねえ。中通りの有名ブランド店なんてヨーロッパの本店なんかよりよっぽど品揃えが多いわよ、もうあ然・・・。あっそうそう、ねえっ今日は飲みに連れてってよ。それくらいだったら良いでしょう?。あと、そうねえ、じゃあもう一つだけ・・・。私が日本に居る間にみんなで温泉に行かない?。ねえ良いでしょう。私ね、ひなびた良い温泉知ってるのよ。日程はあなたたちに任せるから・・・。ねっねっ、良いでしょう」
イギリス土産を手にしてこの上なく、満足を湛える面々。
舞子は各々の顔を覗き込んだ。
「うーん、まあねえ、しょうがないか。こんな高価なお土産貰ったことだし、それに後でゆっくりヨーロッパの土産話も聞きたいし・・・。何せ、あなたは私たちの希望の星だものね。そうよね、秘湯めぐりも悪くはないわよねえ。ねえねえ、あなたたち、どうせだったら有給休暇使って三、四日都合つけましょうよ。どう?・・・」
「ええっ賛成賛成ーっ・・・」
星野舞子、ヨーロッパ王立バレエ団所属バレエダンサー。 
高校在学中に出場した当主催コンクールに優勝し、それを期に王室直轄名門バレエ学校に入学する。
卒業と同時に結んだ正式な団員契約。
公演の度ごとに重要な役どころを任されていた。
次回の日本公演に先駆けて一時帰国し、多忙なスケジュールの合間を縫って学生時代の親友と旧交を温めるのであった。


    新潟 松之山温泉

「へーっ、確かに静かな所ねえ。だけど舞子がひなびた温泉だって言うから、本当はもっと山奥かと思ったんだけど・・・」
「ふふふ、山道を半日以上歩くとでも思った?」
「そうじゃないけど・・・。それより日本三大薬湯って言うだけにホウ酸の臭いが凄いわねえ。けっこう塩分も凄いみたいだし、ほらっまだ体がポカポカしてる」
東京・新潟を結ぶ高速道路、関越自動車道「塩沢石打インター」を降りて小一時間。
舞子の運転する乗用車で、意気揚々と予約した温泉宿に乗りこむ三人であった。
そしてすぐさま、まだ陽も高かったはずも女将に勧められるまま、見晴らしのよい、特設露天風呂にて大の字に手足を投げ出せば、つい満足のため息も出ようというもの。
源泉掛け流しの豊富な湯量やら眼前に照り輝く山野の新緑やら、そして何より、日本一含有量の多いホウ酸臭と相まって弥が上にも秘湯気分が盛り上がり、一瞬にして日頃のストレスが吹き飛んでゆく思いであった。
心身の癒しを実感、なお美肌効果を期待しつつ部屋へと戻れば、合わせたように用意された新茶の湯気と香りが迎い入れる。
開け放たれた窓から吹き込む清涼な風に川のせせらぎ、初夏の川鳥が季節の彩を添えてくる。
「極楽、極楽・・・」
「ふふふ・・・、本当・・・」
恵美と幸江は、上越地方への旅行が初めてであった。
「ねえ、そうでしょう。今でこそアクセスが良いけど昔はほんとに不便だったらしいのよ。だから他の温泉地のように大きく栄えなかったのかもねえ」
舞子にとっては祖母の実家から程近く、幼いころから通い慣れたこの松之山温泉はまるで庭のような存在なのである。
「秘湯と呼ぶに相応しいのかもねえ。全てを観光地化したくないっていうこの地の拘りなんでしょう。そうなんでしょう?、舞子」
「ええっ?・・・。まあ、そうかもねえ」
「ねえねえ、もう一度入らない。今度は大浴場の方で泳いじゃおうよ。ね、ねっ・・・」
「もうっ、恵美ったら・・・。しょうがないわねえ。分かったわよ、まずお茶を一杯飲ませてちょうだい。後で湯当たりしても知らないからね」
「良いから良いから、早く早く・・・」
黒光りする板敷きの廊下を渡って大きな暖簾を潜れば、古き湯治場の雰囲気を色濃く残す檜の大浴場が姿を現す。
スクリーンに見立てた木戸の素通しガラスには、疾うに暮れなずむ空を朱に染めて、何時しか彼女らを懐古の世界へといざなう様相の呈。
「あっ、ねえ、あれ蛍じゃない?」 
「えっ、嘘でしょう、幸江・・・。どうなの、舞子?」
「えーっ、さあねえ、どうなのかしらねえ?」
先ほどの言葉とは裏腹に、淑やかに湯船に浸かって満足の表情の三人。
窓の外では宿の脇を走る清流の、カジカガエルの鳴き声しきりであった。
信州との県境に程近い天水連峰の窪地にして、日本有数の豪雪地帯。
松之山の、その豊かな自然と素朴で飾らない人の温もりは、都会の喧騒から逃れ、オアシスを求めてこの地を訪れる者の心の中に否が応でも染み入ってきていた。

