凸 124/200 品川台場、24/01/06土
 
ラーメン23区巡り、品川区(別記事)から
 
1135 北品川
  ↓        京急本線 150円
1137 品川
  :        徒歩
1145 品川駅港南口
  ↓        kmモビリティサービス(レインボーバス) 220円
1202 お台場海浜公園前
 
お台場海浜公園の砂浜へ出て、東京湾とレインボーブリッジと品川台場(第三台場)を撮影。
 
 
 
マリーンハウスのトイレへ行き、スタンプを。
 
砂浜を反時計回りに歩き、台場へ
台場入口
 
1853年6月3日のアメリカ人ペリー来航は、江戸幕府を長い鎖国の眠りから覚ますことになった。ペリー退帆後、幕府はすぐさま江戸湾の海防強化の検討に入り、勘定吟味役格 江戸太郎左衛門英龍(担庵)らによる江戸湾巡視の結果、内海防備のための御台場築造を決定した。築造計画は、西洋の築城書・砲術書などを参考にして、南品川猟師町(品川洲崎)から深川洲崎にかけての海上に11基の御台場を築造しようとするものであった。工事は1853年8月末に着手され、昼夜兼行で進められた。土取人夫は第一・第二・第三台場築造時で5,000人にも及び、総築造経費は75万両(現代の貨幣価値換算で約700億円)という莫大なものとなった。第一・第二・第三台場は翌年の1854年7月に、第五・第六台場と途中で加えられた陸続きの御殿山下台場は12月に竣工した。第四・第七台場は築造に着手したが、工事半ばで中止し、第八台場以降は未着手に終わった。最終的に6基完成した御台場は、徳川将軍家に近い親藩・譜代とそれに準ずる家格を持つ大名によって、1868年の幕府崩壊直前まで江戸湾防備の拠点として警護が行われた。
 完成した6基の御台場は明治6年(1873)に海軍省の管轄となり、明治8年(1875)に海軍省から陸軍省に移籍された。その後、第三台場は第六台場とともに、大正4年東京市に払い下げられ、大正13年東京府知事によって史跡の仮指定を受け、大正15年国指定史跡となる。その後、東京湾に浮かぶ6つの御台場は、2つの史跡を残して埋めたてられたり、撤去されて姿を消していった。今なお当時の面影をしのばせる第三台場は、都立台場公園として人々に親しまれている。
着物を着た女性の撮影会でした。
 
↓かまど跡
昭和3年の公園の開園に伴い設置された大谷石製の八角型のかまど
 
 
↓火薬庫跡
周囲に土堤をめぐらした木造瓦葺の建物。火薬は火災や被弾の危険に備え、園内数か所に分散して格納されていた。
 
 
↓砲台
西洋式築城法により外周部に築造された砲台。現在、園内に設置されているものは当時の記録を元に昭和8年に復元された。
 
 
↓第六台場、レインボーブリッジ、東京タワー
 
金版止場
↓陣屋跡(基礎)
勤番者の居住地として中心の低地部に建造された建物。基礎部分のみ今も現存する。
 
 
1329 お台場海浜公園
  ↓        ゆりかもめ 325円
1342 新橋
1351
  ↓        JR山手線 178円
1409 西日暮里
1414
  ↓        東京メトロ千代田線 209円
1431 北綾瀬