私の父には仲の良い従姉妹たちがおり、子供の頃、中央線沿線で近所に暮らしていたとかで親しい間柄でした。
父は男4人女1人の5人兄妹。従姉妹のところは女性ばかりのたしか4人姉妹。ひとことで言って大変ユニークな方たちで、音楽家の方もおり、初期の桐朋学園の子どものための音楽教室の先生もしていましたが、イタリアに留学。イタリア人の画家と結婚したが離別、スズキメソッドでピアノを教える活動をペルージャでするというかなりユニークな方でした。この人が○○さん?
ではありません。
(彼女はサッカーの中田英寿さんがペルージャのチームに移籍したときに、ニュース番組で「中田英寿より先にペルージャにいた日本人」としてとりあげられたこともありました。)
実は四人姉妹の1番下の妹さんが有名音楽家と結婚しており、クラシック音楽好きの父もその人と交流していたのです。彼はアメリカで小澤征爾さんが音楽監督をしていたサンフランシスコ響の首席ファゴット奏者を務め、アスペン音楽祭という有名音楽祭の先生も長く務め、日本に帰国して都響、新日フィルの特別楽員、そして愛知県芸や桐朋で教鞭をとった、日本を代表するファゴット奏者の中川良平さんです。
(ようやくたどり着いた。。)
父は中川さんに連絡をとり、僕は桐朋学園に行って彼に会うことになりました。
小田急線の成城学園前駅からバスに乗り、なんとか桐朋学園にたどり着きましまが、僕はこわくて内心不安でたまりませんでした。いくら親戚とはいえ、そんな世界的奏者の前で何が起きるのやら。。
中川さんは木管アンサンブルのレッスンをしていました。彼を知っている人にはわかるのですが
強力な、なんというか鼻のつまった声で勢いはすごく、しかし聞き取りにくい声で話す方でした。
「お父さんは元気かな。まずは何かソロ弾いてみて」
桐朋学園の学生さんたちの前で何か弾く羽目になりました。いや、せめて中川さんと一対一がいいんだけど。。
なんとか弾いたあとに彼はピアノの所にいき、ドとソの音を弾き、
「これにハモるミを弾いて」など
いろいろやった後に
「ちょっとメシでも行こう」と言われ、京王線仙川駅の商店街の中にある中華屋さんに行きました。代一元だったかな。
「君はさ、剣の道で言ったら山の中で猿やなんか相手に好き勝手に刀を振り回していたのが、急に街の道場に降りてきたような状態なんだよ。あまりにたくさんの習うべきことがあるんだ」
「音楽家という仕事は、成功したら自分の好きなことを仕事にできるわけだし最高なんだけど、あんまりうまく行かないと地べたを舐めるような本当に大変な暮らしになるのだよ。いいかい、今晩家に帰ったら、もう1人の自分とよく話すんだよ。
君はもしかしたら成功しないかもしれない。
本当に経済的に苦しい生活かもしれない。
それでも死ぬ間際にもう1人の自分と話して、
あー、俺は音楽をやれて幸せだったなと言って笑って死ねるなら音楽をやりなさい。」
そのあと、どうやって中川さんと別れたか、どうやって家に帰ったのか記憶があまりありません。
とにかく涙が止まらず、小田急線の中でもチェロケースに顔を突っ伏して、幼い子どものようにヒクヒク言いながら泣いていたと思います。周囲の人はびっくりしたでしょうね。
なんであんなに涙が出たのか、いま考えてみると
素晴らしい大音楽家が子どもに対して、真剣に向かい合い、尊重しながら、本気で話してくれたということが生意気で勢いだけの10代の男の子の心に響いたのだと思います。
そのあとしばらくして始まった木越さんのレッスンも凄まじい気迫で平均3時間弱、長い時は4時間を超えました。
(半額なのに。。)
2人の素晴らしい大人の本気によって僕は現役で桐朋学園に合格することができました。(入試期間中に高熱を出して、近所の知り合いのお医者さんに夜中に来てもらい、注射してもらったこともありましたっけ。お世話になった人の多いこと!)
合格発表は今のようにネットなどはないので、学校での掲示のみです。
自分の受験番号を見つけて、(やった!)と思った瞬間に横に中川さんが現れました。
「どうだった?」
「受かりました」
次の瞬間、彼は近くにあった公衆電話からうちに電話してくれました。
「おかあさん?息子さん受かりましたよ!」
電話口の向こうで母が喜んでいる声が聞こえてきました。
そんな思い出があるので毎年5/3憲法記念日は身が引き締まる思いなんですよ。
もちろん音楽大学の合格なんてのはまさに物事が始まっただけで、これから後が本当に大変だったのですが、ま、そういった話はまたそのうち。
GWスペシャルおしまいでござるー。