今日の京都12月17日(土) | 都のかほり日記

都のかほり日記

京都、奈良、滋賀、神戸、東京。私のテリトリーです。
そこでのさまざまな出会いを綴っています。
仏像が大好きで、美味しいもの、スィーツ、美しいものが大好き。あちこちと出没しています。


おはようございます。

今日から七十二候が移ります。

【鱖魚群(さけのうおむらがる)】
 鱖魚は鮭のことです。 
鮭が群がって川を上る頃。川で生まれた鮭は、海を回遊し故郷の川へ帰ります。
関東以北では、「しゃけ」と呼ぶことが多いですが、これは「さけ」 が訛ったものです。
アイヌの人にとって鮭はカムイチェプ(神の魚)と呼ばれ、貴重な食料とされていました。川の下流に住む人は、漁をするときに上流の人の分を残しておいたそうです。分け合うことや産卵期に獲り尽くさず、来年以降に命をつなげることもしていたと言われています。
今の時代にも、そのような配慮がほしいものです。


今日は1164年、後白河上皇が、平清盛に造営させた蓮華王院(三十三間堂)の落慶法要を行った日です。
三十三間堂の落慶法要は新暦では1月30日となっています。

【三十三間堂とは】



三十三間堂の正式名称は蓮華王院といいます。
第77代天皇である後白河天皇が次の二条天皇に位を譲り、上皇として暮らす御所(離宮)として五重塔などの伽藍(がらん)を持つ大きな法住寺(ほうじゅじ)をこの地に創建しました。
その広大な法住寺殿の一画に建てられたのが蓮華王院本堂です。上皇が埋葬された法住寺陵は三十三間堂の東隣にあります。
上皇が平清盛に建立の資材協力を命じて旧暦の長寛2年12月17日(西暦1165年1月30日)に完成したと言われています。創建当時は五重塔なども建つ本格的な寺院でしたが、建長元年(1249年)の火災で焼失してしまいました。文永3年(1266年)に本堂のみが再建され、現在「三十三間堂」と言われているお堂がそれです。当時は朱塗りの外装で、内装も極彩色で飾られていたとか。建築様式は和様に属する。
桃山時代には、豊臣秀吉の東山大仏(方広寺)造営により、三十三間堂もその境内に含まれ、周囲の土塀や門などが整備されました。

【三十三間堂の名前の由来】

三十三間堂の名前は、本堂が間面記法で「三十三間四面」となることに由来しています。これは桁行三十三間の周囲四面に一間の庇(廂)を巡らせたという意味です。つまり柱の間が33あるのは本堂の内陣(母屋・身舎)で、建物外部から見る柱間は35あります。正面に7間の向拝があるが、この区域は慶安2〜4年頃の増築です。
ここで言う「間」(けん)は長さの単位ではなく、社寺建築の柱間の数を表す建築用語です。三十三間堂の柱間寸法は一定ではなく、その柱間も今日柱間として使われる京間・中京間・田舎間のどれにも該当しません。
「33」は観音に縁のある数字で、『法華経』等に観音菩薩が33種の姿に変じて衆生を救うと説かれることによります。俗に「三十三間堂の仏の数は三万三千三十三体」というのは、本尊と脇仏の一千一体がそれぞれ33に化身するからだからと言われています。

【三十三間堂の仏像】



堂内中央に本尊千手観音坐像を安置されています。鎌倉時代の運慶の長男仏師湛慶作です。その左右と背後に千手観音立像が所狭しと並んでいます。千手観音立像は本来は計1,001体(1,000体ではない)ですが、一部の像は東京・京都・奈良の国立博物館に寄託されています。
千手観音像は一体一体違っています。本尊の左右には長大な階段状の仏壇があり、左右の仏壇に各500体の千手観音立像が10段50列に並ぶ。千手観音立像は本尊の背後にもう1体あり、計1,001体あります。
千体にもおよぶ千手観音立像ですが、お寺が出来た時代からある千手観音と、1249年にお寺が燃えてしまったあとに復興し造られた千手観音と2種類あります。
お寺が出来た当時からある仏像をその年の年号の“長寛”から、「長寛仏(ちょうかんぶつ)」、復興に際して造られた仏像を「復興仏」と呼んでいます。
 この2つの仏像の間には約100年というとても長い時間の経過がありますが、復興された仏像は、元々の仏像を忠実に再現をして作られているようで、一見しても見分けはなかなかつきません。
1,001体もの千手観音のうち9体に本尊の作者である湛慶の名前が残されています。そしてそのすべての湛慶による仏像は、ずらっと並ぶ千手観音のなかで拝観者にもっとも近い先頭に祀られているので、見つけやすくなっています。



