理想の生き方とか、崇高な生き方とか、それは二元的な話であって、そういうのも含めて、いいとか悪いとか、今まで積み重ねてきた固定概念を捨てるほうが大事です。

 

 

 

非二元の話は生き方でも心の話でもなく、知識を増やせばたどり着けるところではありません。

 

 

産まれたての赤ちゃんに、あれがいいとかこれがいいとか余計なものはありませんね?

 

悟りとは、赤ちゃんのような状態に戻ることであり、知識を増やして、余計なものを増やしてたどり着けるところではありません。

 

 

野球の練習をしなければ、決して野球選手、しかもプロ、しかも大谷翔平のようにはなれない。けれど、これは二元の現象世界の話です。

 

悟りにとっての練習というのは、やることでなくやらないことであり、コーチに言われた通り素振りの練習を毎日できるかが重要であるように、ただ黙って座りなさいと言われたら、ただ黙って座ることが唯一の可能性なのです。

 

たくさんの人を見てきた。

 

凡百の悟りを求める人たちを。

 

99パーセントの凡庸な人は自我を押し通す。

 

1パーセントの非凡な人は、愚直に座る。黙る。求めない。

 

 

理解とは二元の世界では足し算で得られるものと考えられる。だが、非二元の世界、真理の世界は、いままで拾ってきたものを捨てて、引き算しなければならない。

 

 

引き算して、ようやくアタマがなにもない状態になって、やっとスタート地点に立てる。やっと、釈迦だかキリストだかなんだかが言ってることが「理解」できる。

 

 

あなたは薔薇を知っていると言う。

 

名前を知っているだけで、見たことがあるだけで、それは知っているわかっているということになるのか。多くの人は考えない。

 

 

賢者だけが言う。「わたしはなにも知らない」と。