規律正しい生活とは、礼儀正しく、時刻を厳守して、身なり正しく爽やか~に世の中を泳ぐことだと思っていました。
あたしの今の理解では、「規律」って、部屋を片付けるとか、身なりをきちんとするとか、図書館に期日まで本を返すとか、髪はこまめに洗うとかの生活の中の行動を普通にできるかということです。
そうできなかったあたしのことは、他の人からはただの怠け者で不潔なぐーたらにしか見えなかったと思います。
ま、兄弟もそう思っているようで、ダメ姉と思われてます。
時々、お願いもしていないのに喝を入れられます。
他人のことはいいけど自分の面倒が見られません。
あたしは、自慢じゃないけど、他人様の事にはよく気が付いていました。
何を欲っしているかわかるから。
例えば、我が家の自室以外の整頓はする。
習い事の、稽古場はかたづける、職場の整頓もそう。
でも、職場でも、家でも、あたしの机の中や部屋の中はいつでもぐちゃぐちゃでした
自分の外の世界は何とかしなくちゃならないけど、自分の内面や部屋は二の次に決まってました。
共依存も抱えていましたから、そんなもんでしたよ
ばっちいのですが、髪を洗うのはひと月に一度くらい、図書館の本を返すのは期日を過ぎただいぶ後、督促状が来たら。
服装は、女子らしさなしの服装。
他人に言わせると、「自分を守るための服装」
自分の部屋は、ほかの家族のための空間を掃除した後でないと面倒を見てはいけないので(躾だから)、あとから後からと考えているうちにぐちゃぐちゃで綿埃があって普通。
やらなきゃならないことは、そういうわけで家族のことが先だから、ほとんど自分優先にはならなくて、そのうちにほとんどがしようと思っても、期日が迫っても手が付けられなくなってきて、いつもギリギリか間に合わない。
ってことで。
そんな「ダメ子ちゃん」でした。
あたしは、きっとそういう性格なんだろうと思っていました。
怠け者だろうし、夢があっても、それに向けて勉強すらできませんでしたから、もう、自分なんてダメなやつに決まってると思ってたくらいです。
もう、早くいなくなれって思ってたし。
回復と成長の作業が始まっても、なかなかできませんでした。
心の調子が悪くなると、さらにできなくなり身動きが取れなくなって眠るしかないときもありました。
あたしをよく知る友人に、そう話しては「動け無いなら、仕方ないから、寝なさい。」と言ってもらい、ご飯もしないで、歯も磨かず、お風呂もしないで、倒れるように眠るしかありませんでした。
あたしは、落ち込むと意識プッツン型なものですから。
散々探した自己肯定の本に、「アダルトチルドレンから回復してくると、規律ができてきます。」みたいなことが書いてありました。
最初は、悪くなるという事は、良くもなるんじゃないかって思ってとにかく早く早くとカウンセラーのセンセーにせっつく用にカウンセリングを受けてました。
センセーにだいぶ後に聞いたら、あたしはアダルトチルドレンとしては重症のほうでした。
結局、とんでもない時間をかけてどん亀のように歩みを進めることになってしまったのです。
心の調子が良いと、部屋が片付いたり、しなくちゃならないことが、スッとできます。
調子が悪いと、目の前でもどうにも手が付きません。
ある意味、何かできるかは、心のバロメーターになりました。
いまは、部屋の綿埃もだいぶ減りました なんと、図書館の本も期日通りに返却しています
毎日のように髪を洗っています。
自慢できるのは自分にだけですけど。
そんな風に規律を感じるようになれたのは、毎日短い時間でもなるべく瞑想をしてきたからかな?
と考えるようになりました。
いわゆる、流行で言うなら「マインドフルネス」です。
瞑想の方法もいろいろあるんで、あなたもしやすい方法を探してみてください。
早い話が、何も考えず静かにスーハースーハー(呼吸音)してるだけなんですが
人間工学でも、人はぼーっとする時間が必要とかで、あたしがこの人は心が健康だと思う人は、観察してると時々ボケーっとしたりしてます。
あたしはこの時に、無意識につながるんじゃないかと思ってます。(ざ・和光論)
長いこと、やったり休んだりしながらこの瞑想と付き合ってきて、この頃、やはりしたときのほうが断然物事がうまくいってると思うようになったからです。
あたしは、調子が良いと何も考えずにすんなりと食事の用意に取り掛かったり、洗濯や掃除ができて気分が良いのです。
心が乱れた時、体調が悪い時は、片づけをしようとしても、いやで取り掛かれなかったり、理由をグダグダつけては、結局やらずに終わるようなことになります。
勿論、調子が悪い時は無理しないで、休むとか、瞑想をするなどして調子を整えます。
あたしの小さい時は、幼い子供の心で、緊張が多く叱られないかとあれこれ対策を立てたりしてましたから、ぼーっとする暇なんかなかったのです。
多分、顕在意識ばかり使っていました。
油断していると、どこで親に叱られるかわかりませんでしたから。
弟たちの動向にも目を配り、お父さんお母さんがいつ不機嫌になるか冷や冷やしながら生きていました。
ボーっとなんかしていたら、ゴゴーっと焼かれてしまうと思っていたんですね。
よく禅寺の修行に、座禅がありますが、あれって「修行」だと思うから厳しそうで大変そうなんですが、単に「修行」モードを取っちゃうと、ボーっとしていると思うんです。
自分がうまくいくように、坊さんがみんなで朝晩にボーっとしてると思うとほほえましいですね。
でも、宗教って最初は人間が幸せに生きる考え方=哲学みたいなところから始まったように思うんですよ。
なので、ポリシーのないあたしが言う事なんで研究論文は書けないし、つき詰めた質問をされても困るんで、質問やインタビューは受け付けませんが、とにかくみんなでぼーっとしましょうというおすすめです。
だけど、あたしの場合は、瞑想を始めると、「あれはこうだ、誰がこうした。」と考えがぐるぐるしたり、もやもやと不安な気持ちや昔痛手だったことが出てきて集中できないことが度々、いやいや沢山ありました。
そんな時には【マインドフルネスタッピング(R)】で、手放しつつ、何も考えずにボーっとできるようにしてきました。
手放してきて、はじめて「瞑想ええわ~」と思う今日この頃となったわけです。
やはり瞑想も、心が整って初めてなんだなって。
修行したお坊さんはわかりませんよ。
「心頭滅却すれば火もまた涼し」なんて言う強烈な集中をしていた方もいるので。
凡人のあたしは、こんなもんでいいんですよ。
十分です。
こうして、本格的にぼーっとした時間を持てるようになって、やっとこさ「規律」らしきものを感じるようになりました。
「早く人間になりた~い」と思って焦ってばかりいたあたしも人並みの規律を手にし始めた感じです。
部屋が片付けられるだけで、「うれしい」なんて、簡単で普通の喜びのようですが、人並みになることがどれだけ遠く長く手に入らないものだったかと振り返ると、あたしにとってはすごく特別な宝物的なものなんですよ。
人並ができずに生きづらかったわけですから。
れっつ、ぼー ぼー ぼー・・・