社会が大きく変ろうというような時には、いい本が沢山出るのではないだろうか。人々が本当のことを探求しないではいられないからである。だから、古典とは、何らかの意味で変革の書である。
 明治維新後に、当時の知識人たちは、知識欲にもえて西洋の一流の本に取りついている。アダム・スミス、スペンサー、ミル、モンテスキュー、ルソー等々枚挙にいとまない。福沢諭吉は、残っている蔵書について見ると、スペンサーとジョン・スチュアート・ミルを実によく読んでいるそうである。この両者は、その全著作を読破しているのではないかといいう。福沢諭吉は、明治の思想家のうち他を圧して傑出している。彼の著書は、今日なお新しい。われわれの心をうち、われわれを勇気ずけるものを含んでいる。
 それは、彼がいい加減な移り気な読者によってではなく、古典というべき著作に沈潜して、自分の心の糧を人類文化の深所から得てきているからである。
 私は方々の書店の出版目録などを見ていると、読みたい本が次々に出てきて、一日が二十四時間しかないのを残念に思う。
 私どもの青年時代には、今日のようにいい本が、日本語では読めなかった。翻訳があっても、田舎の書店まではなかなか来なかった。その上に、読書指導をしてくれる人がなくて、ずいぶんつまらん本を買って読んだような気がする。今日では、これらのことは大変ちがっている。求めさえすれば、日本語でいい本がいくらでも読める。田舎の店でも文庫本を並べていて、一般に思想史上の古典や社会主義の本が手に入る。むしろ、あまり多すぎて、若い人は選択にこまるのではないかと思う位である。
 その点では、例えば、河出書房の『世界大思想全集』は古在由重、清水幾太郎、中野良夫の三氏の選択によるものであって、一定の見解にしたがって責任編集されている。だから、読書指導も一緒になされているということである。さらに、哲学・文芸思想篇、社会思想篇、宗教思想篇、科学思想篇というように分類されている。
 これらを全部読むというわけにはいくまいし、またその必要もあるまい。全館六十七冊あるが、少し時間をかけると、全部読んで読めないことはない。全部読む志を立てる人もあってよかろう。自分の好みにしたがって、或いは社会思想篇、或いは哲学・文芸思想篇というふうに読んでもいい。
 勿論、専門上の研究には、ここにあげられている本だけでは足りない。それはまた別にやり方がある。ここで上げられているような古典は、広い高い教養を身につけるために読むものである。。だから誰でも、どんな専門の人でも読むがいいのである。中には繰返していく度も読まないではいられない本もあるにちがいない。それも、その人の好みによってよい。
 一日に一時間や三十分本を読む時間をつくることは、誰にでもできるはずである。一時間で何ができる、というように考える人があるが、それは大変な間違いである。一と月とたち、一年二年とたつうちに沢山の分量の読書をすることになる。ただ、これを続ける根気のある人が少ないだけである。これをやりとおした人は、一生のうちには、はかり知れない貴いものを身につけることになろう。
 流行の本を追いかけるより、流行の彼方にあって威力をもちつづける本を読むように心がくべきである。古典とはそういうものである。
 マルクシズムというような世界観は、このような古典の中に易わらず流れている思想を源泉としている。人類は新しい世界観をつくり上げる手がかりを、つねに古典の蓄積の中に求めるのである。マルクスが、どんなに古典を読んでいるかは、『資本論』をちょつと繰ってみただけでも分かる。