出羽庄内藩の山村に遺された御用留を読む(初心者の古文書)

出羽庄内藩の山村に遺された御用留を読む(初心者の古文書)

羽州庄内藩の小さな山村(山形県鶴岡市山五十川)に遺された御用留を古文書の初心者が読み解く趣味のブログです。 御用留とはお上から出された達し書きを村方で写し取って一冊の文書綴りにしたもの。幕末(元治元年=1864年)の動乱期、揺れ動く庄内藩の様子が垣間見えます。

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[蕨野村(鶴岡市山五十川)に伝わる御用留]

 元治元年(12月)35番目のお達し

       (1864年)

 

 蝦夷地の開拓農場に米の種籾を無償提供です

 

庄内藩がロシアなど外国の脅威に対抗すべく蝦夷地警備を命じられたが、併せて本土の領地よりも広い広大な領地を蝦夷に与えられました。

ということで外国船警備だけでなく与えられた地域が経済的に成り立つよう領地経営も行わなければならなくなり多くの開拓農民や職人が送り込まれました。

 

現代に至り品種改良が進みようやく内地とそん色のない米ができるようになりましたが、この当時寒冷地の荒地を切り開いたばかりの田んぼに南方を起源とする米が簡単に根付いたのであろうか?

 

そうした中で庄内の中でも比較的気温の低い山里の蕨野村と実俣村(現在の鶴岡市山五十川)から蝦夷地に向けて2斗の種籾と米山餅1斗5升が無償で提供されたようです。

 

 

< 古文書本分 >

 

イメージ 1

 

       覚

一.籾弐斗   米山餅  内 八升      実俣村

                   小以 壱斗五升

                 々 七升      蕨野村

右之通蝦夷地行差上申候

   子十二月四日

  肝煎治郎右衛門          吉兵衛

  々 重三郎

 

 

< 現代文にチャレンジ >

 

    覚え書き

 

1. 籾 2斗   米山餅   内  8 升    実俣村

                     小計 1斗5升

                   内  7 升    蕨野村

右のとおり蝦夷地向けとして差上げます。

   元治元年(子年)12月4日

 

 蕨野村肝煎り 治郎右衛門       吉兵衛

 実俣村肝煎り 重三郎

 

イメージ 2

 

 

< 素人なりに考察してみましょう >

 

●1; 庄内藩はロシアなど外国勢力の進出に対抗すべく蝦夷地警備を命じられ、続いて西蝦夷地に領地が与えられました。

警備要員として武士身分の者が200~300名程送り込まれたようですが、この数をはるかに上回る領民が蝦夷地に駆り出されたものと思われます。

仕事は土木作業などの力仕事に従事する郷夫であったり、大工、桶職人、屋根の葺師等々の職人、そして農作業にあたる開拓農民など多様な構成であったことが、別のお達しに示されています。

何れにしても、訳の分からぬ寒冷の蝦夷行きには皆尻込みしたようで、優遇措置として若干の「鼻先ニンジン」を示されたくらいでは応募する者が殆どおらず、藩庁からの命令を受けた村役人は住民との間に入って相当にご苦労されたものと思います。

 

●2; 当時の蝦夷地で農業、特に稲作を行うことは非常に困難であったと思われます。

ただ、別の資料によれば入植後数年で幾分かは分かりませんが収穫できたようです。

粘り強い庄内人の心意気によるものでしょう。

 

●3;このお達しには蝦夷地の稲作に充てる稲籾を蕨野村と実俣村(現在の鶴岡市山五十川)から差上げた、と記されています。

翌年の春に種まきされる分でしょう。

いろいろな種類の種籾を送り試行錯誤で寒冷地の稲作にチャレンジしたことが窺い知れます。

 

●4; この文書に記されている「米山餅」とは何でしょうか? 分かりません。

実俣村8升、蕨野村7升とあるところをみると升で量れるものでしょうから、米或いは籾といったものでしょうね。

”餅”となっているので ”もち米” のことかもしれないし、 1斗5升の米で搗いたお餅を提供したのかもしれません。 何だったんでしょうね。

 

 

イメージ 3



 

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[蕨野村(鶴岡市山五十川)に伝わる御用留]

 

元治元年(12月)36番目のお達し

      (1864年)

 

今年度御成箇(年貢)の最終納税時期到来です。

同時に雑税や村方の共同運営経費なども全て急いで納付せよ!

