今日の京都10月8日(日) | 都のかほり日記

都のかほり日記

京都、奈良、滋賀、神戸、東京。私のテリトリーです。
そこでのさまざまな出会いを綴っています。
仏像が大好きで、美味しいもの、スィーツ、美しいものが大好き。あちこちと出没しています。

おはようございます。
三連休の中日。お出かけ先で朝を迎えてらっしゃる方も多いのではないでしょうか。

あっというまに、気温が下がりましたね。
それに合わせたように、今日、二十四節気と七十二候が移ります。

二十四節気
【寒露】(かんろ)
草木に冷たい露が降りる頃という意味です。秋の長雨が終わり、ぐっと秋が深まります。稲刈りが終わるころで、その他の農作物の収穫もたけなわとなります。また、北の方から紅葉の便りが届きはじめます。 

七十二候
【鴻雁来】(こうがんきたる)
雁が渡ってくる頃。清明の時期に北へ帰っていった雁たちが、再びやってきます。 

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さて、毎年、今の時期に左京区八瀬の秋元神社で赦免地踊りが行われます。最近は10月体育の日の前の日に行われます。




【赦免地踊りとは】
京都の市街地から北東部に位置する八瀬の里は、比叡山の麓で古くは日本海(小浜)から京の都へ魚などが運ばれた「鯖街道」が通る山間の小さな里です。
八瀬の村は昔から、皇室との関係が深く、後白川院の頃から八瀬童子は度々お供を勤め特に延元元年、後醍醐天皇が叡山に御潜幸の折には駕興丁を承り、弓矢を持って道中を御固め申し、無事に延暦寺までお供申し上げました。
こうしたことがあって建武3年2月24日に八瀬の村人一同に対し、「年貢以下諸課役」など一切免除の御綸旨を戴き、その後、歴代の朝廷から同様の御綸旨を賜ってきました。
寶永四年に比叡山「延暦寺」との結界に関して訴訟問題が起こり村人は御代々の御綸旨を奉載して幕府に上訴したところ、時の老中「秋元但馬守」は八瀬村に有利な裁定を下された。これは、単に一小村の訴訟沙汰としては、余りにも大きな出来事でありました。
村人は高恩報謝として、氏神天満宮の側に御綸旨宮を建て秋元神社として奉り毎年十月十一日(現在 体育の日の前日の日曜日)に「赦免地踊り」を奉納しています。

【祭の1日】
9:00 左京区役所八瀬出張所にて灯籠作成
昼 秋元社 例祭 御神楽 御湯の式 奉納
15:30 各町宿元にて灯籠展示開始
19:30 灯籠が各宿元を出発
20:00 門口(売店(南)の北側集合) → 儀式(5~6分) → 行列が秋元神社へ出発
20:30 秋元神社 石段下にて道歌開始 → 秋元神社にて踊りの奉納 (※フラッシュ厳禁)
21:30 終了予定

【祭の見どころ】
祭りは夜19時ごろからにおこなわれます。 
祭りの中心は「切子灯籠」で、灯籠踊りともいわれ室町時代の風流踊りの面影を残しています。
切子灯籠は高さ約70センチで赤い紙に「透かし彫り」(武者絵や動物、風景などの絵模様)を白の地紙に張ったもので毎年各町ごとに一対製作します。
赦免地踊りは次の人々によって奉納されます。
 十人頭 - その年満30歳になる青年十人で、祭り一切を取り仕切ります。
 灯籠着 - 8名、女装した男子(13~14歳)
 警 護 - 8名、灯籠着の補助役
 踊り子 - 10名女子児童(10~11歳)
 音頭取り衆- 6~7名 太鼓うち - 1名
 新発意 - 各町よりでて狂言等を行う

