誰かの為に、何かの為に、蒼星石はそんな奇麗事が嫌いだ。いや、それがどれほどすばらしい精神かは分かっている。

皆が皆、そうあれるのであればこの世界はなんとすばらしいことだろう。そこには平和があり、争いなどは無いだろう。

だが、現実ではそんな気高い志を持っている人物は一握りしかいない。

そして、その一握りは多数の利己主義の者達にとって都合のいい存在として扱われるのだ。

蒼星石のマスターである女性の本人の望んでいない、両親という誰かの為の結婚によって生じたやりきれない思いを蒼星石は消化できずにいた。

姉である翠星石はしょうがないですと、悲しげな表情で自分を納得させていたが、蒼星石も表面上はそう言いながらも、心の奥底では納得など出来なかった。

だから、蒼星石は金持ちと結婚しながらも続けているマスターの店のレジに書置きをした。
『彼女の望まぬ結婚をどう思っているのか、この紙を見たその場所で応えてください。』
それは彼女が小太りの男の家から出られなくなった後でも決まってやってくる男性への言葉だった。

そして、その男性は蒼星石の予想通りに決まった時間に店の中へと入ってきて、その手紙を手に取った。

彼はまわりを確認して誰か隠れているのかと探す事も無く、いつもと変わらぬ口調で口を開いた。
「俺の、無力さが生んだ結果だ。」
蒼星石は後悔した。そんな書置きをして、彼にそんな表情をさせたことを蒼星石は心の底から後悔した。

それは、泣きそうな顔だった。



「本当に何もないな。」

「お婆さんは、夢を見ないほどの深い眠りの状態にいるんです。このまま、夢を見ないで眠り続けていればお婆さんは遅かれ早かれ……。」

「ふむ。では、急いでこの老婆の中にある夢の樹へと続く道を探すか。」
雅也達とジュン達は、蒼星石のお世話になっている老人の家の中で眠り続けている老婆の夢の中に来ていた。

雅也と蒼星石の契約に従い、この場に翠星石と蒼星石の他に水銀燈と雅也がいるのは仕方の無い事である。

だが、そうなると真紅が知った際に、それでは翠星石と蒼星石が危ないとついてくることになった。

水銀燈のこれまでの行いを知る真紅にして見れば当然の判断である。

そして、そうなれば必然的に雛苺とジュンがついてくる事は決定した。
「なんで、僕が……。」

「皆で探すのぉ。ジュンも探すのぉ。」
しぶしぶといった感じを装うジュンと一人テンションの高い雛苺は真紅の後に従うようにして老婆の夢の中を歩く。
「人間! ぶつぶつ言ってないでちゃんと探すです!!」

「わかってるよ。まったく、この呪い人形どもめ。」

「聞こえてるですよ人間!!」

「うわっ、危ないだろ!! ビュンビュン飛び回るな!!」
そんな賑やかなジュン組とは対照的に、雅也組は無駄口を叩くことなく老婆の樹を探している。
「あちら側はもう探したので、あるとしたらこっちの方だと思うんです。」

「ふむ。」

「……。」
水銀燈は蒼星石の言葉に無言で、蒼星石の指差したほうへと飛んでいき、蒼星石も慌ててそれを追いかける。

雅也はそんな二人の後ろを徒歩で着いていく。
「あの、雅也さん。」

「なんだ?」

「ここは、夢の中なので、雅也さんも飛べると思うんですけど……。」

「ふむ。本当だ。正直、徒歩では限界があるなと考えていたところだ。」
雅也は自分が、概念的に宙に浮かんでいる事を認識すると、少し嬉しそうに微笑んだ。

だがその感情もすぐに消え、いつもの無表情に戻ると雅也はあたりを見渡しながら、水銀燈の隣へと移動した。

蒼星石はその様子に胸の痛みを感じながらもついていく。

それぞれが、それぞれ老婆の木を探し続け、随分と時間がたったときにその声は響いた。
『もうやめてよ!!』
その声に反応して、広く分散して老婆の木を探していたジュンや雅也達は声の主の下へと集結した。

そして、そこにいたのは短く髪を切りそろえた品のいい、泣きそうな顔をした少年がいた。

蒼星石が驚いたように、その少年に声をかける。
「君は、もしかして、カズキ君?」

『もう、もうやめてよ! お母さんはやっと、やっとなんの不安も無い場所にいれるようになったんだ!! 邪魔しないでよ!!』

「なっ、お前! 」

『ここには、ここには何もない。そうさ!! 怖い車も、悲しい出来事も、何もない所なんだ!!』
ジュンはその言葉に絶句した。

蒼星石達の説明で、老婆が一人息子を交通事故で失ったショックで眠り続けているという事は知っていたが、その眠り続けている原因が他にあったことにだ。

いや、正確に言えばその、眠り続ける原因の叫びが自分の心を掻き毟る音に、と言った方が正しいだろう。
「なんだよ、それ。そんなの、おかしいだろ。」
声が震えている。ジュンは目の前がグラグラと揺れ始めるのを感じながらも、言葉を紡ぎ続ける。
「お婆さんは、生きてるんだ。生きてるんだから、眠ってちゃ駄目なんだ。」

『どうして? 夢の中にはつらい事は一つも無いよ! 悲しむ事なんて一つも無いよ!!』

「それじゃ駄目だ。つらいことや、いやな事から、逃げて、安全な場所で、そんな場所で……。」
お前がその言葉を言うのか?

ジュンは自分の内から沸きあがったその自問に、怯えるように、恐怖するように、口を閉じる。

逃げては駄目だと言葉を紡ぐ自分こそが、逃げているではないか。

嫌な事、つらい事から逃げて、安全な場所に引きこもっているのは自分だって同じではないか。

ジュンの心を貫く自問はその声を大きくして、ジュンを攻める。

焦点がぼやけていく。目の前がチカチカして、足が震えて、ジュンは自分が立っているのか、座っているのかも分からなくなってしまった。

脳裏をよぎるのは引きこもる原因となった出来事。
『桜田って、あいつ、私立に行ったんじゃねえの?』

『それが落ちたらしいぜ。』
うるさい。
『桜田。先生は、お前の才能を素晴らしいと思う!!』
うるさい。
『あのドレスのデザイン書いたの桜田なんだって。』

『桜田ジュンって誰? えっ男なの!?』
うるさい。うるさい。うるさい。うるさい。
「は、ぁ。」
ジュンは息を吐き出すようにして声を漏らすと、怯えてその場にしゃがみ込んだ。
「ジュン? どうしたのジュン!!」
ジュンの突然の変貌に真紅は慌てて、ジュンの名前を呼び、雛苺もジュンの名前を呼ぶ。