写真出典
「探仏記Ⅲ ~気まぐれ仏像探訪」

また、内陣の左右両端には、拝観者から見て向かって左(南側)に雷神像、右(北側)に風神像が置かれ、千手観音立像周囲の毘沙門天像が梵天像が安置されています。
千体仏の手前には二十八部衆像が横一列に並んでいます。ただし、二十八部衆像のうち四天王像4体は本尊の周囲に配置されています。

【エピソード】
三十三間堂には、頭痛封じの寺としても有名で、頭痛に効くお守りがあります。
これは、後白河上皇が長年頭痛に悩まされていたことに由来します。熊野参詣の折にその旨を祈願すると、熊野権現から「洛陽因幡堂の薬師如来に祈れ」とお告げがありました。そこで因幡堂に参詣すると、上皇の夢に僧が現れ「上皇の前世は熊野の蓮華坊という僧侶で、仏道修行の功徳によって天皇に生まれ変わった。しかし、その蓮華坊の髑髏が岩田川の底に沈んでいて、その目穴から柳が生え、風が吹くと髑髏が動くので上皇の頭が痛むのである」と告げました。上皇が岩田川(現在の富田川)を調べさせるとお告げの通り髑髏があったので、三十三間堂の千手観音の中に髑髏を納め、柳の木を梁に使ったところ、上皇の頭痛は治ったそうです。「蓮華王院」という名前は前世の蓮華坊の名から取ったものです。この伝承により「頭痛封じの寺」として崇敬を受けるようになり、「頭痛山平癒寺」と俗称されるようになりました。



後白河院
出典Wikipedia

【通し矢】
毎年、成人の日のあたりで
新成人の通し矢が行われます。
通し矢の歴史は古く、始まりがいつ頃かははっきりしませんが天正年間(1573~1592年)には行われていたとか。当時の通し矢は境内で行うのではなく、軒下で行うもので、斜め上に向けて矢を射ると庇に当たってしまいます。そこでかなりの強さで、ほぼ直線的に矢を飛ばす必要があり、座った状態で矢が射られました。距離は現在の2倍となる120m、南端から北端へ33もの柱を通過することから「通し矢」と呼ばれるようになったそうです。
現在行われている通し矢は「大的(おおまと)大会」と呼ばれる競技大会で、本堂西側の境内で約60mはなれた的を目指して弓を射ります。参加者は開催年度に成人を迎え、かつ弓道の初段以上を持つ者となっています。毎年、全国から2000人近く集まるといいます。制限時間2分で2本を射て、2本とも的に当たれば予選通過、決勝は外した者が脱落していき、最後まで的中した選手が優勝となります。
毎年、成人女子の部では女性は晴れ着姿で競技に挑み、その姿は凛として華麗ということで、毎年ニュースを賑わせています。
ちなみに、2022年(令和4年)は、1月16日(日)の予定です。新型コロナウイルスの影響により、予定は変更するかもしれませんので、ご注意ください。

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今年も後残り2週間あまり、慌ただしいですが、落ち着いて過ごしていきましょう。

どうぞ、今日もお元気でいい1日でありますように!
行ってらっしゃい!

【今日の京都令和4年12月17日(土)】(No.2952)

※掲載の情報等が変更になる場合があります。お出かけ前にご確認ください。

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お出かけの際にはご確認の上、お出かけください。

https://ja.kyoto.travel/news/format.php?id=143

○ 国宝里帰り特別公開(〜3/26)/大徳寺聚光院



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