(その1)のつづきです。

かお私とのつきあいは宮城UPが中心でしたが、Hさんの第一の舞台は、ご自身が代表を務めていたレッツさんです。この通信のブログ友達でもあります。

私は昔から、地域生活・社会参加・リテラシーの3つが一体となったIT支援を思い描いていて、レッツでのHさんのやり方こそが、地域支援の理想型になりうると考えていました。だからマイクロソフトから宮城UPを引き受ける事になったとき、Hさん抜きというのは考えられませんでした。そこでHさんに、プログラムA=地域拠点作りのチーフを引き受けていただきました。

また、万人を魅了するHさんの人柄に、私も引きつけられていました。兄貴肌で仁義は通すけど、融通がきき、かつ気配りがきく。Hさんには宮城UPでも、みんなをまとめてもらいたくて、内容決定の場でありかつ意志調整機関でもある、宮城UPの中心・テキスト委員会の議長をお願いいたしました。

まだ他のプログラムがはじまっていない中で、宮城UPはスタート時点から、Hさんにおんぶにだっこだったわけです。その時の甘えを、ずっと引きずってしまったことを、後悔していますし、その後の講習で、言い出しっぺの自分が力になれなかった事を、今でも恥じています。

汗

プログラムAの出発点は、2005年夏の県東部・矢本からでした。これもHさんに頼りっきりになってしまって、相当困っていらっしゃいました。私もコーディネータのU氏も「ああ、もうダメだ」と怯んだことも幾たびか。そのたびにHさんの力とネットワークが私たちを引っ張っていって下さり、石巻講習として育ててくださいました。過疎地域での密着型拠点支援として、他に誇れる先行事例を作り上げてくださったのは、すべてHさんの尽力と才覚のたまものです。

正直、Hさんとは幾度も意見の言い合いになり、喧嘩状態になったこともありました。Hさんは現場にいない私のことを、あまり良く思っていなかったでしょう。でも私の方が正しければ、しっかり協力してくださったし、私が間違っていれば最後まで諭してくれました。私は「Hさんが賛成ならGo。反対ならやめる」と判断の規準にしていました。あの目の確かさは、まさに利用者中心の現場主義から来ていたのでしょう。私の片思いでした。

UP2年目の2007年頃から、「Hさんが疲れている」という話をたびたび耳にしました。多方面で活躍なさっていたので決められませんが、UPが荷物のひとつになっていたのは明らかでした。UPの職を引いてもらった方がよいという話もありました。大黒柱に休んでもらうという勇気が、私にはありませんでした。

宮城UP通信(アメブロ版)-ドラちゃんストラップ2008年初頭、一本の電話で、Hさんが倒れたのを聞きました。まず思ったのが「信じられない」と「後悔」でした。

ドラえもんグッズを集めていらしたので、東京から仙台に行くたびに何か見繕っていっていました。2月のご葬儀のさいに、ドラちゃんのケータイストラップ東海道版を一緒に入れて持っていってもらいました。大好きだったドラちゃんと、東海道膝栗毛みたいな道中をと思って。今の私のケータイにも、同じものがついています。

ドラちゃんをぼーっと見ることが、多かった一年でした。でもわかっているんです。いいわけにしてはいけない。天国から見られていたら、あまりの私の情けなさに、いつもの苦笑をされてそう。新年こそは心を入れ替えて、頑張らないと。

もっとも、気持ちを入れ替えて頑張ろうなんて、すでに人生で何度も決心して、この体たらくなんですけどね。そんな私を苦笑しながらも一緒にやり通してくれた、Hさん。

世の中も人生も、やはり思うようにはなりません。でも、それがいいんですよね。ねえ、Hさん。