    翌日

「あー、電動自転車って本当に楽チンよねー」
「ええ、でも昨日、車で通った旅館までの道より、この一帯はそれほどアップダウンが無いんじゃない?」
「そうなのよ。この辺からはゆったりとした上り坂なのよねえ」
三人は朝食を済ませて早々、旅館のレンタル自転車でいざ里山の散策に繰り出していた。
昨日と同様、朝から晴れ渡る陽射しはかなり強かったが、目も覚めるほどの木々の新緑の息吹や、沢伝いの川音を伝えて吹き抜ける透明な風を受けて気分はまさに上々だった。
「ふうーっ、ねえっ、星峠ってこの辺なのかしら。それにしてもここからの棚田も風情があって良いわよねえ。手入れも行き届いているみたいだし・・・。ねえねえ、考えてみるとさあ、最初にここを開墾した人って凄いと思わない?。だってこんな傾斜地より山裾の平らなところの方がよっぽど良かったわけでしょう?」
「ええーっ?、まあねえ。でも今だってこの地を引き継いで管理している人だって大変だと思うわよ。機械は入らないし、手間だって余計にかかるはずだもの」
「そうそう、こうゆう風景を見るとさあ、日本の原風景って感じするわよねえ」
時折目に飛び込んでくる茅葺の古民家に、古き善き時代への郷愁を覚えながら踏むペダルも軽快そのもの。
見渡せば、そこかしこで今を盛りにピンクのタウエバナや、陰でひっそりと佇むワスレナグサが、眩さで目も眩む新緑にそっとアクセントを添えていた。
瞬くのも惜しい天水山一帯の美しきナラ林、息をのむブナの森の鮮やかな深い緑。
若葉の息吹に負けじと所々で初夏の山鳥が声を轟かせ、愛らしくも、番いの山リスがこちらに向かって愛嬌を振りまいてくる。
「ふうーっ・・・。ねえっ舞子、近くにコンビニストア無いかしら。この辺でちょっと一休みしようよ、ねっ」
「あのねえ幸江、ここまで来てて何でコンビニなのよ、もうっ・・・。あっ、ほらほら、あそこに湧き水が出てるでしょう」
「ええー?。ああ、本当・・・」
広葉樹の葉を逆光にして木漏れ日の林の中を、穏やかに弧を描く上り坂。
思い思いに沢崩れ跡の道端に自転車を寝かせると、水場に向かって一目散に駆け出してゆく。
「あはーっ、私が先よーっ、よいしょっと。どれどれ・・・。ああ、うん、冷たくて美味しいわ!」
「ふふっ、ほらっゆっくり飲みなさいよ」
「ほんとう!、全然違うわねえ。東京の水道水みたいなカルキ臭なんて全然しないわねえ」
竹筒から滾々と流れ出る湧き水を、備え付けの木の杓子に満たすとそのまま口の中に流し込んだ。
「ぷっ、水道水は無いでしょう?・・・。まあねえ、この地域でも、もう井戸の無くなった家はお茶用の水をここから汲んでゆくらしいけれどね」
日本有数の豪雪地帯、天水連峰の雪解けの水は長い年月を経て、地中の、天然フィルターで漉されながら清水として滾々と湧きいずる。
夏でも冷たいほど通年一定温の湧き水は、飲むごとに皆の喉元を快適に潤し、心身共にリフレッシュ効果抜群である。
「ねえ、舞子。あの日陰でそろそろお昼にしましょうよ」
「えっ、ああそうね。そうしましょう」
雪解けの遅い分でも一気に取り戻そうとして、降り注ぐ初夏の陽射しはかなり強烈だった。
日焼けを嫌って紫外線から逃れるように、ブナ林の木陰で一斉にレジャーシートを敷いてゆく面々。
各々背負っていたデイパックの紐を解くと、宿で用意してくれた昼食を取り出した。
「よいしょっと・・・。あーっ、この笹の葉っぱのお結びってさあ、時代劇で見たことある。懐かしいーっ」
「ぷっ、あのねえーっ!、なにも時代劇はないでしょう。ほらっいいから食べてみてよ。旅館の人に頼んで特別に作って貰ったのよ、もう・・・。どう?、サチ・・・」
用意したお茶を紙コップに注ぎながら二人の顔を覗き込む舞子。
「ああ本当、美味しいーっ。舞子ったら、やっぱりお米なんだって言いたいんでしょう」
「まあねえ。ほらっ、この山菜漬けもどうかしら?」
さらにプラスチックケースから数種のお新香と焼き魚を取り出し、紙のお皿に盛って箸を手渡した。
「へえーっ、なるほどなるほど、山菜の漬物が抜群・・・」
「ふふふ・・・。ねえ、良いでしょう・・・。ああ、そうそう、私の母方のおおおばあちゃんちゃんなんだけどね、実はこの近くに住んでいて、あなたたちの事を話したら是非家にも泊まっていってほしいって言うのよ。良かったら二人とも、最後の日はおおおばあちゃんの家に泊まっていってくれないかしら・・・。どうっ?」
「えっ、べつに良いけど。ねえ、メグは?・・・」
「ええっ私も構わないわよ。それより舞子のおおおばあさんってさあ、一体どんなひとなの?」 
「えーっとねえ・・・、そう、まだまだ元気で、本当に可愛らしい人なのよの。今、この松之山でね、大きな古民家を借りて、いろいろな作家さんたちと暮らしをしているの。ええーっと、年は確か大正最後の生まれだから・・・」 

