今日の京都7月11日(月) | 都のかほり日記

都のかほり日記

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おはようございます。 

今日は、1156年に保元の乱が起こりました。平清盛・源義朝らが崇徳上皇らの蘢る白河御所を夜襲し上皇方が敗退。(新暦7月29日)

この保元の乱とその後に起こる平治の乱は登場する人物も多く、人間関係も入り組んでいてわかりづらいですが、今日はほんの少し。

保元の乱は,藤原忠通,頼長兄弟の争いが崇徳上皇,後白河天皇兄弟の対立と結びつき,保元1 (1156) 年7月鳥羽法皇の死を機に勃発した戦い。上皇側は敗れ,崇徳上皇は讃岐に配流,頼長は敗死し,天皇側を勝利に導いた源義朝,平清盛らの武士が政界に進出することとなった。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典



向かって左が後白河天皇右が崇徳上皇
出典Wikipedia

保元の乱は「皇室」「藤原氏(摂関家)」「源氏」「平氏」内でそれぞれ対立構造があったと。
⚫︎皇室(兄弟対立)
崇徳上皇VS後白河天皇
⚫︎摂関家(兄弟対立)
藤原頼長VS藤原忠通
⚫︎平氏(叔父甥対立)
平忠正VS平清盛
⚫︎源氏(父子対立)
源為義VS源義朝

全て、血で血を洗う戦いでした。この戦いでは、あっけなく後白河天皇側の勝利となり、崇徳上皇は讃岐(現在の香川県)に流されることになりました。

この保元の乱は武士が本格的に活躍する時代がいよいよ到来することとなりました。

その後に起こる平治の乱では、保元の乱における褒美の差の不満で起こりました。源平は両者とも保元の乱で活躍したのに、平氏の方が褒美が良かったのです。これに不満を覚えた源氏は平氏と対立するようになりました。

○平治の乱
平治の乱は後白河院政開始後の信西 (→藤原通憲 ) の専横に対して不満をもった藤原信頼,源義朝が平治1 (1159) 年 12月に起した争い。信西の武力的後援者の平清盛が熊野詣に出かけた留守をねらって挙兵したが,引返した清盛軍に敗れて信頼は討たれ,尾張に逃れた義朝も殺され,平氏の全盛期を迎えた。 (→待賢門の戦い )

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

平治の乱の対立
保元の乱が身内での対立となりましたが、平治の乱の対立は平氏VS源氏という構造でした。
この戦いに平氏が勝利をおさめ、その後の平氏の繁栄の時代へと繋がっていくことになります。

この二つの乱によって、貴族から武士へと時代の主役が変化していきました。



保元の乱、平治の乱の関係図
出典保元・平治の乱関係図 ©世界の歴史まっぷ

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昨日は、四条通りに鉾が立ち上がりました。いよいよと祭へとテンションが上がります。 

鉾建ての「縄がらみ」は素晴らしいですね。今日には、その上に懸装品が飾られます。「縄がらみ」が見れるのもわずかな期間です。朝早ければ、まだ見ることができるかもしれませんね。また、今日から鉾建てのところもあります。放下鉾と船鉾です。そちらへお出かけになってはいかがでしょうか?




鉾建ての動画です。
https://m.youtube.com/watch?v=B2BpalFiaQY

お迎え提灯
https://youtu.be/4GiG1kSxRzM

神輿洗い
https://youtu.be/_OBeUdBqX74

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この祇園祭、祇園八坂神社の祭礼です。そこから祭の由来になっています。八坂神社は、神仏習合の時代に、比叡山に属して祇園社と呼ばれていました。祇園社の祭神の牛頭天王が仏教の聖地である祇園精舎の守護神とされていたので、祇園神とも呼ばれ、神社名や周辺の地名も祇園となり、祭礼の名も祇園御霊会となったのです。 
 
当たり前のように、祇園祭とか祇園さん、祇園とか言っていますが、この祇園、どこからどこまでを祇園というのか、気になりました。みなさんは、祇園と聞いて、どのあたりを思い浮かべられるでしょうか? 

