不登校というのは、本人が選びとった避難所です。
そこを追い立てるのは、天災で避難所に逃げ込んだ人々を追い出すのと同じなのです。
せっかくの避難所ですから、本人に折り合いがつくまで、とどまってもらうのが一番です。
そのうち空模様を見て出て行くかもしれませんし、他のもっとよい避難所を見つけて移っていくかもしれません。
このとき本人が発揮しているのは、まさしくネガティブ・ケイパビリティと言っていいでしょう。
どうにもならない状況を耐えている姿です。
箒木蓬生(ははきぎほうせい)
不登校の子が発揮するネガティブ・ケイパビリティ
私のクリニックには、不登校の子供が親に連れられてよく受診します。
ほとんどの親が、このままだと我が子は、世の中から落ちこぼれていくと、恐れおののいています。
無理もありません。
ところてん式の教育を自分も経験し、必死で世の中の仕組みに適応してきたのですから、子供がそれを拒否したとなると、天と地がひっくり返ったような恐怖感を覚えるのでしょう。
しかし当の本人は、自分が受けている教育がどこかおかしいと感じています。
おかしいと感じている子のほうが、そうでない子よりも直感的には正しいのかもしれません。
まして、そこにいじめや仲間はずれ、中傷がはいってくれば、教育の場は変質します。
楽しいどころか、恐怖の場になってしまいます。
その恐ろしい場所に、意を決して戻りなさいと言うのは、燃えている家に飛び込めと言うくらい酷でしょう。
不登校というのは、本人が選びとった避難所です。
そこを追い立てるのは、天災で避難所に逃げ込んだ人々を追い出すのと同じなのです。
せっかくの避難所ですから、本人に折り合いがつくまで、とどまってもらうのが一番です。
そのうち空模様を見て出て行くかもしれませんし、他のもっとよい避難所を見つけて移っていくかもしれません。
このとき本人が発揮しているのは、まさしくネガティブ・ケイパビリティと言っていいでしょう。
どうにもならない状況を耐えている姿です。
となれば、親も同じようにネガティブ・ケイパビリティを持つ必要があります。
わが子が折り合いをつけて、進む道を見出す時が来るまで、宙ぶらりんの日々を、不可思議さと神秘さに興味津々の眼を注ぎつつ耐えていくべきです。
私の家のすぐ近くに「アテスウェ」と言う名のフランス料理店があります。
“A tes souhaits”と言うのは、フランス人がくしゃみをした人に対して口にする科白(せりふ)です。
「望みがかないますように」という意味で言うのでしょう。
シェフはフランスで修行したこともある人で、いつも創意に満ちた本物のフランス料理を出してくれるので、編集者との会合には必ずそこを使います。
そのシェフに随分前に尋ねたことがあります。
料理学校では、覚えの早いほうでしたか、つまり優秀だったかと、訊いたのです。
返事は意外でした。
覚えが悪かったというのです。
覚えが早く優秀な者は、すぐに料理の世界から足を洗い、今店を持っているのは、みんな成績が悪かったものばかりという答えでした。
覚えが早いと、見切りをつけるのも早く、じっくりその道を諦めずに歩み続けるのは、覚えが悪い人たちだったのです。
ネガティブ・ケイパビリティは、むしろ鈍才のほうが持っている証拠でしょう。
つい最近、「タイム」誌に興味深い論考が載りました。
親は普通で、生まれた子供がすべてそれぞれの道で成功を収めている、九家族を調査した結果の報告です。
全員が二人か三人兄弟ですが、全く違う分野で傑出した仕事をしているのです。
例えば、三人姉妹の場合、長女は大学の疫学教授、次女はユーチューブのCEO、三女は遺伝子検査会社のCEOです。
一男二女の場合、長女はヤフーの大幹部、長男は検事、次女は保健局長といった具合です。
かと思えば、長男がペンシルベニア大副学長、次男はシカゴ市長、三男がハリウッド映画制作会社協会の事務局長と言う三兄弟もいます。
しかし、両親は普通の人々で、親の七光の要素は皆無です。
この九家族の教育から共通点を引き出すと、次の六つの要素が見えてきました。
第一は、ほとんどが他国からの移民でした。
移住者はそれだけで、本国人に比べてすべての面でハンディキャップを負います。
簡単に言えば、百メートル競走を、スタートラインの後方、五メートルか十メートル地点から、スタートするようなものです。
しかし、このハンディが、子供たちに負けてなるものかと言う向上心と忍耐強さを与えていました。
第二に、両親は子供の小さい頃、教育熱心でした。
0歳から五歳までの学校教育以前の早い時期に、子供たちにさまざまなことを学ばせていました。
つまり、学ぶ心を、修学以前に植えつけていたのです。
第三は、親が社会活動家であり、世の中をよりよく変えていくための運動をしていました。
子供は親の行動を通して、社会の不合理を学び取り、それを変革していく姿勢を学んでいたのです。
いわばこうして自分を取り巻く世界の理解を深めたのです。
第四は、家族の中が決して平穏ではなく、両親の言い争い、きょうだい喧嘩と無縁ではなかった点です。
とはいっても、両親の争いは決して暴力沙汰ではなく、社会の見方の違いからの意見の突き合わせのようなものです。
不登校や万引き、喫煙、殴り合いの喧嘩も、子供たちは十代の頃経験しています。
移民の子としていじめられた子供もいますが、これが却ってなにくそという精神力を培っていました。
第五は、子供時代に、人の死を何度も見て、生きていることの貴重さを学んでいる点です。
人の死を知ることは、自分の人生の限界を知ることに直結します。
だからこそ、生きているうちに、自らのやりたいことを成し遂げる馬力も、生まれてくるのでしょう。
最後の六つ目は、丁寧な幼児教育のあとの、放任主義です。
すべての子供が、何をしても許されたと言います。
すべてを自分自身の責任に任せられると、逆に子供は野放図なことはできません。
「お前たちは、他人のゴールには絶対辿り着けない。お前がテープを切れるのはお前のゴールだけだ」と言われたのです。
この六つのどれひとつとっても、いわゆる教育ママやパパのやり方とは正反対です。
親が敷いたレールに子供を乗せ、猛スピードで後ろから押していく方法とは好対照です。
そしてそこに、私たちはネガティブ・ケイパビリティの力を見ることができます。
箒木蓬生(ははきぎほうせい)『ネガティブ・ケイパビリティ答えの出ない事態に耐える力』より一部引用
貫井投稿