説法を聞けば、勉強すれば、何冊も本を読めば、いつか理解できると思ってる。
結果、知識だけの人になる。
知識だけは豊富だから、マスコミの切り取り報道と同じで、あいつの言ってることは××先生と違うから、あいつは違う、偽物だとかなる。
現代の教育方法が、とにかく詰め込む、暗記するという方式だから、賢くなるということはそういう事だろうという感じで、知識があること=賢いとなっている。
これは理解とは違う。
いつまでも字面を追っているだけでは理解が及ばないのが、禅的な世界、気づき、悟り、非二元である。
言葉を超えた世界だからである。
言葉で表現するのは無理なのだ。
アタマは邪魔なのだ。
考えるな感じろと、多くの悟り人が言うのは、まさにその通りで、今起きていることにどれだけ気づいているか感じられるかが重要であって、そこに気づいているなら説法なんて要らんのだ。
手がなにか触れている。その感触。
それだけがすべてだ。それしか存在してない。
只管打坐
ただ座るということができない。
暇な時間ができたとしても、ついスマホを見る。テレビを見る。本を読む。ああ、時間だ、仕事しなきゃ、料理しなきゃ、あれもしなきゃこれもしなきゃ。
自我は常に動いてないと気が済まない。
ただ座るということができない。
一切放棄するということができない。
湧きだす思考に耳を傾けてしまう。
だから多くの悟り人たちは言ったのだ。
只管打坐
黙ってただ座りなさいと。
ただ座っているだけで、なにかリターンがあるのですか?悟りを得られるのですか?
時間の無駄ではないですか?自我は必ず反発する。
なんの保証もないです。
でも、黙って座りなさい。
よぎる思考を無視しなさい。