花見小路あたり、京阪電車の祇園四条駅、市バス「祇園」、
 祇園甲部歌舞練場、八坂神社周辺、祇園白川巽橋周辺など、思いつくだけでもかなりの広範囲です。 
住所表示で、祇園とつくのは「祇園町南側」と「祇園町北側」だけです。 

現在の祇園は、元は、八坂神社の社領で、祇園は八坂神社や建仁寺の門前町として栄えた街です。 
八坂神社は明治時代以前の神仏習合の時代は「祇園社(ぎんおんしゃ)」と呼ばれていたことから、その門前町も略して「祇園」と呼ばれていました。



 


【祇園の歴史】 
延久2年(1070年)の「太政官符」によると、祇園は
東限白河山
南限五条北
西限堤
北限三条末以南
とあり、この当時の祇園社の領域は下記の写真のあたりでした。

この項参考
『学叢』41号
京都国立博物館刊
 
江戸時代、広く祇園と呼ばれていたのは、祇園廻り・祇園社(現八坂神社)境内・祇園村の三地区より成り立っていました。そのうち祇園村とされる地域は祇園社西門前、四条通りを中軸とした鴨川以東の一帯でした。この地域は祇園社の西門前の門前町として、洛中よりの参詣道として、中世より市街化が進みました。四条大橋は平安時代の久寿元年(1154)の「百錬抄」に「祗園橋供養」の記載があります。 
中世の賑わいがそのまま受け継がれたわけでなく、戦国時代の景観を写した各種の洛中洛外図屏風などでは、この付近にはさしたる町はみうけられません。 
江戸初期には、鴨川の東の地域で、東海道に繋がる北の三条通り、伏見街道に至る五条通り周辺が洛外町続きとして開けていて、四条通り周辺は市街化は遅れていました。 
江戸時代の初期の鴨川改修工事によって両岸に堤防が築かれ、水茶屋などが並び、まず四条通りに面して祇園町北側・同南側が町場となっていきました。その時期は「慶弘紀聞」に寛文6年(1666)と記されています。また、寛文5年(1665)刊の「京雀」には「四条河原いろいろ見物の芝居あり。その東は祇園町北南行ながら、茶やはたごやにて座しきには客の絶ゆる時なし」と祇園町の賑わいぶりが記載されています。更に寛永14年(1637)洛中洛外惣町数人家数改日記には、洛外町として「北祇園」「祇園村南側」の記載が見られます。 
江戸寛文期は祇園町の再開発が行われ、三条通りから町並みが南下し、鴨川に沿って、弁財天町・常盤町・廿一軒町・中之町・川端町・宮川筋一町目の祇園外六町が形づくられました。次いで正徳3年(1713)には祇園町北側の更に北に大規模な造成を行い、一帯が町場となりました。そこに新しく七筋の道を通し、元吉町・橋本町・林下町・末吉町・清本町・富永町が開町して祇園内六町ができました。祇園新地が拡大しました。とはいえ、正徳4年(1714)の洛外町続町数小名家数改帳には「未家建揃不中、町数小名不相極候」と記載があり、まだ人家はまばらであったようです。 
正徳4年(1714)洛外町続町数小名家数改帳では「祇園町北側」とあり、家数59軒、又「祇園町南側」とあり家数60軒とあります。このころ、幕府からの規制を受けながらも、島原遊郭よりも、気楽に遊べる祇園は歓楽街として発展していきました。明治維新の戦火や祇園の火災などにより、衰退する京都の救済策として、建仁寺の塔頭を整理して町地とし、祇園町南側の町並みが整備されました。

この項 参考
『角川日本地名大辞典』
角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和57年『京都の地名』平凡社 日本歴史地名大系30下中邦彦 
 