(・・・私の母方の大祖母は、大正十五年二月一日、長野県境に程近い山間豪雪地、新潟県東頚城郡松之山町に生まれた・・・

   

   

      大正15年2月1日
   松之山・・・

昨晩から音も無くしんしんと降り積もる雪は、既にもう二階の窓まで達しようとしていた。
薄暗い部屋の、枕元に置かれた大きな木のタライ。
中から立ち上る湯気は傘すら無い裸電球に照らし出され、まるで煙突から立ち上がる煙かのようにゆらりゆらりと影をも作りながら、連なるように屋根裏の萱に吸い込まれてゆく。
時折、音をたてて吹き込む隙間風こそ、その陰影さえも大きく蹴散らかせ、寒気とともに又産婆の髪と頬を叩いている。
「まささんっ、気張らんされー。もう少しですがのーっ、ほれっほれっ・・・」
「・・・まさっ!、しっかり・・・」
厩の二階に建て増した若夫婦の寝室。
祖母の母、まさは、実母と産婆に見守られ、一貫目は有ろうかというほど大きな赤子を産み落とした。
心身とも健やかで、才知に富み、そしていつしか資産家との良縁に恵まれるように願いを込めて、富子という名前をつけたという。
関東大震災未だ復興ままならなず、世の中が混沌としていた大正十五年、二月一日。
その年の暮れ、十二月二十五日、大正天皇崩御 摂政祐仁親王践祚 即位。
世はまさに大正デモクラシーを経て、皮肉にも、明るく平和の時代を願った激動の時代、昭和を迎えようとしていた。 

私の祖母、富子(わたし)はそのとき紅白饅頭を頬張りながら、家庭内の事情を全て先生方に喋って良いものかどうかを真剣に考えあぐねていた・・・)

 

