おはようございます。
今日から三連休の方も多いと思います。全国的にお天気に恵まれそうですが、突然のゲリラ豪雨にはお気をつけてください。
さて、今日は991年に皇太后・詮子が出家し、一條天皇が「東三條院」の号を宣下した日です。これは、初の女院号でした。
初の女院号を宣下された、東三条院という方をご存知でしょうか。
東三条院というとピンと来なくても、藤原詮子というと、あの方と思われる方も多いかと思います。
この方、歴史の中で、いろんななお立場にあり、いろんなな場面でその動向の左右を握っていた方と言えます。
【藤原詮子とは】
藤原 詮子(ふじわら の せんし/あきこ、応和2年(962年) - 長保3年閏12月22日(1002年2月7日))は、第64代天皇・円融天皇の女御。一条天皇の母(国母)です。
父は藤原兼家、母は藤原時姫(藤原中正女)。同母兄に道隆と道兼、同母姉に超子(冷泉天皇女御・三条天皇母)、同母弟に道長がいるという、華麗なる一族の一員です。写真の道長の時代の系図を参照ください。
天元元年(978)8月、詮子は円融天皇の後宮に入内します。同年11月4日に女御となり、「梅壺女御」と呼ばれました。
同3年(980年)従四位下に叙せられました。この年の6月1日に兼家の東三条邸において第一皇子懐仁親王(のちの一条天皇)を生みました。
しかし、円融天皇の一粒種を生みながら、関白藤原頼忠の女遵子に后の座を奪われてしまうのです。
そのことで、詮子は、父兼家と共に天皇を恨んで実家の東三条邸にこもり、円融天皇からのたびたびの召還にも応じなかったそうです。
この時の様子を平安時代の『大鏡』に描かれています。遵子立后の際、遵子の兄弟藤原公任は東三条邸の前で自慢げに「この女御は、いつか后にはたちたまふらむ(こちらの女御はいつ立后なさるのか)」と言ったため、兼家・詮子親子の恨みを買ったといいます。
それが、息子である一条天皇が即位すると形勢は一変することになります。
978年に女御となり、986年に一条天皇が即位すると皇太后となりました。
991年に出家し、女院号の東三条院(ひがしさんじょういん)を授けられました。これは、最初の女院号
天皇の母である国母として権力を持ち、甥の藤原伊周と争った弟の道長を支援した。
また、詮子は厚い信仰心をもち、真如堂・慈徳寺を建立しました。
寛和2(986) 年一条天皇が正暦2 (991) 年病んで落飾し、太上天皇に準じて東三条院と称しました。これが女院号の初めでした。
長保3年閏12月、院別当の藤原行成の屋敷にて崩御し、宇治木幡の藤原一族の墓所のうち、宇治市の宇治陵に葬られました。
道長時代の系図
出典
http://yomikaku.blog.jp/archives/cat_381891.html?p=2
【詮子の時代は摂関政治真っ只中】
道長の時代の系図を見るとよくわかりますが、この時代、藤原氏一族が、天皇との姻戚関係を結び、摂関政治をしていたことが分かります。そして、同じ藤原氏の中でも、対立構造があったことがわかります。
詮子の父関白藤原兼家は、詮子を入内させ、皇子を生んでもらって外祖父となり、廟堂のトップの座につくことを狙ったのです。そして、願いは成就したのです。
その後、その孫一条天皇が即位されて、詮子の弟道長が長徳元(995)年5月11日、一条天皇は藤原道長に「内覧(ないらん)」の宣旨(せんじ)を下されました。これが摂関政治全盛期のスタートと言われています。
藤原道長
出典Wikipedia
この後、道長は一条天皇に自分の長女彰子を入内させ皇后(号は中宮)にします。すでに一条天皇には定子という后がいるにもかかわらずです。
次の三条天皇には次女の妍子を入れて中宮とします。しかし、三条天皇とは深刻な対立が生じ天皇の眼病を理由に退位に追い込み、彰子の生んだ後一条天皇の即位を実現して摂政となりました。1年ほどで摂政を嫡子の頼通に譲り後継体制を固めました。後一条天皇には三女の威子を入れて中宮となし、「一家立三后」(一家三后)と驚嘆された。さらには、六女の嬉子を後の後朱雀天皇となる敦良親王に入侍させました。
三女威子の威子の立后の日(10月16日(11月26日))に道長は邸宅で諸公卿を集めて祝宴を開き、ここで道長は実資に向かって即興の歌「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 虧(かけ)たることも なしと思へば」(「この世は 自分(道長)のためにあるようなものだ 望月(満月)のように 何も足りないものはない」というふうに解されている歌をを詠んでいます。
【紫式部と清少納言】
平安時代の女流文学の二大作者である紫式部と清少納言もこの詮子に関わり合いがあります。この二人の女流文学の作家は、紫式部が中宮彰子に仕え、清少納言が定子に支えていました。
二人の后の立場がそれぞれのおつきの女流作家に、大きな影響を与えています。
ただ、二人は、それぞれのきさきに支えていた時期ぐ違うので面識はなかったとも言われています。
後ろ盾の強い、彰子の方が勢力が強かったと伝えられています。
【円融天皇の退位】
永観2(984)年8月、円融天皇はまだ26歳だったにもかかわらず、甥(おい)の花山(かざん)天皇に譲位しました。藤原氏の権力闘争に翻弄され、詮子の父藤原兼家の嫌がらせに耐えかねての退位だったといわれています。円融上皇は出家し、現在の龍安寺(りょうあんじ)(京都市右京区)があるあたりに円融寺を設け、そこに住んで風雅な生活を送りました。
【花山天皇の退位との関係】
花山天皇(かざんてんのう)
(968年~1008年)は父は冷泉(れいぜい)天皇、母は摂政太政大臣藤原伊尹の娘・女御懐子の第1皇子として誕生しました。
生まれて間もない969年(安和2年)には叔父・円融(えんゆう)天皇の即位と共に皇太子になりました。(詮子の夫にあたる円融天皇です。つまりは、花山天皇は詮子の甥にあたります。)
生後約10ヶ月での立太子(りったいし。
公式に皇太子を立てること)は外祖父・藤原伊尹(ふじわらのこれただ)の影響があったとされます。
その花山天皇の退位は「寛和の変」と言われます。
花山天皇の皇太子・懐仁親王(のちの一条天皇)の外祖父であった右大臣・藤原兼家が皇太子の即位、自らの摂政就任を狙って花山天皇を退位・出家させようと計画でした。
いつの時代も権力闘争というのは大変ですね。
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どうぞ、今日もお元気でいい1日でありますように!
行ってらっしゃい!
【今日の京都令和5年9月16日(土)】(No.3224)
※掲載の情報等が変更になる場合があります。お出かけ前にご確認ください。
中止になっている行事もあります。
お出かけの際にはご確認の上、お出かけください。
https://ja.kyoto.travel/news/format.php?id=143
○ 貴船の川床(〜9/30)
○ 鴨川納涼床(〜9/30)
○「京の夏の旅」(〜9/30)
○特別公開(〜9/24)/大徳寺塔頭 興臨院
○ 花の天井 秋の特別拝観(〜12/3)/平岡八幡宮
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