昔は長男しか燈籠着になれなかったので、次男以下は随分悔しい思いをしたそうです。
それで昔は、「兄貴の祭り」と言われたそうです。

祭りは十人頭の合図(午後7時)により始まります。
各町の宿元(長老宅)に新家(十人頭の一番年少者)が祭りの始まりを告げると、頭の灯籠を載せた灯籠着と警護が音頭取り衆などとともに伊勢音頭に合わせ、門口(村の中心地)に向かいます。
門口では各町の灯籠、踊り子、音頭取り衆、新発意が頭(十人頭の一番年長者)によって揃っているかどうか確認されます。
全員の揃っていることの確認後、十人頭を先導で宮へと進みます。
馬場では、宮に向かって進む行列が一列に並び踊り子たちの持つ赤い提灯と灯籠着のかぶる灯籠の蝋燭が「ゆら、ゆら」ゆれて幻想の明かりを見せます。
石段に着くと観衆のざわめきを十人頭が静めます。静寂のなか静かに「忍細道に山椒を植えて、行くとき一つ植えて」と静かに、静かに「道歌」が音頭取り衆に歌われ石段を一段一段上られて行きます。
屋形に着くと灯籠着はゆっくりと音頭に合わせてその周りをまわります。
舞台では三番叟が演じられるのに続いて踊り子たちによって手桶をもった「汐汲み踊り」や花籠をもった「花摘み踊り」、新発意たちによる狂言が奉納される。(昔は一晩中、芝居など演じられた)
やがて「狩場踊り」の音頭が歌われると、灯籠は「警護」にかぶられゆのっくりと屋形の周りをまわり始めます、三番の歌詞に入り、「いざや帰らんわが宿へ」と早いリズムで歌われ始めると灯籠も宿元へ走りながら帰っていき祭りは終わります。
音頭は楽譜がなく、すべて口承で伝えられます、リズムは太鼓で「四つ拍子」トントントーントンと打たれます、曲数は全部で10曲あります、一年目で5曲習い2年目で5曲を習って一通り終わり、それから「ゆり」といった「いろあい」を何年もかけてつけていきます。



出典(写真も含む)
八瀬赦免地踊公式ホームページ

赦免地踊りの動画です
どんな踊りかご覧になってみてください。
https://youtu.be/Fvlbo2E3W1k?si=sVJMUmg-UqPX3tOP
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この地には八瀬童子と呼ばれる、皇室と深いつながりのある人々が暮らしていました。
天皇崩御の際には、天皇の棺を担いでいました。明治天皇の時も、大正天皇の大喪の時もその
棺を担いだのは八瀬童子でした。昭和天皇の大喪の折にどうされるのかと注目していましたが、参列はしたものの、棺を担ぐことはありませんでした。

【八瀬童子とは】

八瀬童子(やせどうじ、やせのどうじ、はせどうじ)は山城国愛宕郡小野郷八瀬庄[1](現在の京都府京都市左京区八瀬)に住み、比叡山延暦寺の雑役や駕輿丁(輿を担ぐ役)を務めた村落共同体の人々を指す。室町時代以降は天皇の臨時の駕輿丁も務めた。伝説では最澄(伝教大師)が使役した鬼の子孫とされる。寺役に従事する者は結髪せず、長い髪を垂らしたいわゆる大童であり、履物も草履をはいた子供のような姿であったため童子と呼ばれた。
昭和3年(1928年)、八瀬童子の伝統を守るため関係者によって社団法人八瀬童子会が組織され、資料の収集保全が進められている。平成22年(2010年)には同会所有の資料741点(文書・記録類 650点、装束類 91点)が重要文化財に指定された。
また、葵祭には輿丁の扮装で参加し、天皇の輿丁として奉仕した往時の姿をしのばせている。



葵祭での興丁



以前開催された八瀬童子の展覧会のポスター

猪瀬直樹の『天皇の影法師』で紹介されて以来、歴代天皇の棺を担ぐ者として有名になったが、実際には後醍醐天皇以降の全ての天皇の棺を担いだわけではなく、特に近世においては長く断絶した期間もあった。明治元年10月13日、明治天皇が初めて江戸に行幸した際に八瀬童子約100名が参列した。10名ばかりは東京に残り仕事をした。後から参加した植田増治郎という老人を猪瀬はインタビューしているが、駕籠を担ぐことだけでなく、風呂を沸かす仕事と天皇の厠の処理という仕事があった。八瀬村に課せられた地租税は宮内省が払った。明治天皇の母親である英照皇太后の葬儀の時は74名が東上、青山御所から青山坂の停留所、汽車に乗り京都駅から大宮御所まで葬送に参加した。
大正元年(1912年)、明治天皇の葬送にあたり、喪宮から葬礼場まで棺を陸海軍いずれの儀仗兵によって担がせるかをめぐって紛糾し、その調停案として八瀬童子を葱華輦(天皇の棺を載せた輿)の輿丁とする慣習が復活した。明治天皇の際には東京と京都、大正天皇の際には(1926年)東京、なお、昭憲皇太后(1914年)の場合は東京と京都で葬儀に参加した。明治維新後には地租免除の特権は失われていたが、毎年地租相当額の恩賜金を支給することで旧例にならった。この例は大正天皇の葬送にあたっても踏襲された。
平成元年(1989年)、昭和天皇の葬送では棺は自動車(轜車)によって運ばれることとなり、葱華輦は式場内の移送にのみ用いられることとなった。八瀬童子会は旧例の通り八瀬童子に輿丁を任せるよう宮内庁に要請したが警備上の理由から却下され、輿丁には50名の皇宮護衛官が古式の装束を着てあたった。八瀬童子会からは6名の代表者がオブザーバーとして付従した。
出典Wikipedia