その様子を少し驚いた様子で見ていたカズキは囁く様にして、その言葉を投げかける。
『なんだ。君ももしかして、逃げたいの?』

「僕は、僕はぁ!!」

「そこまでにしておけ。」
ジュンとカズキのやりとりを静観していた雅也は仕方が無いという風に肩をすくませるとカスギの前に立った。

その鋭い視線を前に、カズキは怯えたように、そしてその怯えを隠すように雅也を睨みつける。
「つらい事や、悲しい事から逃げる事をまるで光栄な事のようにほざきおって、下らない奴だ。」
呆れたように雅也は溜息をつくと、言葉を続ける。
「つらく、悲しい事があるのは当然だ。つらく、かなしいからこそ、人は喜びや楽しさを知る事が出来るのだから。」

『そんな、そんなの!!』

「なかったとでも言うつもりか? 現実は楽しくなかったと。そんなはずはない。楽しかったからこそ、つらいという言葉の意味を知る事が出来るのだ。」
お前も、俺もと雅也は一度言葉を切ると、しゃがみこんだジュンを見下ろした。
「今というモノは変わり続ける。それはなぜか? そこに生きるものが変わることを求めるからだ。この桜田ジュンもその例外ではないだろう。」

『嘘だ! その人は、怯えてる。逃げたいって思ってるはずだ!!』

「それでも願っているはずだ。進みたいと、今を変えたいと。今を苦しいと、つらいと感じているならば、なおさら。それは、お前の母とて変わらない筈だ。」

『違う! お母さんは、僕と、この世界で二人だけがいいって思ってるはずだよ!!』

「ほぅ。それは、お前もそう思っているのか?」

『当たり前だよ!!』
ニヤリ、と雅也は勝ち誇ったような笑みを浮かべた。

それは正にすべてが自分の思惑通りに進んでいる事を確信した笑みであり、その笑みの意味を唯一知ることの出来る水銀燈は、終わりが近い事を理解した。
「では、お前の父はどうするのだ?」

『えっ?』

「お前を失い、妻を失いかけながらも、現実の中で足掻くお前の父はどうするのだ?」

『おとう、さん?』

「お前を求め、妻を求め、心を病んだ父は、お前達にしてみればいらないということか?」

『そんなことない! そうだ。父さんも此処に!!』

「いい加減に、しろよ。」
それは、泣きそうな声だった。

いくらか気を整える事に成功したのか、しゃがみこんだままジュンが顔を上げる。
「お前だって、分かってるんだろう。」
お前はまだ、この少年に何か言える権利があると思っているのか?

自問がジュンの心を攻めるが、ジュンは搾り出すように言葉を続ける。

一度目を閉じて、呼吸を整え、目を開く。

権利なんて知らない。自分の事なんて知らない。

自分の事を棚において、それはいけない事なのかもしれないけど、でも、それで誰かの為になにかできるなら————
「なにが、一番いいかってことぐらい。」
————進めるかもしれないと漠然とジュンは思った。
「僕だって、つらい事から逃げたいと思う。そして、僕はその通りに逃げてる。でも、それじゃあ、駄目なんだって思う時がある。」

「ジュン。貴方……」
真紅の驚いた顔に、ジュンは微笑んで見せ、それを見た真紅は誇らしげに花のような笑顔を浮かべた。
「君は、本当に君が、君の両親の幸せを願うなら、それなら……。」
続きの言葉を口にする事は出来なかった。

なぜなら、そこから先を考え、決めなければならないのはカスギ自身だとジュンは思ったからだ。

そして、カスギはジュンの言葉に心を打たれたようにその頬に涙をこぼした。
『わかってたんだ。これがいけないってことは。でも、僕は……僕が、このままでいたいと思ったから。』
真っ白で、何も無い世界に色が宿り始める。

そして、白い世界が鮮やかな世界に変わっていく中心にその樹はあった。

弱り果てた、いかにも折れそうで、他の草のしがらみに絡められた樹が、そこにあった。
「翠星石!」

「わかってるですぅ!!」
翠星石と蒼星石は慌ててその樹に駆け寄る。
「レンピカ!」
蒼星石がその木に絡まる草を断ち切る巨大なハサミを取り出すと、たった一閃でその草を全て刈り取る。
「スィドリーム!」
翠星石もそのその掌に、夢の樹を元気付かせる事の出来る如雨露を取り出し、そして言葉を紡ぐ。
「私の如雨露を満たしておくれ。甘ぁいお水で満たしておくれ。」
如雨露の中に、光り輝く水が現れ、翠星石はそれを樹にふりかける。
「健やかにィ~のびやかにィ~緑の葉っぱをキラキラ広げて…!!」
蘇っていく樹を見つめながら、カズキは涙をこぼし続ける。
「ふぃ~、これで一安心ですぅ。」

「カズキ君。君は……。」
蒼星石と翠星石が雅也達の近くに戻ってきて、翠星石は疲れたと文句を呟き、蒼星石は心配そうにカズキを見る。

カズキはそんな蒼星石に泣きながら微笑みかけ、消えていく自分の掌を見つめた。
『僕の、我侭だったんだ。僕は、現実の世界にいなくて、そこに生きる父さんと母さんは僕を忘れちゃうんじゃないかって。だから。』

「下らない。」

『えっ?』

「お前が、父と母を覚えていながら死ぬのならば、お前の父と母は絶対にお前を忘れない。」

『そう、かな?』

「ああ。忘れるな。両親が父と母なのではない。父と母が両親なのだ。両親という括りで覚えるのではなく、父と母、別々に覚えておくのだ。」

『そうだね。そう、だよね。』
カズキの体の殆どは消えてしまい、もはや顔すらも消えようとしているカズキに雅也は微笑みかける。
「そうすれば、お前は、父と母の思い出の中で、輝き続け、生き続けるだろう。」
返事は無い。もうそこには、父と母に忘れないでと叫んでいた少年はいない。

鮮やかな世界に、色あせることなく、小さな写真立ての中で、親子三人で微笑む、そんな少年しか、この世界にはいない。
「思い出の中で生きる。クスクス。使い古されすぎて、面白くも何とも無い言葉を使うのね。雅也ぁ。」
水銀燈はからかうように、雅也の肩に座るとそう言って馬鹿にしたような笑みを浮かべた。
「水銀燈。貴方!」
真紅がその言葉に怒りをあらわにするも、その挑発を受けた雅也は気にした様子もなく、言葉をこぼす。
「使い古されるということは、その言葉が、何人もの人の心に響き続けた、最高の言葉という事だ。」

