マヤ暦かあさんこと、竹内 都です。
竹内は現在32歳。
いったい、今までどんな人生を歩んできたのか。
赤裸々に語っちゃうよ!
飽きずに読んでくれたら、嬉しいよ!
そんな今日は、誕生から小学生までの話を
![ダッシュ](https://emoji.ameba.jp/img/user/si/siduka02/1110.gif)
1983年5月31日。
私は、建築士の父と元美容師の母のもとに長女として誕生しました。
4つ上にかなりやんちゃな兄がいたので、
母は「都はお腹にいるときから手がかからなくて、良い子だったー」よく言っていました。
この「良い子」がのちのちのキーワード。
母は、父との結婚を機に美容師を辞めて、
私が生まれたときは、いつか独立することを目標に、設計事務所に勤めに出ていました。
そして、私が5歳の時に新居を立てて、
新しいお家でスタートした我が家には、
「兄みたいになってはだめだ…
この「良い子」がのちのちのキーワード。
母は、父との結婚を機に美容師を辞めて、
親戚のところでバイトしたり、
父の仕事を手伝ったり、
かなりアクティブ母さんでした。
父は、建築士を目指して鹿児島から上京。
かなりアクティブ母さんでした。
父は、建築士を目指して鹿児島から上京。
私が生まれたときは、いつか独立することを目標に、設計事務所に勤めに出ていました。
そして、私が5歳の時に新居を立てて、
自宅の1階を事務所にして独立したのです。
新しいお家でスタートした我が家には、
5つ下の妹も生まれました。
これが6歳のとき。
父の事務所の従業員2~3人が住み込みで我が家にはいたので、
食事は大家族のようにいつもワイワイガヤガヤ賑やかでした。
運動会などの学校行事にも従業員さんたちは来てくれたり。
これが6歳のとき。
父の事務所の従業員2~3人が住み込みで我が家にはいたので、
食事は大家族のようにいつもワイワイガヤガヤ賑やかでした。
運動会などの学校行事にも従業員さんたちは来てくれたり。
遊び相手にもなってくれて、可愛がってもらいました。
父は基本、家で仕事をしているので、
両親や誰かしら大人が家にいるといった状態でしたが、
そのことは、私にはかなりの安心材料でした。
たくさんの大人に囲まれ、スクスク育っていた都ですが、
兄にかなり手を焼いていた両親を常日頃から見ていました。
兄にかなり手を焼いていた両親を常日頃から見ていました。
そしたら、だんだんと、
「兄みたいになってはだめだ…
両親を悲しませてはだめだ」
という思いが
子どもながらにうまれたのです。
子どもながらにうまれたのです。
自由奔放な兄を見ていたので、私はかなり真面目な幼少期でした。
勉強をちゃんとする、習い事もがんばる、両親に良い点数のテストを見せる。
これが私の最低限やるべきことって思っていました。
家が自営業だったというのもありますが、
家の手伝いはかなりやりました。
例えば、
学校行く前に、階段掃除か外掃除。
学校行く前ですよ?(笑)
やらないと母親に怒られるのですが、
どこを誰がやるかで、三兄妹で朝からケンカですよ。
(3人とも楽なとこをやりたいから)
他の家と比べたことはあまりなかったのですが、
当時にしては、かなり厳しい方だったのかもしれません。
しかし、今となっては、
「自分の役割をきちんと果たす」ということを、
子どもながらにも学ぶことができたと思っています。
保育園や小学校では友人にも恵まれ、楽しい学校生活を送っていたのですが、、、
さすが、思春期!(笑)
中学生活では、だんだんとうちなる葛藤が始まったのです。
つづく・・・♡