赦免地踊りホームページ
http://shamenchi.net/

八瀬童子を紹介したテレビ番組
NHK
https://www2.nhk.or.jp/archives/michi/sp/cgi/detail.cgi?dasID=D0004990638_00000

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京都のお祭りというと華やかなイメージがありますが、赦免地踊りのように歴史を紡いで、伝承して来た祭もあります。夏の久多の花笠踊りもそうですが、日本に残る風流踊りもこれからの伝承も大きな課題です。まずは、多くの方に知っていただき、足を運んで見ていただけたらと思います。
どうぞ、今日もお元気でいい1日でありますように!
行ってらっしゃい!

【今日の京都令和5年10月8日(日)】(No.3246)


※掲載の情報等が変更になる場合があります。お出かけ前にご確認ください。

中止になっている行事もあります。
お出かけの際にはご確認の上、お出かけください。

https://ja.kyoto.travel/news/format.php?id=143

○ 曝涼展/大徳寺は中止です

○ 赦免地踊り/秋元神社
透し彫りの切子型灯籠をかぶった8人の女装した少年が、太鼓に合せて静かな踊りを奉納する洛北の奇祭です。祭神、老中秋元但馬守喬知の遺徳を偲んで毎年行なわれています。京都市登録無形民俗文化財に指定されています。
今年は規模を縮小して開催されます。
日程10月8日(日)
時間
20:00
場所秋元神社
アクセス
京都バス17・18・19系統「ふるさと」停前 徒歩5分

○ 今様歌合わせ/法住寺
平安装束を身につけた歌人が、その日に出された課題により、今様歌一首を即興で作ります。楽人、舞人が即興で歌舞楽を演じるという古式豊かな催しです。
日程10月8日
時間15:00~
料金当日拝観料 1000円
アクセス
市バス「三十三間堂前」下車、徒歩2分

○ 御例祭/ 今宮神社



8日の前夕神事では御神楽「人長の舞」を庭燎の明かりの前で奉納します。994年京都に流行した、疫病の退散のため朝廷が神輿を造り、船岡山に祀ったのが創祀です。素盞鳴命が鎮座した日にちなんで行われるものです。神楽人の長が舞うので人長の舞といいます。手には採物(とりもの)に鏡を挨した白い輪を下げています。9日の本祭では舞人6人、楽人5人が「東遊び」を優雅に奉納します。東遊びとは、もともと東国地方の風俗歌に合わせて舞う民間舞踊が、平安時代に雅楽の一曲として形式が整えられたものです。
日程10月8日〜9日
時間10月8日午後7時
10月9日午前10時
アクセス
地下鉄烏丸線「北大路」駅より市バス205「船岡山」
ホームページ
http://www.imamiyajinja.org/

○ 花の天井 秋の特別拝観(〜12/3)/平岡八幡宮

○秋の特別拝観(〜12/10)/相国寺

○ 御香宮神幸祭(〜10/8)

○ 特別公開/大徳寺塔頭 興臨院(〜12/17)

○ 秋の特別拝観(〜12/10)/瑠璃光院 

○ 秋期特別公開(〜11/30)/清凉寺 霊宝館 

○千本灯籠(〜10/9)/伏見稲荷大社

○ 秋季金毘羅大祭(〜10/10)/安井金比羅宮

○ 秋の特別公開(〜12/3)/銀閣寺

○多宝塔 五大虚空蔵菩薩像御開帳(〜10/9)/神護寺

○ 秋の寺宝展(〜10/10)/等持院

○ 秋の特別拝観(〜10/19)/山科・安祥寺 

○講員大祭(〜10/8)/伏見稲荷大社

○春日祭(〜10/8)/西院春日神社

○壬生狂言(〜10/9)/壬生寺

○粟田祭(〜10/15)/粟田神社

○秋の特別拝観(〜12/10)/宝厳院 

○ 秋の特別公開(〜12/10)/弘源寺 

○ 秋季特別公開(〜11/30)/大徳寺塔頭 総見院

○ 秋季特別公開(〜12/3)/大徳寺塔頭 黄梅院

○特別公開(〜12/3)/聖護院

○特別展東福寺(〜12/3)/京都国立博物館




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