【祇園が出てくる文学作品】
応仁の乱の頃に書かれた『鴉鷺合戦物語』(あろかっせんものがたり)です。御伽草子・疑似軍記物で巻数は2巻とも3巻とも言われており、著者は一条兼良ではないかと言われています。 
このあらすじは、 
「京都、祇園の林のカラスの東市佐林真玄が、中賀茂の森のサギの山城守津守正素の娘に恋をし、その夫になろうと望むが却って辱めを受け、立腹のあまり、同志を集めて激戦になるが、カラスの東市佐林真玄側が敗北を喫する。 
カラスの東市佐林真玄は遂に高野山に登って出家する。 
サギの山城守津守正素も感じるところがあって出家して高野山に登り、カラスの東市佐林真玄は烏阿弥陀仏、サギの山城守津守正素は鷺阿弥陀仏と名乗ってともに仏道修行に精進するという。」 
この項出典Wikipedia 




【現代の祇園】
東=東大路(旧・東山通り)
西=鴨川沿い
北=白川沿い、新橋通り
南=建仁寺、祇園歌舞練場
この辺りと言われています。
町名でいうと、
弥栄地区
弁財天町、元吉町、末吉町、清本町、橋本町、常盤町、富永町、廿一軒町、中之町、川端町、祇園町北側、祇園町南側、林下町、円山町、清井町
と、いわれています。
特に四条通より南にある、祇園町南側は現在、「祇園町南歴史的景観保全修景地区歴史的景観保全修景計画」により古い町並み景観が残るよう、いろんな規制を設けて町並みを守っています。紅殻格子(べんがらごうし)に簾も美しい町並みが今でも残っていて、観光客であふれています。




また、四条通を挟んで北側は、ビルが並び、ネオン街となっています。ただ、北側で唯一、祇園新橋は昭和51年に伝統的建造物群保存地区に指定され、こちらは風情ある建物が残されています。




【祇園甲部と祇園東】
祇園には、「祇園甲部」と「祇園東」という二つの花街があります。
八坂神社より西側の祇園を、東西に走る四条通と、南北に走る花見小路通で4分割すると、北東の一画が祇園東、それ以外が祇園甲部となります。 
通常、花街の祇園と言えば祇園甲部を指します。

まだまだ奥深い祇園です。
また、補足などありましたら、お教えいただけたら幸いです。

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新しい1週間の始まりです。
今週の京都は、祇園祭にまっしぐらの1週間です。
週間天気予報では、あまりお天気ぐ良くなさそうで、心配です。てるてる坊主を作って、巡行のお天気をお願いしたいです。

祇園祭のひと月は
こちらをご覧ください。

【祇園祭のひと月】
https://ameblo.jp/miyakonokohori/entry-12751083361.html

どうぞ、今日もお元気でいい1日でありますように!
行ってらっしゃい!

【今日の京都令和4年7月11日(月)】(No.2790)

※掲載の情報等が変更になる場合があります。お出かけ前にご確認ください。

 大文字山です。
京都コンピューター学院の映像です。
 http://www.kcg.ac.jp/daimon/index_f.html 

鹿苑寺金閣
ページの下の方にライブ映像のところがあります。
 https://www.shokoku-ji.jp/kinkakuji/

近畿地方の現在の雨の状況です。
 https://www.river.go.jp/kawabou/mb?zm=10&clat=34.86256320369171&clon=135.7296854579934&fld=0

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コロナウイルスのため、中止になっている行事が多くなっています。
お出かけの際にはご確認の上、お出かけください。

https://ja.kyoto.travel/news/format.php?id=143

○ 貴船の川床(〜9/30)

○ 鴨川納涼床(〜9/30)

○ 桔梗を愛でる特別拝観(〜7/18)/天得院

○ 風祭り(〜7/15)/千本ゑんま堂

○宇治川鵜飼(〜9/30)/宇治川

○嵐山鵜飼(〜9/23)/嵐山渡月橋

○ 観蓮会(〜7/31)/法金剛院

○ 陶器供養会(〜7/12)/千本釈迦堂

○「京都の夏の旅」(〜9/30)

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