今夜は、坂本龍一さんのコンサートに足を運んだ。

赤坂サントリーホール。

ピアノの音とは思えない、ものすごく柔らかな音に驚く。楽器じゃなくて、風みたい。ミヤビメソードと同じく、やっぱり手首で円を描きながら全身で呼吸している。

戦場のメリークリスマスや、ラストエンペラーや、大河ドラマ八重の桜などの名曲を聴きながら、

禅の思想である「行雲流水」という言葉が浮かんできた。

雲のように形を変え、水のように流れながら、よどむことなく宙にゆらぐ音楽。

目的や主張や終着点をもたない音楽。

一滴の水は、いつしか海になる。

共演の、東京フィルハーモニーオーケストラによる、うねる波のような強弱の変化も素晴らしかった。

日本のオーケストラが、モーツアルトやベートーベンの交響曲をやるときに、どうしても平面的な音に感じてしまうのだが、

今日は、団員みんな力が抜けていて、楽器が美しく豊かな響きを生み出している。

もしかしたら、

西洋の楽器、西洋の音楽をやるとき、私たちは無意識に力んでしまっているのかもしれない。

モーツアルトのフルートとハープの協奏曲をウィーンフィルのメンバーと共演したときに、彼らが「モーツアルトは、僕らにとっては子守唄だよ。リラックスして鼻歌みたいに弾けばいいんだ」と言っていた。

日本人は、モーツアルトを高貴で崇高で立派なものとして身構えてしまう。

彼らにとって、モーツアルトが「赤とんぼ」や「ふるさと」のような血に染みこんた歌であるとするなら、

がんばって西洋のモノマネをしたところで、太刀打ちできるはずはないのだ。

けれども、東洋の心をもって西洋音楽を自分の血に変換したとき、

はじめてオリジナリティーのある新しい解釈が生まれ、本場の演奏を超えることすら可能になる。

坂本龍一さんが、海外で高い評価を得ている理由は、たぶんそこにある。

脈々と受け継がれてきた東洋哲学を世界にも教えてあげるぜ!というサムライ スピリット。

柔よく剛を制す、を目の当たりにした夜だった。
























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