仕事のあいまに拡げる本



  私は、煙草をすわない。だから、一日のうちに、さて一服というようなことはない。そんな時に、私のやることは、庭におりて、木や草花の害虫を駆除すること、木ばさみで枝を剪定することなどである。
 しかし、いちばんよくやるのは、そのときやっている仕事と無関係な方面の本を手にすることである。マルクスは、こんな時に数学の問題を解いたという話があるが、これは、彼のような天才にだけできることである。
 こんなとき私の手にする本は、多くは、画集である。時に詩集である。あるいは旅行記、旅行の案内書である。このごろは、美しい写真の入った小さな旅の案内書が沢山出ている。地方に出かけるとき買ったものがたまっている。そんなのを引き出して、項をめくって見るのである。京都や奈良や北海道のものは、手にすることすこぶる度々である。
 しかし、私にはよく散歩するくせがあるので、武蔵野について書かれた本を読む。さきごろ、上林暁さんの武蔵野散歩の文章を読みはじめたら、ついやめられず、仕事を放り出して読みふけってしまった。上林さんは、雑誌『改造』の記者をしておられたときからの知合である。私が昭和三年ごろ、九州大学をやめて上京した頃である。やはり、戦前のこと、私が、どこかで鈴木茂三郎さんの選挙演説を終えて演壇からおりてきたら、ききにきていられたらしい上林さんと会って、少々てれたことを思い出す。戦後はお会いしたことはない。それでも私は、上林さんの文章をどこかで見かけると読む。戦争中は氏の作品集をよく読んだ。
 仕事のあいまに拡げるのは、画集がいちばん多い。少年時代からの複製収集へきは、このごろまでつづいている。絵の複製は、大小さまざまなものがある。彫刻の写真もある。山の写真もまことにいい。
 こんなのをひろげて、見る。絵にしても山にしても、別に研究したことはないから、ただ、好きかきらいかが表準で見るのである。そうするとたいていなものは、いいことになる。
 画集趣味とでもいう私のやり方は、絵は好きだが、どうせ本物のいいのは、買えないからにすぎない。しかし、これでけっこうたのしめる。
 いつか、地方の学生が訪ねてきて、帰るとき、玄関にかけてある絵を見て、「これはほんものですか」ときいた。これは、セザンヌの風景だが、原寸大のドイツ製である。原物はいまは東ベルリンの美術館に所蔵されている。この間に思わず私はわらって「これの真物が買える男に見えるかどうか、僕の顔を見てからいい給え!」と言った。
 ほんもののセザンヌが買いたいのは、やまやまだが、いく億円かのお金がないだけの話である。
 画集だって、このごろは立派なものが出ているが、一冊五万円も十万円もしたのでは、なかなか買えない。高価な立派な画集が、ぞくぞく出るのは、悪くはないが、われわれ貧乏書生には、手が出ない。わたしの若い友人たちで、画集の好きなひとは沢山いるが、あんなに高価なものは買えまい。いちばんほしい人々は、買えない。
 社会主義諸国では、レコードや画集や、一般に、本は、たいへん安価である。もっとも、日本の複製の高価なものは、当然のことだが、どこに出しても立派である。