「雅也にかかればなんでも屁理屈で返されるから面白くないわ。そうおもわなぁい? 真紅ぅ。」

「屁理屈ではない。」
そのやりとりで、真紅は雅也と水銀燈のことを少しだけ理解する事が出来た。

じゃれているのだ。

あの水銀燈が、本気ではなく、冗談で先ほどの言葉を言って、雅也とじゃれついているのだ。
「もう、帰ろうぜ真紅。僕は疲れた。」

「え、ええ。そうね。」
ジュンは真紅を抱え、現実へと通じる穴に向けて飛び上がる。

帰るんだ、とジュンの心が言葉を漏らす。

逃げるにしても、進むにしても、全ては現実の世界で、動き続ける世界の中でやることにしよう。

自問の声はもう聞こえない。

今はただ、一歩でも進めたんじゃないかという漠然としたこの思いを、誰にも内緒で誇っていようとジュンはそう思った。

そう、思えた。

結論から言えば、眠り続けていた老婆は目覚め、心を病んでいた老人もそれにより心を取り戻した。

そして、今は桜田家の玄関にて、下記のやりとりが行われていた。
「嫌ですぅ!」

「翠星石。昨日あれだけ話したじゃないか。」

「納得できないですぅ。嫌ですぅ。蒼星石は翠星石と一緒にいるですぅ。ずっと、一緒ですぅ。」
蒼星石は泣きながら抱きついてくる翠星石をあやしながら、後ろに立つ雅也を見上げた。

雅也はいつもの如く無表情で、その腕に抱かれている水銀燈は目をあわせようともしない。
「翠星石は、蒼星石とずっと一緒にいたいと思ってました。蒼星石は違うですか?」

「ごめん。翠星石。僕は、そう思っていない。」

「そ、蒼星石!?」

「僕は僕で、君は君だ。同じじゃ、ないんだ。だから……。」

「嫌です。嫌ですぅ。」

「寂しい時は呼んで、絶対に会いに行くから。だから、翠星石。」

「じゃあ、ずっと寂しいって言い続けるです。呼び続けるです。」

「翠星石。どうしてわかってくれないの? 僕達も、進まなくちゃいけないんだ。」
蒼星石は目を閉じて、カズキに向かって雅也が発した言葉を思い出し、言い聞かせるようにして言葉を放つ。
「君も僕も、もう、一人で進んでいかなくちゃいけないんだ。」

「そう、せいせき。」

「お願いだ翠星石。わかってほしい。」
そう言って、蒼星石は被っている帽子を取ると翠星石に頭を下げた。

それに翠星石は慌てたように、周りを見渡し、そこに逃げ場が無い事を理解すると、俯いて、涙を我慢しながら口を開く。
「わからないけど、わかったですぅ。でも、遊びに来るですよ蒼星石。こなかったら押しかけてやるです。」

「うん。わかったよ。じゃあ、僕は行くね。」
そう言うと蒼星石は翠星石に背中を向けて、しゃがみこんだ雅也の腕に抱え込まれた。
「よろしくお願いします雅也さん。水銀燈。」

「歓迎しよう。」

「ふんっ。」
ジュン達は去っていく雅也達を少しの間眺めた後、自分達も同じように背を向けて家の中にはいった。

ジュンの腕の中には真紅と翠星石がいて、隣ののりの腕の中には雛苺がいる。

腕の中で泣き続ける翠星石を慰めながら、ジュンは真紅に話しかけた。
「あいつ、いい奴だったな。」

「そうね。」
その同意の返事に気をよくしたジュンは、泣き続ける翠星石に語りかける。

真紅はその様子を眺めながら、小さく、本当に小さな声で呟いた。
「そうだと、いいわね。」

それは、蒼星石の最初のアリスゲームが終わる時のお話。

蒼星石のマスターである金髪の女性は、飛来した戦争という暴力から逃れるために蒼星石達の前から去ってしばらくしてからの事である。

翠星石は既にトランクの中に入り、鏡からNのフィールドへと逃げ、蒼星石もそれに続こうとトランクに入ろうとした時に、その青年は店に入ってきた。

片腕は無く、血は彼の足跡を示すように流れ続けている。

彼はもはや目が見えないのか、探るようにして店の中を歩いてきて、いつも蒼星石がマスターと喋るときに座っていた場所でなにかを探していた。

そして、数秒その場所に手を這わせ、そこになにもないことを確認すると安心したように笑みを浮かべた。
「レイナは、動く人形がいるといっていたが、本当だったのだな。」

「——!!」
蒼星石はその言葉に声を失った。

なぜなら、その言葉が意味するのは、その青年は死にかけの身で、自分達を助けに来てくれたという事なのだから。

蒼星石の脳裏に自分の心無い書置きに泣きそうな顔をした青年の顔がよぎる。

だから、
「あの……。」
気がつけば声をかけていた。蒼星石のマスターの店は燃えていて、早く外に出なければ命は無い。

そしてそれは蒼星石も例外ではないのに、声をかけていた。
「……ほぅ。これが、人形の声か。」
そう言うと青年はその場に、力尽きたように座り込んだ。
「すいま、せんでした。僕、あんな書置きをして。」

「そう、か。アレはお前が書いたものだったのか。マスターの幸福を願うお前にして見れば許せなかったのだろうな。」

「ごめんなさい。」
火は燃え続けている。煙は黒々と室内を満たしていく。
「気にするな。誰かに、自分の弱さを見せたいとも思っていた。」

「……。」

「それより、早く逃げろ。お前がここで、朽ち果ててしまっては、お前を、いや、お前達を救おうとここに入ろうとしていたレイナに申し訳ない。」

「貴方は……。」

「俺は、もうもたない。レイナとの別れも済ませたし、未練は無い。故に、お前は俺の事を気にせず、早く逃げろ。」

「でも、貴方は僕達の為に!」

「俺にとって、死は終わりではない。だから、お前が長い時を生きるのであればまた会えるだろう。」

「最後に、貴方の名前を教えてください。」

「俺の名前? レイナから聞いていなかったのか?」
そこまで言うと、青年はまるで最後の言葉を放つ準備をするように息を吐いた。
「俺の今の名はアルカード。アルカード・ブラッドレイだ。次の人生を生きる俺にこの名で呼びかけろ。応えれば、それが俺だ。」

