死ぬとどこへ行くの?という正解のない答え | 田中ウルヴェ京オフィシャルブログPowered by Ameba

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だいたいですね。

母親っちゅうのは、難しい立場です。

もしかしたら、

よっぽど

メンタルトレーナーとか

心理学者とかでいる方が

ラクかもしれん。


だって。

メンタルトレーナーは、技術のコーチやトレーニングのコーチたちと一緒に選手を育てられるし。


心理学者としては、既存研究を調べて、そして隙間を調べて、既存理論の隙間に仮説を立てて。

で、その仮説で、調査して。

理論を立てていく。

そこに、すっごい現場での覚悟とか、

瀬戸際とか。

じつはあんまりない。


少なくとも自分の経験上では。


よっぽど、

メンタルトレーナーとして、今、北京に向けて頑張っている様々な競技の選手たちにメントレしているときに、

絶対に間違えたらいけないから、緊張するし。


そして、シンクロのコーチだった時は、やはり時間が流れていくなかで、やはり貴重な時間を無駄にしないようにと緊張の連続だった。


ところで。

とにかく。

母として「やるべきこと」は、時に、非常な専門性をともなう。


昨日。

とても穏やかな土曜の昼。

自分が講演から戻ってきたら。


もうすぐ6歳になる娘と数を数えるゲームをやっていた。


「ママ、3000年の前の数字はなに?」


「3000年の前は、2999年だよ」


「ママ。じゃあ、私は、2999年には、何年生になっているの?」


ふと、思わず本音が出そうになり。

「そんなもん、2999年には、この世に今生きている人、みーんな死んでるよ」

と言いそうになったけど。


ぐっとこらえて。


「うーん、そうだねー。

人間というものは、長く生きても120歳くらいまでだから、2100年くらいには、すでに○○ちゃんは、おばあちゃんになっているからねえ。2999年には、天国にいるかなあ」


すると。


娘は、無言で、部屋に戻った。


どうしたのかな、と思ったら、


大泣きの声。


げ、っと思って。


部屋に行って、「おー、○○ちゃん、どーしーたのー?」


と明るく聞いてみたら。


「ママ、悪い!

ママ、せっかく、私が、死ぬことを忘れていたのに、そんなこというから、死ぬっていうことを思い出しちゃった。

だから悲しい」


と。大泣き。


ほんの数年前に、今9歳になる息子と同じやりとりをしたことがある。


自分は、死ぬのが恐くて、10歳の時に、

「それなら、歴史に残る人物になれば、自分が死んでも、自分が生きた証が残る」

と偉い勘違いな思いこみをして、必死にシンクロをやった経緯がある、、、。


結局。


死ぬことを説明するのは難しい。


本来。

なんとでも言おうと思えば言える。


でも、理論的に、現実的に言うことは、いいことなのか。

あるいは、非現実的に、適当なことを言ってごまかすのはいいことなのか。


そして。

大体、自分だって、「本当の」理論的や現実的なことを知らない答えじゃないか。


正解は、たぶん、

「そうね、ママも死んだことないから、わからないのよね」

だろう。


だから、どうやって生きるか、という話に持っていくしかないのだろう。


しかし。

正解のない答えを子供に伝えていく時には、哲学がいる。

家族の哲学だ。


だから、今朝は、ダンナにちょっと時間を取ってもらって。


どういうスタンスで、夫婦は、このことを子供に伝えていくか話し合った。


思うのは。

やはり、夫婦という男女で考えることは大事だ。


そして。

結局は、愛だ。

そこに哲学を置いていくしかない。


とにかく。

私たち夫婦は、クリスチャンなので。


そろそろ、一つの選択肢の一つとしてにしかならないが。


ちょっと、母校の聖心のシスターに相談することにした。


ま。

この話は長くなるので。

また追って。


もしも皆様のなかで。

ご家族で、死について、お子様方に、どんなふうにお話し合いをされているのか、お教えいただけると幸いです、、、。