今日の京都5月26日(金) | 都のかほり日記

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おはようございます。

今日から七十二候が変わります。

【紅花栄】(べにばなさかう)
紅花の花が咲きほこる頃。紅花は染料や口紅になり、珍重されました。

紅花とは



出典Wikipedia

ベニバナは、キク科ベニバナ属の一年草または越年草です。紅色染料や食用油の原料として栽培されています。

原産はアフリカのエチオピアといわれ地中海やエジプトを通り世界へ広まりました。紀元前2世紀頃には北方の遊牧民族の匈奴へ伝わり甘粛省付近で栽培されていましたが、漢の武帝がこの地を占領した後漢の時代(2 - 3世紀頃)には中国本土でも栽培がされており、日本には5世紀頃に渡来したといわれています。(6世紀伝来説もあります。)古くは和名を「くれのあい(呉藍)」といい、中国伝来の染料との意味です。また、すえつむはな(末摘花)」とも呼ばれます。
「末摘花」といえば、源氏物語をおもいだします。
高さは1m。花期は6 - 7月で、枝先に頭状花をつけます。花は、はじめ鮮やかな黄色で、徐々に赤くなっていき、紅花になっていきます。
日本では、平安時代に千葉県長南町で盛んに栽培されました。江戸時代中期以降各地で栽培されるようになりました。現在では、紅花というと山形県を思い浮かべます。山形県ではベニバナが県花になっており、同県河北町には「紅花資料館」があります。


さて、今日は、維新の三傑のうち木戸孝允の命日です。
この幕末から維新あたり以後の歴史は、
中学校でも高校でもいかないうちに授業が終わっていて、まともに学習したことがなく、近・現代史は苦手でした。昔は、教科書が終わらなくても終わってしまうという、おおらかな時代でしたね。



ホテルオークラ京都の側の木戸孝允像

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◎維新の三傑

維新の三傑(いしんのさんけつ)とは、ご存知でしょうか?倒幕・維新に尽力した、志士の木戸孝允、西郷隆盛、大久保利通の3人を指します。



⚫木戸孝允(きど たかよし)
(1833~1877) 政治家。長州藩士。号は松菊。桂小五郎と称し,のち木戸と改姓。尊攘運動に参加,薩長同盟を結んで倒幕運動を指導。維新政府の中心となり「五箇条の御誓文」起草に参画,版籍奉還・廃藩置県を推進した。征韓論・征台論に反対。


⚫ 西郷隆盛(さいごうたかもり)

(1827~1877) 維新の三傑の一人。通称,吉之助。号は南洲。薩摩藩の下級藩士の出。島津斉彬(なりあきら)の知遇を受け,国事に奔走。第二次長州征伐以後,倒幕運動の指導者となり,薩長同盟に尽力。大総督府参謀として征東軍を指揮して東下,江戸城を無血開城させた。維新後,参議。のち,征韓論の議を唱えたが入れられず下野,西南戦争に敗れて城山で自刃。 

⚫ 大久保利通(おおくぼとしみち)

(1830~1878) 政治家。薩摩藩士。旧名,一蔵。西郷隆盛らと倒幕運動を推進。維新政府の参議となり,版籍奉還・廃藩置県を断行。征韓派下野ののち,政府の中心となり,地租改正・殖産興業政策などを推進した。西南戦争鎮圧の翌年,島田一郎らに暗殺された。 

『三省堂大辞林』より

この三傑、倒幕維新を成し遂げましたが、その後、征韓論で袂をわかつことになりました。

◎妻の幾松(松子)



今日が命日の木戸孝允。維新までには何度もその命が狙われ、時に橋の下に身を隠したこともあったようです。そんな木戸をずっと支えていたのが、後に正妻になる幾松でした。

⚫幾松(木戸松子)

木戸 松子(きど まつこ、天保14年(1843年) - 明治19年(1886年)4月10日)は、幕末から明治時代初期にかけての女性。京都三本木(現、京都市上京区三本木通)の芸妓幾松(いくまつ)として知られる、幕末の維新三傑・桂小五郎(後の木戸孝允)の恋人。明治維新後、正妻となり「木戸松子」となる。幼少時の名は斗(ます)、もしくは計(かず)、号は翠香院(すいこういん)。