わたしの家は両親と祖母、そしてわたしの四人家族だった。
元々この村で大工職人として働く父と、幼馴染だった母とが結婚。
前年、祖父を亡くして男手の無いこの家に、六人兄弟の三男坊だった父が婿養子として迎えられてくる。
専ら大工として外で働く父と、祖母と母が概ね自給用に田畑を耕作する兼業農家なのである。
父は、普段は真面目でおとなしく、人当たりも決して悪い方ではなかった。
仕事の評判もすこぶる良く、棟梁に指図されるままにこつこつと自分の仕事をこなすのだという。
人のことを騙したり蹴落としたりするような性格ではなく、とりわけて道楽にうつつを抜かすなどということも一切聞いたことがなかった。
何より内弁慶で気が小さく、しかも婿養子という気兼ねから家人には当たれない、その積もり積もった憂さを解消する手段が飲酒で、そして父の唯一の楽しみだったのかもしれない。
父は帰宅するとすぐさま作業場の板の間に大工道具を肩から下ろし、そのまま台所の流し場に向かった。
顔や手を洗うでもなく、濯ぎ終えたばかりの自分専用の湯飲み茶碗を左手に持ち替え、右手の指を巧みに使って中の水滴を振り払う。
そして身を屈めながら茶箪笥の奥の酒瓶を取り出すと、何か愛しいものでも見詰めるように、二股ソケットの白熱電球にかざして残量を確認するのだ。
納得したように立ったまま酒瓶の栓を抜いてその口元を右手で持ち替え、左手の湯飲みにとくとくと音をたてさせながら中ほどまでつぐと、もう父は舌なめずりしながら待ちきれないとばかりに一気に酒を飲み干してしまう。
そのまま大事そうに酒瓶を抱えて茶の間の囲炉裏端に自身の陣を取る父。
まだ膳が出る前にもかかわらず膝元に置いた湯飲みに顔を近づけながら、量ったように、もうこれ以上は絶対無理という限界ぎりぎりまで酒を酌み、しまいには、一滴でさえ絶対に毀れさせまいと両手を添えて静かに持ち上げ、まるでひょっとこのように口を尖らせて湯飲み茶碗に吸い付く幸せそうな横顔。
愚痴を溢すことも無く、一人静かに、手酌のきれいな酒だったのだが・・・
家族の誰もが、父の深酒を止めさせることが出来なかった。
毎日のように、飲めば飲むほど変わってゆく父の姿を、わたしはただ傍で他人事のように傍観するしかできなかった。
そして一頻り暴れた後は「おら、こんな山ん中さ嫌だすけ、直ぐに出ていぐ!」と一言捨て台詞を吐くと、後はそのまま静かに眠りに就くのである。
おそらく心の奥底に、誰にも言えない何か大きな悩みや不満を抱え込んでいたのではなかろうか。
それでも決まったように朝早く起きると、昨晩の出来事など全く知らぬ存ぜずで淡々として身支度をしてゆくのだ。
そのまま母が用意した膳につくと、椀に盛られた麦飯の上に手馴れた手つきで大根の新香とぜんまいの煮付けを小奇麗に載せ、手渡された菜っ葉の味噌汁を碗いっぱいに満遍なくぶっ掛ける。
一瞬、目でも瞑っているのだろうか宙を仰いで一気に口の中に掻っ込むと、そのまま噛まずに飲み込む連続。
仕上げには、小鉢の中の如何にも見栄えの良い梅干を箸で探り当て、もうすでに条件反射のように唾液でいっぱいの口内に、しょぼくれてしまった唇を抉じ開けて放り込む。
ここぞとばかりに、入れたばかりのかなり渋いお茶でゆっくり口を濯いで飲み込むと、満足そうな表情で、安堵のため息ひとつも吐くものだから、見ているこちらの方も堪らず可笑しい。
間髪入れずに、ズボンの腰バンドにつけたお手製の煙草入れからキセルを外し、その吸い口に口を窄めながら息を通す父。
刻み煙草の葉を器用にその火皿へ押し込み、囲炉裏の中の、真っ赤に火照る炭を火箸で抓んで煙草に火をつけ一服、二服、実にうまそうに飲み込み、吐き出してみせる。
種火に煽られて、屋根裏から吊るされた黒く燻る藁縄に絡みつき、ゆらりゆらりと立ち上る煙草の煙。
父は燻る煙の行方を追いながら、思い出したように、キセルの腹を囲炉裏の縁で叩いて吸殻を飛ばして、やおら立ち上がるのだ。
後はもう、板の間に置いた大工道具を背負い、黙ったまま一目散にくたびれた自転車をこぎ出してゆく、物静かでおとなしく、婿養子で遠慮がちな父の丸い背中。
わたしは、普段酒に飲まれていない時の、優しい父の横顔が好きだった。
だが父の記憶は、その年の暮れで途切れたのである。
東京に出稼ぎに出たまま、翌年の春になっても、以後二度と松之山に戻ってくることは無かった。
棟梁の話によれば、ようやく届いた雪解けの便りにいよいよ東京を引き上げようという段に至って、父は、ひいきにしていた飲み屋の女給と店の売り上げを持って夜逃げをしたのだという。
そのとき連絡を受けた母が、すぐさま東京に駆けつけたところでいったい何の解決になったであろうか。
いつものように、父がしでかした酒での失敗を尻拭いする辛そうな母の顔がわたしの脳裏を過り、案の定、的中した。
それからの母はまるで何かに取り付かれたように、或いは何かから逃れるように、感情を微塵も表に出すことなく農作業に精を出すようになっていた。
母親の顔から笑顔が無くなったのは、ちょうどその頃からだったのかもしれない。
 