「アルカード。」

「どうやら、別れは俺の方かららしい。動く人形よ。ちゃんと逃げるんだぞ。わかったな。」

「はい。」

「ふむ。これで、安心だ。では、またな。」
最後まで、青年は蒼星石を心配して、死んでいった。

これは、それだけのお話。蒼星石の経験した別れの一つに過ぎないお話。

けれど、蒼星石にとっては『そんな』ではないお話。

いつか出会う、蒼星石にとって大切な人とのお話。
蒼星石は悲しみの感情とそれに混ざるようにして強く存在する辟易とした気持ちで自分のマスターを抱きしめる少し小太りの男を見ていた。

やがて、その男はマスターの悲しみを押し隠した仮面のような笑顔に口付けを交わすのだろう。

やがて、マスターは愛してもいない男にその唇を許すのだろう。

憎い、という思いよりも、悲しい、という思いだけが蒼星石の心を締め上げる。

満面の笑みで祝福しているマスターの病弱な両親に言ってやりたい。

貴方達の医療費を払うためにマスターは好きでもない金持ちの男と結婚しなくてはならないのだと。

小太りの男に言ってやりたい。

金でマスターを買おうとするものが、マスターの心を求めるなと。

教会の椅子の最前列、マスターの両親の隣に置かれた蒼星石は瞳をそらすことなく、その悪夢を見つめ続ける。

その隣に座った蒼星石の姉である翠星石は、泣きそうな顔でその光景を見ている。

何も出来ない。何もしてはいけない。ただの人形のように、見つめる事しか出来ない。
「やめなさいよ!! あんた、そんな奴の事なんて愛していないんでしょ!! あいつの事が好きなんでしょ!!」
突然、マスターの友人である女性が耐えられないとばかりに立ち上がり、叫んだ。

場は一瞬であるが騒然となり、だかしかしすぐにその騒乱は鎮められる。
「何を言っているの? 私は、この人を……愛しているわ。」
その声は震えていて、そして鐘が鳴った。



「というわけで、僕はカズキ君のお友達なんですよ。」

「そうだったのかい。悪いね。ちょっと待っててくれるかい。」
その様子を水銀燈はまるで恐ろしいものを見るように眺めていた。

視線の先にあるのは、その年代に相応しい無邪気な笑顔とそれとは不釣合いな混濁した色を見せる瞳。

水銀燈と雅也は昨晩不法侵入した蒼星石を引き寄せた老人の下に休日の昼間から堂々と乗り込んでいた。

と、いうのもどうやって老婆を眠りから覚まさせるかを家に帰った後に水銀燈がぶつぶつ文句を言いながらも考え出した方法のためだ。

そして、その方法には蒼星石が必要であり、その蒼星石を老人の所から合法的に引っ張り出すにはどうしたらいいかと考えた際に
「俺に任せておけ。」
という雅也の言葉に頷き、ここまできたのだがまさかこのような手に出るとは水銀燈は思っていなかった。

つまりは普段の雅也を知る者からすれば目を疑うような光景。

媚びる様な笑顔と、本来持つはずの少年としての口調。
「どうだ。上手くいっただろう。」
だが、その老人を完全に騙しきった少年の笑顔もすぐに、いつもの不敵な笑みへと戻る。

水銀燈はその雅也の言葉に律儀に答えるのも癪なので、ぷいっと顔をそらす。

だが、顔をそらした先には雅也の胸板がある。

そこで水銀燈は、自分が今、雅也に抱っこされている状態である事を思い出し、頬を赤く染めた。

誰かにこのように抱えられるなど水銀燈の長い時の中で、生まれて初めてのことである。

温かくて、安心できて、気を抜けば寝てしまいそうになるくらいで、水銀燈はそっと雅也の胸板にもたれかかる。

その鼓動は緩やかに刻まれ、そのリズムは水銀燈の心を包み込んでいく。
「ねぇ、すぐ……」

「お待たせしました。雅也さん。」
その聞きなれた声に水銀燈は瞬時に我に返ると、自分の仲に渦巻いていた甘い何かを取り払った。
「それじゃあ、カズキ。私は仕事をしているから、カズキは友達と遊んでおいで。————車にはくれぐれも気をつけるんだよ。」

「はい。マス……おじいさん。」
蒼星石は老人にそう言って微笑みかけると、その微笑とはまた別の意味を持つ微笑を浮かべて雅也を見上げた。

その視線に水銀燈はなぜかドロリとした熱い何かが自分の仲で湧き上がるような錯覚を覚えた。
「では、行くか。」
雅也は蒼星石の手を掴み、促すように老人の営む時計店から外に出る。

休日の昼間といえども、人通りはそれほど多くはないが、人形が歩いていては大騒ぎなるのは避けられない。

雅也は身を屈めると空いている腕で蒼星石を救い上げるようにして抱え上げた。
「なにあれ?」
近くを通りかかった女性が両手に見事な人形を抱え込んだ雅也を見て、そう感想を漏らす。

だが、雅也はそんなことを気にするような奴ではないし、水銀燈にしてみても同じ事である。
「あ、あの雅也さん。僕、トランクに入ったほうが……」
故に必然的にそういう視線を気にするのは三人の中での唯一の常識人である蒼星石だけである。

その心配そうな蒼星石の視線に雅也は笑みを浮かべると
「別に気にする事は無い。」
当然のようにその意見を切り伏せた。

もしここでそれに頷き、蒼星石をトランクに入れてしまえば、それなら私もと水銀燈もトランクに入ってしまうかもしれない。

ほんの少し触れられるだけでも怒る水銀燈を抱き抱えるチャンスなどはそう多くは無い。

雅也は自分の下した判断に間違いが無い事を確認すると、目的地へと向けて歩き出したのだった。

「ジュン君—。お客さんよぉ~~!!」
その声が桜田ジュンの耳に届いたのは太陽が真上にさしかかろうとした時刻の事だった。

ジュンは姉であるノリの心なしか明るい響きに怪訝そうに首をかしげながら立ち上がった。

桜田ジュンに対してお客としてこの家に来る人物など限られている。

いや、一人しかいない。

ジュンのローゼンメイデンである真紅の下僕となった雛苺の元マスター柏葉巴である。
「ったく、わざわざ僕を呼ぶなよなぁ。」
そうぼやきながら一階へと続く階段を下りて、玄関口で構成された亜空間へとその身を投げ入れた。

玄関には姉のノリと真紅、そして最近押しかけてきた翠星石というローゼンメイデン。

雛苺は怯えるようにして真紅の背中に隠れている。

それに対峙するようにしているのは、少し前に意味不明な言葉を投げかけてきた少年とジュンの知らない二体の人形。
「貴方がこんなにも正直にやってくるとは思わなかったわ。」