安政三年(1856年)の14歳の時に、三本木の料亭「吉田屋」から舞妓として2代目・幾松を名乗る事になります。 姿形が美しく、聡明で笛の名手だったと言われる幾松は、またたく間に人気の芸妓に成長していきますが、そんな彼女に目をつけたのが小五郎(後の木戸孝允)でした。
  二人が出会ったのは、小五郎が30歳バツ1、幾松は20歳の文久二年(1862年)頃と言われますが、その頃は、未だ、そこまで動乱は激しく無く、御所に近い「吉田屋」は、各藩士たちが接待や酒宴に利用する事も多く、そんな中で小五郎が幾松を見初めたのです。

人気芸妓の幾松には、すでに山科の富豪というご贔屓(ひいき)がいたのを、小五郎が、その富豪と張り合って大金を継ぎ込んだあげく、それでも退かない富豪を、伊藤博文(いとうひろぶみ)が最後に刀で脅してあきらめさせ、やっとこさ幾松をモノにしたと言います。

「二条大橋の橋の下で身を隠していた小五郎に、毎朝、ご来光を拝むフリをした幾松が、橋の上からおにぎりを投げていた」なんて逸話が語られていますが、実際には、小五郎が二条大橋の下にいたのは1週間足らずだったとか、幾松以外にも食べ物を持ってくる女が2~3人いたとも言われています。

また、幾松のいた「吉田屋」に探索が入り、そばにあった大きな長持(ながもち=衣類を入れる箱)の中に小五郎が隠れているのではないか?と疑って「見せろ!」と迫る新撰組の近藤勇(こんどういさみ)に、
「中には、ウチの下着が入ってますのや…
もし、よその男はんに見られたら、ウチ、死ぬほど恥ずかしおす。
見たいて言わはんねやったら、見はってもよろしおすけど、もし、何も無かった時は、近藤はんにも、切腹してもらわんと…」 言ったという逸話も残っています。

参考
Wikipedia
http://historivia.com/cat2/kido-takayoshi/2301/ 

幾松さん、かっこいいですよね。

そんな幾松を維新後に正妻にした木戸孝允にも拍手です。

木戸孝允と幾松のロマンスも時代が時代だったこともあり、明日の命の保証もない状況下で、より燃え上ったのかもしれませんね。


◎料亭幾松



木屋町にあった「幾松」は、幕末の頃倒幕運動に大きな役割を果たした維新の三傑の一人である桂小五郎(のち木戸孝允)と三本木の芸妓幾松(のちの松子夫人)の木屋町寓居跡です。
木戸孝允が没した翌日、松子夫人は剃髪染衣し翠香院と号し、お二人の想い出に溢れた当屋敷で余生を過ごされました。国土の歴史的景観に寄与しているものとして、二棟が国の登録有形文化財(建造物)に登録されていました。残念なことに、廃業されてしまいました。
今は、写真でしか、その様子を辿れないのが残念です。

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どうぞ、今日もお元気でいい1日でありますように!
行ってらっしゃい!

【今日の京都令和5年5月26日(金)】(No.3111)


※掲載の情報等が変更になる場合があります。お出かけ前にご確認ください。

中止になっている行事もあります。
お出かけの際にはご確認の上、お出かけください。

https://ja.kyoto.travel/news/format.php?id=143

○松菊祭(桂小五郎命日祭)
/京都霊山護国神社





幕末の三傑と誉れ高い桂小五郎。彼の命日である5月26日に山頂の墓前にて命日祭を執り行います。
彼の雅号より「松菊祭」と名付けられました。参列は自由です。墓前へ献花も受付けています。

日時  5月26日14時
場所  京都霊山護国神社 桂小五郎墓域 
アクセス
市バス 東山安井下車 徒歩約10分



○ 春の特別公開(〜6/18)/大徳寺塔頭 興臨院 

○ 春の特別公開/(6/30)宝厳院

○ 春の特別拝観(〜6/4)/相国寺

○ 霊宝館春季特別公開(〜5/31)/清涼寺

○ 春の特別拝観(〜5/31)/瑠璃光院 

○ 本坊 伽藍特別公開(〜6/4)/大徳寺

○ 春の特別公開(〜6/18)/白龍園

○ 新緑特別拝観(〜5/31)/妙覚寺

○ 貴船の川床(〜9/30)

○ 鴨川納涼床(〜9/30)

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