おはようございます😃

今日も朝が来ました

なんてありがたいことでしょう!

今日も精一杯生きます!


私は教員という仕事が大好きだった。
だったら、なんでやめようと思ったか。
もちろん病気が理由だが、教員になる前から自分の中でルールを決めていた。


それは
子どもたちと一緒に走れなくなったらやめようというものだった。

何故だか知らないけど、教員になる前から決めていた。

東日本大震災のあった頃は、6年生を担任していた。

ある子に
「先生って手が震えるんだね。」
と言われた。その時初めて自分の右手が小刻みに震えていることを知った。

年度が変わり、3年生の担任になった。
校長先生に
「右足引きずっているけど怪我したの?」
と言われた。
痛くも痒くもなんの症状もないけど、念のため大きい病院へ行った。家庭の医学を読んで、似た症状を見つけたから。まさか、パーキンソン病…

そのまさかだった。不治の病…
でも幸いなことに、その時は薬さえ飲めば、全く普通に動けていた。 
まだ大丈夫、まだ大丈夫と自分に言い聞かせて、2年が過ぎた。その頃飲む薬の量はどんどん増え、後2年が限界と自分で覚悟を決めた。
最後の学年をもつことになる春休み、学年主任の先生の教室へ行った。
まだ管理職にしか言ってなかったが、多分私の力でどうにもならなくなることがわかっていたので、
「パーキンソン病です。あと2年頑張らせてください。」
とお願いした。
静かな穏やかな顔で了承してくれた。
学年主任の先生とは前の2年間も一緒に組ませていただいて、絶えず子どもたちの話題で、休み時間のほんの僅かな時間でも盛り上がって、病気のことなど考えずに済んだ。
しかし、症状が急に進み、2年どころか秋には丸付けが厳しくなった。黒板に字が書きづらくなった。
もはや、私の決めたルールを超えたため、最後になる忘年会の日、退職を決め、学年主任の先生に報告した。
忘年会の後、酔った学年主任の先生は
「よーし、今日は朝まで学年会するぞー!」と一緒に学年を組んでいた私と20代の若手の先生を連れて梯子し、本当に朝まで子どもたちの話題で盛り上がった。
でも、心の中で泣いてくれていたんだと思う。学年主任の先生の精一杯の花向けの気持ちの現れだったと思う。きっと酔ってて良く覚えてないって言うと思うけど。最後の忘年会で朝まで子どもたちの話が出来て、幸せだった。学年主任の先生の粋な優しさが嬉しい。

職場で病気のことを知っていたのは、管理職の先生と学年主任の先生。ほかの先生方や子どもたち、保護者の皆さんにも話してなかった。話すと周りの見方が変わってしまうし、何より自分が心が折れると思ったから。
だから、3年生から持ち上がりの4年生で担任が変わってびっくりしただろうなぁ。最後の手紙を残して退職したから。

約1ケ月後、離任式に招待された。
大勢の子が泣いてくれた。
私はそのころちょうど流行っていたアナと雪の女王の話をした。

ありのままの 姿見せるのよ
ありのままの 自分になるの
二度と涙は流さないわ

だから、みんなも泣かないで。
私は本当の姿に戻っただけだから。

離任式の手紙の中に、先生わかっていたよ、心配してたよって手紙がいくつかあった。
みんな優しいなぁ。子どもだからってバカにしちゃいかん!ちゃんと一人の人間なんだよね。
わかってたんだね。
子ども感性は素晴らしい。


だから、私は納得して退職の道を選んだ。
管理職にも、例えば担任をしないで続けてはどうがとか、異動する可能性もあるとかそう言うお話もあったが、自分で決めたのだ。

退職を決めたのは自分。

ただ一つ言えば、仕事が嫌いで辞めたわけではない。
だから、遠くから先生方の手助けをしたいのだ。
本当に教員という仕事が大好きだから。
仕事としては辞めたけど、心はまだまだ教員なんだね。それがいいか悪いかわからないけど。


長くなりました。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。