「思わなかったぁ? 考えられなかっただけでしょぉ。真紅は相変わらずのお馬鹿さんねぇ。」

「蒼星石!! どうして水銀燈なんかと一緒にいやがるんですか!?」

「————翠星石。」

「あがらしてもらっても構わないか?」

「え、ええ。別にいいけどぉ、あっそれならお茶を入れるわね。」
帰りたい、ジュンは心の底からそう思った。自室に引き返して、布団にもぐりこみ眠ってしまいたいと。

だがそれを許さない視線が合った。それは雅也のものだ。

ニヤリと雅也はジュンに向けて不適に笑い、ジュンは外見からは想像できないその邪悪さにぞくりと恐怖を感じるのであった。

そして、いつまでも玄関で言い合いをするわけにもいかず、それぞれが桜田家のリビングに腰を下ろす。

真紅は警戒するように水銀燈を睨みつけ、水銀燈はその視線を鼻で笑って受け流す。

翠星石は歯がゆそうに蒼星石を見つめ、蒼星石はそんな翠星石の視線に怯えるように顔を背けた。

雛苺はノリのお手伝いと称して逃げている。
「さて、いつまでも見詰め合っているわけにもいくまい。」

「そうね。用件は早く済ましてしまうに越した事は無いわ。」
雅也が水銀燈にそう言葉を放ち、水銀燈もそれに普通に従った。

そして、その様子を真紅は顔には出さなかったが、驚きの感情と共に受け止めた。

だがそれは仕方の無い事だろう。水銀燈が、誰かの言葉に素直に頷くなど真紅には考えられなかった。

いや、よーく見れば水銀燈と雅也は手をつないで座っている。

水銀燈はどうにかしてその手を解こうとしているのだが、雅也は巧みにそれをさばき、手をつなぎ続けている。
「翠星石。今回は貴方に用があるのよぉ。」

「な、なんですか! ローザミスティカを渡せとか言うふざけた内容だったらおとといきやがれですぅ!!」

「翠星石。まずは話を聞いてみようよ。」

「うぅ、どうして蒼星石はそんな人間の隣に座るですか? 私の隣が空いているですから、こっちに座るです!」
翠星石のその言葉に、蒼星石は拒絶するように雅也へと擦り寄った。

きゅっ、と雅也の服を掴み、視線で水銀燈に先を促す。

水銀燈はその光景に再び暗いなにかを感じるものの、無意識のうちに自分も雅也に身を寄せてから口を開いた。
「翠星石。」

「な、なんですか水銀燈。」

「今日、貴方に用件があるのは私なの。こっちを向きなさい。」
その言葉には温かさというものは無く、ただそう命じるのが当然のような響きが含まれていた。

だがそれも当然といえば当然のことなのかもしれない。

ローゼンメイデンが作った七体の人形の中で、一番最初に作られたのは水銀燈である。

いってしまえば、水銀燈がローゼンメイデンの姉妹において長女という位置に存在するのだ。
「貴方の力をねぇ、貸して欲しいのよ。」

「こ、断るです! な、なんで私がお前みたいな薄気味悪い奴に力を貸さなきゃ駄目なんですか?」

「そんなに怒らないでよぉ。妹と違って子供みたいなんだから。」

「うるさいですぅ!!」

「これは貴方のためでもあるのよ。貴方の妹の蒼星石の為でもね。」

「それはどういうことなの? 説明しなさい水銀燈。」
水銀燈と翠星石の言葉のやり取りに煩わしさを感じたのか、真紅が二人のやり取りに介入する。

それに対して、相変わらずのでしゃばりね、と水銀燈は感想を漏らしながらも事の本題を口にした。
「眠っている老婆。それを助けるためには貴方の力が必要なのよ。この意味、わかるでしょぉ?」

「な、なにもなかったです! おばばの夢の中は真っ白で、あれでは死んでるのとおんなじですぅ!!」

「翠星石!! お婆さんは死んでなんかいない!!」

「あぅっ。蒼星石。わ、私は死んでるのと同じっていっただけです。死んでるなんていってないですぅ。」
蒼星石の怒りの言葉に、翠星石は瞳に涙を浮かべながらも座っていたソファーから立ち上がって怒鳴り返す。
「落ち着きなさい翠星石。で、貴方が誰かを助けようなんて、どういう風の吹き回し?」

「あらぁ、妹が困っているみたいだから手伝ってあげようというただの姉心よぉ。人の親切心を疑うなんて、最低ねぇ真紅。」

「黙りなさい。私が、貴方の言葉を信じるなんて思って?」

「お馬鹿ねぇ、真紅。貴方に信じてもらわなくたっていいのよ。私はただ、翠星石の力を借りたいだけ。それに貴方の許可は要らないわ。」

「そう。そうね。で、翠星石。貴方はどうするの?」
水銀燈の冷たい視線と、真紅の威圧的な視線が同時に翠星石へと向けられる。

翠星石はそれにたじろぐようにして後ずさり、逃げようとしたが蒼星石の視線でその動きを止められた。
「わ、私は……。」
助けを求めるように翠星石は視線を巡らせるが、誰も助けをよこせるものなどいなかった。

雛苺は怯えた姿でジュンにすがり付いているし、そのジュンも場の雰囲気に言葉を挟めないのか沈黙を保っている。

ジュンの姉のノリは、それぞれにお茶を配ってすぐに部活のために家を出ている。
「貴方も、蒼星石を今のままにしておきたくは無いでしょぉ。なら、答えはわかるわよねぇ。」

「っ!!」

「……翠星石。僕は……」
水銀燈の明らかな挑発と蒼星石のすがるような瞳を向けられ、翠星石は苦し紛れにその禁忌を口にした。
「う、うるさいですぅ!! わかったです。おばばを助けるのに協力するです。でも、それは蒼星石の為です。水銀燈!! お前みたいなジャンクに力を貸すわけではないです!!」

「ジャンク、ですって?」

「そうです! 知ってるですよ! お前には胴体部のパーツがないです。お父様が作ったローゼンメイデンのドールの中で、お前だけが最後まで完成させてもらえなかったです!!」

「黙りなさい翠星石。」

「言い過ぎだよ翠星石。」
翠星石の言葉に、真紅と蒼星石が嗜めるように待ったをかけるが、翠星石はその性格ゆえに一度口にした事を引っ込める事など出来なかった。

故に、水銀燈の様子にも気づかずにその禁忌を言い続ける。
「蒼星石の姉はこの翠星石ですぅ。出来損ないのお前なんか、姉でも、姉妹でもないですぅ! 調子にのるなですぅ!!」