「あらっ、富子さん・・・、こんにちは・・・。もう田植えは終わったの?。そうよね、もう一週間ですものね。ねえ、お母さんはお元気?・・・」
「うん、元気は元気だども。おらっ、よく分んね」
「そーっ・・・。ねえ富子さん、お昼ご飯は食べた?・・・」
「うん・・・」
「そう、じゃあ、またご本読んであげましょうか?」
「ああ、うん。おら、うれし・・・」
土曜日の昼下がり、学校の授業は半ドンで、もう児童は誰一人として居なかった。
とは言っても農繁期のこの時期にして、大方の水稲農家では猫の手も借りたい状況であろう親たちは、農作業を手伝わせるため、学校を休ませることが暗黙の約束になっていた。
部落一斉の田植え作業もようやく昨日、今日で終了し、わたしは、自宅で逸早く昼食を済ませると分校の校庭に顔を出していた。
久々に、大好きなりえ先生に会える喜びで、大いに心躍る思いであった。
「学校に来ること、家に人に言ってきた?」
「うん」
「そう、じゃあいらっしゃい」
わたしはりえ先生と教務員室に顔を出し、「やあ富ちゃん、久しぶりだねえ・・・」「うん」、「田植えは終わったんかい?・・・」「うん」と、ばかりに男先生らを煙に巻きながら、校舎の二階へと上がってゆく。
そう、そもそもこの分校は、村役場に程近い村立小学校本校舎に通えきれない更に山間の、数部落の児童等のために設置されたもの。
男の校長と二人の男女教師が教鞭を執る。
一階が、教務員室と悪天候用の室内運動場、男女のトイレが縦に位置し、階段を上り切って二階には、人がすれ違えるだけの廊下を小部屋ほどの二教室と書庫室が並ぶ。
りえ先生は、廊下の突き当りの書庫室にわたしを誘うと、室内中央の、不釣り合いほどの立派な大机の上に早速、手にした風呂敷包みを広げてゆく。
「ねえ富子さん、揚げ餅好き?」
「んー、うん、おらすきだけど・・・」
「そう、良かった。ほら、ここに座って・・・」
初夏の陽射しが眩いほどの窓際を、木の椅子を引いて手招きをしてくる。
わたしがすぐさま、その椅子を手に、深く座り込むのを待って、微笑んだ。
そして、机の上の風呂敷の中には握りこぶし大の新聞紙包が三つ。
先生は、丁寧にくるんだ新聞紙を解いてゆくのであった。
「ふふふ、美味しいわよ。下宿のおばさんにね、頂いた、余ったお餅を揚げてきたの。ほら、食べてちょうだい」
中からは、一口大の揚げおかきがこぼれ出てくる。
「はい、どうぞ・・・」
「ん、うん・・・」
「まだ、こんなにいっぱい有るから、食べてちょうだい」
「あっ、うん」
狐色に揚がったおかきは砂糖醤油でたっぷり塗され、噛み砕くまでもなく、もう一瞬にして口の中が甘じょっぱい香ばしさに満たされてゆく思いであった。
わたしが食べ終えるのを待つように次の揚げ餅を目の前に差し出してくる、りえ先生。
「どう?」
「うん、うめ・・・」
「そう、良かった・・・。そうそう、ねえ、何のご本を読んでほしい?」
「んー?、まえのほん・・・」
「じゃあ、この間の続きよね。ちょっと待ってて・・・」
先生は書棚から、児童文学海洋冒険小説集の分厚い単行本を取り出すと、しおりを挟んだページを開いた。
「うん、おら、うれし・・・」
「ふふふ・・・」
わたしは期待に胸を躍らせながら手にした揚げ餅を新聞紙の上に置き、頬杖を突いて先生の方に向き直ったものだ。
開け放たれた木製窓からは、大川の向こう側の山並みや初夏を彩る新緑の息吹が目にも鮮やかに浮かび上がり、心地よく、白地の窓掛けを揺する風など、今を盛りに咲き誇る、満開の草花の香りを運び込んでくる。
優しく奏でるように読み聞かせる先生の声と、校舎の裏山を静かにこだまする鴬の声がわたしの脳裏で交錯し、否応なしに、うつらうつら夢の世界へと導かれてゆくのだった。