突然、大悟して、そのままそれが続く。ずっと絶対の領域、愛の領域にいる。

そんな人って超絶ラッキーですよね。

 

小さい気づきを少しずつ重ねて、歩む道は、いつでも相対の領域に引きずられる、茨の道。

 

なにか「外」の世界があって、自分の苦痛は物事や他人のせいにできるなら、なんて楽なのか。

 

 

でもそこは相対の領域、不幸の領域だから。そこに愛はないから。

 

 

「今野、そこに愛はあるんか?」

 

 

 

誰かがなにかが、自分を幸せにしてくれるのではない。

 

OSHOのたとえをもう一度。

暗がりの道で女がしゃがんでなにかを探している。通りがかった男は女に尋ねた。「なにか探しているのですか」

「はい、針を探しています」

「どこで落としたのですか?」

「家のなかです」

「あなたは前から変わった人だと思ってましたが、それなら家の中を探せばいいでしょう」

男がそう言うと、女は立ちあがって言った。

「これがあなたたちが普段やっていることです」

 

 

 

 

 

外の世界(と見える)ものは、すべてあなたの内側の投影であるということ。

 

それなのに、外の世界を叩く、裁く、外を変えようとする。

 

これは自分を殴っているのと同じことなのです。

 

 

自我にとっては、とても酷なことを言ってるのはわかってる。

理解ができないのも。

 

自分は被害者であり、あるいは加害者だと、相対の世界に戻るのも良し。

 

あなたの中の神性、愛は、それでもあなたを見捨てはしない。あなたを愛している。

 

 

 

勘違いが発生することがあるのですが、決して感情を押し殺すことではないです。

悲しいときは悲しみ、怒りたいときは怒りが湧く。それをネガティブなものとして押し殺すこととは違います。

 

 

 

相対の世界から絶対の世界へ。そこに愛があります。