「————言ったわね翠星石。私は、ジャンクなんかじゃ、ないわ。」
そこでようやく、翠星石は水銀燈を完全に怒らせた事に気がついた。

今までの挑発するような感じは完全に消え、ただ鋭利な殺気を放つ存在がゆっくりとその漆黒の翼を広げる。
「お、おいっ! こんな所で暴れる気かよ!!」
場の雰囲気を納めようとジュンが慌てて口を開くが、水銀燈の殺意の篭もった視線で黙り込む。

そして、水銀燈は翠星石の殺意を向けながらも、ちらりと雅也に視線を向け、そこにあるいつもと変わらぬ表情に恐怖した。

水銀燈は怖かった。翠星石が己の体のことを言い出した瞬間、得体も知れない恐怖とジャンク呼ばわりされたという怒りで一瞬、頭の中が真っ白になってしまった。

雅也にばれた。自分がジャンクだという理由が、一番知られたくない人にばれてしまった。

悲しさと、怒りとが体の中を駆け巡り、水銀燈は翠星石を殺す事を決意する。

だが、
「少し落ち着け。」
という言葉と共に、次の瞬間には水銀燈は雅也に抱きしめられていた。

その手が確かめるようにして存在しない胴体部をなでる。水銀燈は泣きたくなるような、悲しい感情に顔を伏せ、歯を食いしばった。
「なるほどな。だが、そう怒る事でもあるまい。」
その言葉に水銀燈は弾かれるようにして顔を上げる。
「怒る事でもない? 何を言ってるのよ雅也。貴方も、他の馬鹿な人間みたいに私にこういうの。欠けていたとしても、私は私だから関係ないって?」
それは水銀燈のはじめてのミーディアムの言葉だった。

白々しい、自分よりも醜い、弱いもの投げかける嘲笑の言葉だった。
「そう怒るな。いや、そもそも俺はなぜお前が怒っているのかわからない。」

「わからない、ですって!!」
水銀燈は噛み付くように声を上げると、雅也を悲しみの篭もった憎しみの目でにらみつけた。

雅也はそれを視線をそらすことなく受け止めると、まるでなんでもないことのように告げた。
「欠けているからこそ、完全でないからこそ、お前は完全(アリス)を目指すのだろう?」

「あっ。」
水銀燈は自分の体から力が抜けていくのを感じた。

張り詰めていたものが、そんな一言で緩められていく。

思えば当然のことではないか。自分は欠けている。そうだ。確かに自分は完全ではない。だが、それがなんだというのだ?

自分には初めから用意されている。完全へと至る道が、アリスゲームという自分を完全へと導く道が。

誰も言葉を発しなかった。いや、発する事が出来なかった。

ローゼンメイデンの他の姉妹は気づいたのだ。そして、水銀燈も気づいていた。

他の姉妹に与えられず、水銀燈にだけ与えられたモノ。

具体的な理由をもって存在する戦う理由。それこそが唯一、水銀燈にだけ与えられているモノ。
「だからこそ、お前は戦うのだろう。」

「え、あっ、うぅ。わ、私は……。」
嬉しいと心が吼えていた。涙がこぼれそうになるくらい、水銀燈は嬉しくて、その思いを言葉にする事が出来なかった。

ぽろぽろと水銀燈の瞳から涙がこぼれ、それを隠すように水銀燈は雅也に抱きついて、顔を隠した。

初めから、そう出会った時から、雅也は水銀燈を水銀燈のままに見てきた。

壊れているや、人形だとか、そういうものを超越して水銀燈という存在を見ていた。

だからこそ言えるのだ。欠けたままでいいとは言わない。欠けているからこそお前などとは言わない。

欠けているのならば埋めればいいと、水銀燈が一番欲しかった言葉をだからこそ雅也は口にする事が出来たのだ。
「……水銀燈は、どうやら今は喋れる様子ではないらしい。しかし、用件を伝え、それに対する快い返答も貰った。だから、今日は帰らしてもらう。」

「あ、ああ。勝手にしろよ。」
ジュンの言葉に雅也は頷くと立ち上がり、そして蒼星石の頭を優しく撫でた。
「ま、雅也さん?」

「これで、お前の悩みも消えうせるだろう。悪いが、帰りは一人で帰れるか?」

「は、はい。Nのフィールドを使えば大丈夫です。」

「翠星石。」

「な、なんですか。」

「約束をたがえることなく、蒼星石を助けてやれ。」

「お、お前なんかに言われなくても分かってるですぅ! とっとと、水銀燈を連れて帰りやがれです!!」

「————翠星石。貴様のその性格、いずれ貴様自身を滅ぼすぞ。」

「ぴぃっ!!」
翠星石は余りの恐怖に可笑しな奇声をあげて硬直した。

十七の人生を生きた雅也の時間の大半が、生々しい戦場での時である。

故に、そんな男が向けられる本当の殺意というものは、先ほどの水銀燈のそれとは比べ物にならないほどに死を予感させる。
「わかったな。」

「わ、わわわわわ、わかったですぅ。改めるですぅ。」

「そうか。では、またな。」
そう言うと、雅也は己が纏っていた殺気を消し、軽く翠星石の頭を撫でて出て行った。
「あれが、水銀燈のマスターなのね。」
最後に、真紅がぽつりと感情の篭もらぬ声でそう呟いた。

あとがき

お久しぶりです。作者の鬼光死です

色々と忙しくて更新できませんでした。

今回はどうでしたか?

ではでは、次の更新をお待ちくださいませ(^-^ゞ

「ここは、どこ?」水銀燈は見たことも無い風景を目の前にして戸惑うようにしてそう呟いた。燃え盛る炎、巻き上がる砂煙、聞こえてくる雷鳴にも似た爆発音。

どれもが水銀燈の記憶には無い完全なる現実感を持ってそこに存在している。

それらを眺め、水銀燈はなぜここにいるのかと、眠る為にトランクに入る前の出来事を思い出す。

もう何度目になるのか分からない就寝前の雅也との攻防に勝利し、自分は安心して眠りについたはずだ。
「メイメイ」
己の人工精霊の名を呼ぶが、いつもであるならばすぐに現れるはずの精霊は、現れることなく沈黙をもたらす。

水銀燈は瞬時にそこから考えられる可能性を推測し、一つの答えとたどり着く。

己の夢の空間であるのならば、精霊であるメイメイは容易く呼び出しに応える事が出来る。

それが出来ない、そして自分の記憶にも無い場所。そこから導き出される応えは一つ。
「雅也の夢に、引っ張られた?」
ミーディアムとドールの繋がりは、力の供給だけの繋がりではない。二人の繋がりは、それこそ概念空間ともいえる記憶の領海を介して繋がっている。