      ・・とのご指示です

 

12月は1年の締めくくり。

藩庁から決められた御成箇(税金;米・金)は12月10日に全て受け取るとの連絡があった由。

大庄屋吉兵衛はこの時期に併せて雑税や村方を運営するために必要な決められた経費等々も全て洩れなく納付するように、との指示を配下の村々へ発しました。

 

毎年のことながら大忙しです。

 

イメージ 1


 

<古文書本分>

 

 温海組大庄屋吉兵衛から各村々(肝煎)に指示した文書

 

イメージ 2

 

以廻状申達候然者當子御成箇皆済一紙當月

十日於田川湯村御受取被成候段別紙写之通御達

有之候間其節本郡上納米金ハ勿論小役納共

聯無遅滞上納可被遂候尤當九日夕迄定宿甚

内処江相詰可被申候

一.暮渡□□□代弐拾八両同断山濱大雑用拾両淀

  川組残郷夫弐人暮渡拾両先達而為御登郷夫

  壱人壱両弐分ツツ内借上納金高弐六両弐分〆七拾

  五両程皆済場において取立可相成候間各右之

  心得を金子用意可被相詰候右之他差定候入

  用金勿論ニ候

右日合も無之候間廻状弐通ニいたし申達候早々

順達留ゟ可被相返候以上

  十二月五日    吉兵衛

 肝煎 =----

 

< 現代文にチャレンジ >

 

 温海組大庄屋吉兵衛から各村々(肝煎)に指示した文書

 

廻状により連絡する。

就いては、今年度(元治元年)の御成箇(税金)についてであるが、藩庁から納税総額が記載された書面のとおり今月の10日に田川湯村にて受け取るとの通達があった。

その際、本郡(山濱通か?)が藩庁に上納する米・金は勿論のこと、小役納め(雑税・村方の共通運営経費)など全てを遅滞なく納め切るようにし、9日の夕方まで定宿である甚内のところまで届けること。

一.年末に渡す□□□代28両、

  同様に年末渡しの山濱大雑用10両、

  淀川組の残りの郷夫2名分の費用として年末渡しの10両

  先日、江戸に登った郷夫の分として一人当たり1両2歩づつ

  合計75両ほどになるが、皆済場(納税場所)において取り立てるので皆さん方

  夫々に金銭の取りまとめを行うこと。

  これ以外の取り決められた諸経費についても勿論納付すること。

 

本件については、納付時期まであまり時間がないので廻状を2通作成し連絡する。

早急に本書を所定のルートで村々(肝煎宛)を回付し最終の村から戻してもらいたい。

   12月5日       吉兵衛

 肝煎の方々へ

 

 

< 素人なりに考察してみましょう >

 

●1; 1年の締めくくりは年貢を全て納めることで無事終了。

 そしてゆっくりと正月を迎えたのでありましょう。

 

●2; 元治元年(1864年)、年度末における温海組としての年貢納付場所は今の鶴岡市湯田川温泉であったと記されております。

ということは、山浜通りに属する淀川組、田川組、三瀬組、由良組、温海組、鼠ヶ関組、小名部組からの年貢は湯田川温泉1か所に集められたのでしょう。

ここに庄内藩の米蔵があったのかもしれません。

そして、12月10日が藩庁による収納日で、その前日9日の夕方までに甚内という方の庭先あたりに配下の村々から集められた年貢米が山のように積み上げられた模様です。

 

御成箇(年貢=税)は米・金とあるので米だけではなくお金で納めるものと両建てだったと思われます。

 

