8 絶望との闘い

収容所生活が囚人にもたらした精神病理学的現象を心理療法や精神衛生の見地から、治療しようとするすべての試みにおいて、
収容所の中の人間に、ふたたび未来や未来の目的に目を向けさせることが内的に一層効果をもつことが指摘されている。
(p177)

と、解放後の治療に言及していますが、まだ第二段階とします。
それは、フランクル自身が、次の章で第三段階について言及すると言っているからです。

この章は、フランクルの、収容所生活の回想、心理学的な総括が続きます。

フランクル自身が、耐えられなくなったとき、自分自身に対してどのような「トリック」を使ったのでしょうか。

私は、講演会場の演壇に立っている。ホールには、たくさんの聴衆がいる。私、収容所の心理学について語るのである。

フランクルは学者ですから、講演会で話をする自分をイメージしたのです。

この「トリック」によって、自分を何らかの形で現在の環境、現在の苦悩の「上」に置くことができ、あたかもすでに過去のことのように見ることが可能となり、まだ苦悩する私自身を心理学的、科学的探究の対象であるかのように見ることができたのである。
(p178)

つぎに、スピノザの言葉を引用しています。

「苦悩という情緒は、我々がそれに関して明晰判明な表象を作るや否や消失してしまうのである。」(p179)

また、ニーチェの言葉も引用しています。

「何故生きるかを知っている者は、ほとんどあらゆる如何に生きるか、に耐えられるのだ。」

生きるための何故、すなわち生活目的を意識すれば、つらい収容所生活にも耐えられる。


生命の意味についての観点変更が必要である。
すなわち、
「人生から何を我々が期待できるかが問題ではなくて、
むしろ、人生が何を我々から期待しているかが問題なのである。」

人生の擬人化の表現は、少し難しいですね。特に人生が我々に期待しているという表現が。
思い出されるのは、ケネディ大統領が
「アメリカが個人に何をしてくれるかではなく、個人がアメリカに何ができるかだ。」
の話に似ています。

哲学的に言えば、「コペルニクス的転回」が必要だといいます。

「我々が人生の意味を問うのではなくて、
 われわれ自身が問われたものとして体験させる(生きる)。」

この言葉は、我々がなすべきことを示しています。

人生というのは結局、
「人生の意味の問題に正しく答えること、
 人生が各人に課する使命を果たすこと、
 日々の務めを行うことに対する責任を担うこと。」
に他ならないのである。
(p183)

「人生が各人に課する使命」とは何でしょうか。
それを見つけ出すのも、各人の責任でしょうか。
ただ、それもかなり難しいですね。
人生が、自分に課した使命とは何でしょうか。
それがわかった段階で、自分の人生の目的が明確になり、
生きる意味・意欲・生き甲斐が出てくるでしょう。
現時点で、私はそれを見つけているでしょうか。
社会人として、勤めている間は、その仕事に誠実に取り組むことが、
社会への貢献になることは分かっています。
そのための労力は惜しまない覚悟もあります。
しかし、人生はそれで終わりではありません。
リタイヤ後の自分のあるべき姿が見えません。
それが見えてくれば、今から少しずつでも
準備が始められるのに。
まだ、見えません。

誰も、人生には「一回性」と「唯一性」があります。
自分の人生は、たった一度で、自分が主人公です。

「死を含んだ生活の意義であり、生命の意味のみならず苦悩と死の意味を含む全体的な生命の意義である。」
(P185)
と、フランクルは言います。


収容所生活を振り返り、いくつかのエピソードを話します。

絶望に陥り、自殺を企てた二人に話をしました。
詳しく話を聞いてみて、二人に生きる目的を確認することができました。
一人は、子どもが外国で彼を「待っていた」ということで、
また、もう一人は、仕事が彼を「待っていた」ということです。
彼らを待っている、愛する人(子)、待っている仕事があることで、彼の人生に期待される使命が明らかとなり、責任を意識し、もはや自殺など考えられなくなったというのです。

このことは、彼らの存在の「何故」を知ったことになりました。


フランクルは、前述の自らの妄想による「トリック」の講演会ではなく、実際に仲間たちに話をする機会がありました。
それは、仲間を売り渡さず、守ったことによる連帯責任としての「一日の断食」を選択し、その上停電になってしまった夜のことでした。

「私は、わずかな慰めを語った。
 それはコントラスト効果を期待したもので、現在の戦争が最もすさまじいものではないであろうと述べた。
 次に、未来について語った。
 生き延びる可能性が如何に少ないかを予測できると語った。」

 なんと、生き延びる可能性は5%だと、囚人の仲間たちに語ってしまうのです。
 下手気ななぐさみよりはいいかもしれませんが、人々は絶望してしまうのではないかと心配します。

「私は、彼らに、それだからといって落胆し、希望を捨てる必要は決してないとも語った。
 いかなる人間も未来を知らないし、如何なる人間も次の瞬間に何が起こるか知らないのであると語った。
 未来とその予測しがたさ、及び現在の苦悩について語ったばかりでなく、また過去についても語り、現在の闇の中に射し込んでくるそのすべての光と喜びについて語った。
 ある詩人の言葉を引用した。
 “汝の体験せしことをこの世の如何なる力も奪い得ず。”
 これは、我々が為したこと、我々の悩んだものも永久に現在の中に組み入れられる。
 過ぎ去って「いる」ことも、なお一種の「いる」(存在)なのであり、もっとも確実な存在なのである。」

 この言葉には、囚人である仲間たちは、勇気づけられ、励みになったのではないでしょうか。自分たちが、生き延びられればもちろんのこと、命を奪われたとしても、存在したことは、もっとも確実な存在であると言われたのですから。

 「生命を意味で満たすよう多様な可能性について語った。
  人間の生命は、常に如何なる事情の下でも意味をもつこと、そしてこの存在の無限の意味は、また苦悩と死をも含むものであることについて語った。
 最後に、われわれの犠牲について語った。
それは、どちらにせよ(生存できればよいが、命を落としても)意味をもっていることを語った。 」

これは、フランクルの魂の叫びだろう。
この時の話の回想という形ではありますが、それまでの自分の思いを、その一瞬に伝えたと思うし、この話を第8章の最後の最後に書いたことからもわかるように、自分が最も伝えたかったことではなかったかと思います。

(第三段階に続く)