簡単に言えば心と心が繋がっているようなものだ。故に、水銀燈はミーディアムである雅也の夢にその繋がりを通して引きずり込まれたのだろう。

そこまで考え、その考えに水銀燈は納得すると、次に主役を探した。

即ち、この夢を見ている雅也の姿を。
「あれは……」
視界にその二人の姿を捉えた。一人は輝かしいはずの金髪を汚し、泣きじゃくっている女性。

そして、もう一人は片腕を失い、そこから大量の血を流しながらもその顔に感情を浮かべていない青年。

水銀燈は直感的にそれが雅也であることを理解した。

好奇心か、それとも別の何かか、水銀燈は二人に近づき、二人のやり取りに耳を済ませた。
「早く、逃げろ。俺はもう、もたない」

「いやよ! どうして、どうしてなのよ!? 私は、私は貴方を裏切ったのに、どうして!」
女性は錯乱しているのか、しきりに首を横に降り、無表情な青年の前で泣き叫んでいる。
「下らない」

「えっ?」

「守りたいと思うものがあり、守れる力が俺にあった。ならば、この結果は享受すべきものだ」

「そんな、そんなの!?」

「さて、ここでこんな不毛なやり取りをするのにも飽きた。次の人生に生きるとしよう。」
そういうと青年は目を瞑る。力尽きたわけでもない、絶望しているわけでもない。安らかであり、故に満ちたりた顔で青年はその生涯を終える。

そして、その青年の物語は一度幕を閉じ、そして次に幕があけるまで青年にとっては一瞬であり、そして他者にとっては長い眠りが始まる。

水銀燈はそれらを見終え、そして湧き上がる不快感に身を振るわせた。

これは夢、現実ではなく、目覚めれば消える幻に過ぎない。その筈なのに、その青年が死んだという事が心を抉る。

湧き上がる不快感は出口を求め荒れ狂い、そして、零れ出る。
「いやよ!!」

「なにがだ?」

「えっ?」
気がつけば半ばトランクを無理やり開いたように水銀燈は立ち上がっていた。

息が荒く、無意識のうちに怯えるようにして雅也の方に視線を向け、彼が不思議そうに自分を見ている事に安堵した。



「ねぇマスター。」
それは、古い古い、蒼星石と呼ばれるローゼンメイデンがこの世に生まれ、そして初めて体験したアリスゲームの時のお話。

ローゼンメイデンの姉妹人形達は自分達が戦わなくてはならないという宿命を知りつつ、それを初めて体験し、戸惑いを感じていた頃のお話。
「なぁに? 蒼星石?」
蒼星石の初めてのミーディアムは輝かしい金髪を笑顔が似合う少女から大人の女性へと変わろうとしている女の人だった。

彼女は蒼星石のことをありのまま理解し、その上で受け入れ、幾度かのアリスゲームの戦いを乗り越えてきた。

そんな彼女に蒼星石は戦うたびに膨れ上がるある一つの悩みを打ち明ける事にした。

いや、誰かに話さなければその重みに潰されてしまいそうだった。
「聞いてもらいたい事があるんですけど」

「あら、それは翠星石には聞かせたくない話?」

「いえ、聞いたんですけど……」

「貴方が納得できるような答えじゃなかったのね。じゃあ、話してみて。私の答えで貴方が納得できるかは分からないけど」
優しげな彼女の微笑みに、蒼星石も微笑を返すと、いくらか緊張を解いてその悩みを口にした。
「僕らの戦いは、一体なんなんでしょう?」

「アリスゲームのこと?」

「はい。アリスゲームがお父様の求める完璧な乙女であるアリスに僕らがたどり着くためのものだとは分かっています。でも、その為に実の姉妹と戦うなんて!!」
大好きな父を疑うわけではなかった。だが、大好きな父に問うてはみたいと戦うたびに思っていた。

どうして、戦わせるのですか? 今の私達では駄目なのですか? どうして、私達を仲良くさせたのですか?

生まれた時から決まっていた宿命。定められた果てへとたどり着く道。
「宿命なんだと。お父様の為なんだと。なんど、そう自分に言い聞かせても僕は!!」
すっと、蒼星石の被っていた帽子は彼女の手によって外され、その代わりのように暖かな手が蒼星石の頭部を撫でた。
「優しいのね蒼星石は。そして、ごめんなさい。私には、貴方に言ってあげられる言葉はないわ」

「……」

「だって、それは貴方達姉妹が出さなくてはならない答えだと思うの」

「僕達姉妹が?」
そんな時、カランッと彼女の親が経営する店の扉が開く音がして、蒼星石は慌てて普通の人形のように動くのをやめた。

彼女はそれを確認すると、一度頷いて、入ってきた客に視線を向けた。
「あら、いらっしゃい」

「頼まれ事だ。友人に、この手紙を貴方に渡してくれと頼まれた」
入ってきた男は、軍服に身を包んだ無表情の男性だった。その瞳は彼女を写しているはずなのに、誰も写していないかのように黒く濁っている。

彼女もそれに気がついたのか、少し寂しそうな顔に変わる。だが、男性はそれを気にすることなく、彼女の手に頼まれた手紙を渡した。

彼女はそれを受け取り、さっと目を通す。
「麗しの姫君ですって? 貴方の目にも私はそううつっている?」

「好きに解釈するといい。で、返事は?」

「ふふっいつも答えてくれないのね。まぁいいわ。答えはいつもと同じよ」

「そうか。ならば用は済んだ。邪魔をした」

「あっ、ちょっと待って! 貴方に聞いてみたい事があるの」

「なんだ?」
そこで彼女は蒼星石の方にちらりと視線を向けると、再び青年に視線を戻し、告げた。
「宿命で、貴方が自分の親しい人と戦わなくてはならなくなったら貴方ならどうする?」

「宿命でか?」

「宿命でよ」

「下らない」
その次にその青年が言った言葉は、この後、ずっと蒼星石の記憶に刻み込まれる事となる。

蒼星石が悩んでいる事を下らないと切り伏せたその青年は、
「戦う。ということは、自分に戦う理由があるから戦うのだ。宿命などというものは戦う理由にはならん。いや、理由を宿命と名づけるものも中にはいるがな」

