妻が最後に 願った 七日間
ご主人の投稿
新聞コラムです。
貴方と2人で 最後の日を 大塚博堂を聴きたいとあった。
この願いだけは かなえられたとあった。
世代は同じだったと思うのに 知らなかった。
CDを聴いた。
やさしい歌声
37歳の早すぎの死ながら
人々のこころに深く刻まれている
大塚新堂
もう一枚 購入しよう
今でいう 谷村新司 小田 でもない なんともいえない
優しい 歌声
作詞は 藤 公之介さんが 多い
そんな思いと共に 朝 珈琲を飲みながら
ご冥福を祈りながら 聴かせて頂きましたよ。
そして1967年の このCDは貴方がおそらく ご主人にプロポーズされた?
原点を忘れないのは 素敵ですよね。
最後の曲は 何にしようかしら?
手書きの歌詞カード
録音スタジオの照明がすべて消された。暗闇の中、明かりはミキサー室の機材のランプだけだった。気持ちを高めるためだった。
「そのランプがまるで夜の遠くに見える街並のようで、涙が込み上げてきた」
大塚博堂はそう思いながら歌い始めた。
〈胸のボタン ひとつはずして あなた好みに変わってゆく…めぐり逢い紡いで…〉
博堂が作曲したヒット曲「めぐり逢い紡いで」(1978年)である。同年の紅白歌合戦では布施明が歌った。博堂、布施は同じ渡辺プロダクションで、博堂だけでなく布施も歌った。二人は浅からぬ縁があった。博堂は新人時代、先輩格の布施の前座で歌ったことがあった。
「ぼくの前に大塚博堂を歌わせないで」
このように布施が言ったエピソードを周辺の人は語る。布施は博堂の歌唱力を評価していた。博堂の死去後、布施はテレビ番組の中で次のように追悼している。
「大塚博堂という人はすごく才能、タレントがあってそれを短い間に使い、使い切った」
× ×
「めぐり逢い紡いで」の作詞は「るい」である。女性のような名前だが、「るい」は博堂の3人目のマネジャー、小坂洋二のペンネームだ。藤公之介から「るい」へ。作詞家の交代について、博堂と近い人は「さらに新しい世界を求めたのではないか」と言う。「るい」はテレビ番組の中で次のように語っている。
「彼(博堂)の声をたぎらせて、音域をめいっぱい使ってぶつけるものを聴いてみたいと思った。『めぐり逢い紡いで』は女性側から歌われる詞ですが…情念っぽい世界を、彼の声で聴いてみたかった」
「めぐり逢い紡いで」は2つのバージョンがある。サードアルバム「もう少しの居眠りを」に収録された後にシングルカットされた。そのレコーディング風景が冒頭のシーンである。
シングル盤は少し明るい感じに編曲されている。このアレンジについて、博堂の甥(おい)で、シンガー・ソングライターの大塚郷は「曲がヒットしたので、もっと幅を広げようとしたのではないでしょうか」と話す。それだけではなく、布施の歌の方が知られるようになったので、作曲者としての自己主張もあったのではないかと思う。
「めぐり逢い紡いで」は博堂の死後、幾人かの歌手がカバーして歌い継がれている。 =敬称略
(田代俊一郎)
=2018/02/26付 西日本新聞夕刊=