「じゃあ、貴方は自分に戦う理由が無ければ戦わないという事?」

「挑んでくるのなら、戦う。己を守るために。挑んでこないのであれば放っておく。戦う理由が無いからな」
まるで、演劇の脚本のセリフを棒読みで読むように抑揚の無い口調でそう言うと、
「では、またくる」
と告げて去っていった。

青年は知らない。それが蒼星石の悩みを解き、彼女のスタンスまでをも確立させる言葉になったという事を。

これはそんな、蒼星石の古い古いお話。

「ゆ、め?」
蒼星石はその目を開き、自分の今の状況を確認した。古い畳の上で、まるで死人のように眠っている老婆の姿がまず目に入る。

それから視線を巡らしていき、本来ならその中で眠るはずの自分のトランク、仲睦まじい家族の写真。

そこまで見て、蒼星石は自分の体に巻かれた赤色のロープに視線を向けた。

今回、蒼星石のミーディアムとなった人間は精神を病んだ老人であった。

事故で息子を失い、妻もそれ以来眠り続け、そこから生じる孤独ゆえに精神を病んでしまったのだ。
「今日も、探さなくちゃ」
いつも一緒にいた姉の翠星石はそんな老人に見切りをつけて去ってしまった。

老人を助けるには、老婆の夢に入り、老婆の根本ともいえる木を探し、その木をなんとかしなくてはいけないのだが
「真っ白で、いくら探しても見つからない」
こんなことならば、姉の翠星石に自分の考えを話し、協力してもらえばよかったという考えがよぎるが
「ううん。これは、僕が勝手に思ったことだから」
そう言って、誰かに助けを求めるという考えを蒼星石は切り捨て、再び眠り続ける老婆に視線を向ける。

だが、その視線はすぐに室内の化粧台へとそそがれることとなる。
「あら、起きていたのね蒼星石。」

「っ、水銀燈!!」

「そう、警戒しないでよぉ。今日は貴方と戦いに来たわけじゃないわ。」
姉妹達の中でも一番好戦的な筈の水銀燈の言葉が信じられるはずも無く、蒼星石はその警戒を緩めない。

水銀燈はそんな蒼星石をつまらなそうに眺め、馬鹿にしたように微笑んで見せた。
「アリスゲームが目的じゃないとしたら、君は何をしに来たんだい?」

「それは、俺が話そう。」
どくんっ、と蒼星石のローザミスティカが揺れ動いたような錯覚が生じた。

鏡から一人の少年が現れ、水銀燈の隣に並ぶようにして立ち、その視線を蒼星石に向けた。

夢にでてきた青年ではない。体つきも、容姿も、いや、そもそもあの青年と再び会うなんてありえない。

なのに、その口調が、感情を宿さないその顔が、そしてなによりその瞳が、蒼星石の心を強く揺さぶる。
「あ、貴方は?」

蒼星石は、僅かにつまらなそうな感情を見せた少年を前にして上手く考える事が出来ないのを感じていた。

水銀燈はそんな蒼星石に怪訝な視線を向けるものの、隣に立つ雅也に今日訪れた意味を言うように促した。

雅也はそんな水銀燈に頷いて見せると、蒼星石と視線を合わせるようにしゃがみ込んだ。
「はじめまして、だな蒼星石。俺は水銀燈のミーディアムである中澤雅也だ。」

「あっ、はい。はじめまして、蒼星石です。」

「うむ。で、今回俺とまいすいーとの水銀燈がきた理由だが、君に一つ提案があってやってきた」

「提案。ですか?」

「ああ。俺達と組まないか?」

「組む? 仲間になれってことですか?」
そう言って、蒼星石は困惑した瞳を水銀燈に向ける。

蒼星石にしてみれば、水銀燈が誰かと組むなどという事は考えられない事だからだ。
「お馬鹿な真紅が、アリスゲームである雛苺のローザミスティカを奪わないでなぜか下僕にしちゃったのよ。それに加えて、貴方のお姉さんの翠星石までも真紅の所に行っちゃって。まぁ、弱い者がいくら集まろうが構わないんだけど、雅也が」

「弱者は単体ゆえに弱者なのだ。群れればそれは弱者ではない。と、俺は思っている。故に、こちらも君を引き込みたいのだ」
そこまで聞いて、蒼星石は首を横に降り、二人に拒絶の意思を告げた。
「ほら、雅也。だから無駄な事はしたくないっていったじゃない」

「理由を、聞かせてくれるか?」

「……第一に、僕は水銀燈と貴方を信頼できません。第二に、僕はマスターをほっとけませんから」

「第一の理由は理解した。だが、第二の理由は……」
あっと、短く蒼星石は声を上げた。呆れたように少し肩をすくめて見せるその仕草は、夢の中の彼と同じ仕草であった。

感情を感じさせなかった彼が唯一見せた感情の動きゆえに、蒼星石は鮮明にその仕草を覚えている。
「下らない。が、今回はそれを使用させてもらおう」

「え、ぁ」

「君のマスターを救う事に協力しよう。それを見て、俺と水銀燈が信頼できるかを判断してもらいたい。」

「ちょっと、雅也!?」

「返答は?」

「あ、はい。わかりました。」
気がつけば蒼星石は頷いていた。それに対し、雅也は満足したように笑みを見せると水銀燈に視線を向けた。
「道は作った。進むのはお前だ。指示を」

「あなたねぇ、そこまで言うんだったらなにか手を考え付いているのかと思ったじゃない!!」

「??」
何を言ってるんだねチミィ、という表情を浮かべる雅也に対し、水銀燈は吼えた。
「このっ、馬鹿! 考えなし! どうして、私のミーディアムがこんなのなのよぉ!!」
日頃よほど鬱憤が溜まっているのか、水銀燈は普段の彼女を知る人にしてみれば信じられないほど激しく、しかし明るい怒りを吐き出した。

対する雅也はそんな水銀燈を楽しいものを見るように見つめている。
「あの、水銀燈?」

「なによっ!!」

「そんなに、大声を出したらお爺さんが……」
その言葉に水銀燈は怒鳴るのをやめて、耳を澄ます。
「かぁぁぁずぅぅぅきぃぃぃ」
老人が呪詛にも似た声で、無くなった息子の名を呼びながら近づいてくるのがわかる。

水銀燈はまだ言い足りなさそうにしながらも、キッと雅也を睨みつけてから、化粧台の鏡にその身を沈めた。
「では、またくる」
その言葉は、夢の中の青年が去り際にいった言葉と同じで
「はい。楽しみにしています」
と、自分のマスターだった女性と同じように微笑んで、蒼星石はそう告げた。

嬉しい、と心のどこかで呟いていた。