●3; 温海組大庄屋から発せられたこのお達しの目的は藩庁に納める年貢の取立時期を知らせるのと同時にその他の雑税や村方を運営するために必要な決められた諸経費についても併せて全て一切納付するようにと、この2つを指示すること。

 

●4; 雑税等々の内容は・・・

  ① 年度末に渡す ”なんとかかんとか” 読めないのですが、この分と

           して28両

  ② やはり年度末に渡す山濱大雑用分として 10両。

    山濱とは温海組の行政上の上部組織である山浜通りのことと思いま

           すが大雑用とはどんなことをいうのかさっぱり分かりません。

    山濱通という行政単位として配下の組々(村々)を運営・統制する

           ための何か共通の仕事があってその費用を徴収することなの

           かも・・・・?

  ③ 淀川組の残りの郷夫(人夫)一人分で暮に渡す費用10両。

    これは、温海組が本来出さなければならない郷夫を淀川組が代わっ

           て出してくれたということで発生した費用ということでしょうか

  ④ 先日、江戸に登った郷夫一人当たり1両2歩。

    先日江戸に登った郷夫とは長州征伐に付き従った郷夫のことでしょ

            う。

    緊急に集められたため諸手続きが間に合わず郷夫への給金は内金

          (暫定払い)として15両が支給されてされているが、最終的には

           16両2歩と決められたのだと思われます。

  ⑤ 内借上納金として26両2歩とあるのは、藩庁から元治元年中に借り

           たお金の返済金ということでありましょうか??  違うかもしれま

           せん。

  ⑥ 合計75両を取り立てるので各村々はお金を用意し12月9日夕方

           まで納付せよ

     ・・・・との指示であります。

 

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[蕨野村(鶴岡市山五十川)に伝わる御用留] 元治元年(12月)37番目のお達し
                     (1864年)

今年最後のお達しですが、誠に おめでたいお知らせです。                                        幕府より庄内藩に17万石の格式が与えられた由。

 
年末も押し迫ってから江戸より昼夜兼行大特急で飛脚(使者)到着。
「庄内藩に17万石の格式が与えられた」、とのことで領内の村々へも直ぐに知らせが届きました。
 
 
< 御用留の本分 >
 
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● 藩庁からの文書に大庄屋が添書きして配下12ヵ村へ通達
 
別紙之通早追到着申来候間
各為承知申達候早々順達留ゟ可
被相返候已上 
  十二月二十六日
 
 藩庁から発せられた文書
 
十二月二十一日早追到着ニ付左之通
     御名
出格之
思召を以十七万石之格被成下候旨被
仰出候
  十二月
 
 
< 現代文にチャレンジ >
 
● 藩庁からの文書に大庄屋が添書き
 
別紙のとおり江戸から大特急で使者が到着したとのことなので皆様方にその内容を知らせるべく通知する。
早急に本書を村々回付し最終の村から大庄屋の方に戻すこと。 以上
  12月26日
 
● 藩庁から発せられた文書
 
12月21日に昼夜兼行にて江戸表から使者が到着し次のように連絡が
あった。
「 " 酒井家(庄内藩)に特別のご配慮として17万石の格式を与える "
  と幕府からお達しを受けました 」
   12月
 
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< 素人なりに考察してみましょう >
 
●1; 年度末にこんな目出度い知らせが届き正月はさぞかし賑々しく祝ったことでしょうね。
 
●2; さて、今回は庄内藩に17万石の格式を与えるという知らせです。
庄内藩はこれまで14万石で推移してきましたが8月に2万7千石(当ブログ27番参照)加増され17万石になりました。
江戸市中の警備に功績があったことが評価されてとのことですが、この時に乱暴集団といっては失礼かもしれませんが新懲組を家臣同様面倒をみるようにと条件を付されています。
評判の良くない厄介者を庄内藩に押し付け、願わくば遠方の出羽へ連れて行け、とのご都合主義とも見受けられます。
 
東北人は朴訥で人がいいので、庄内といい、会津といい、ずる賢い都会育ちの老中達に都合よく使われたのかもしれませんね。
 
 
●3; 17万石の格式が与えられるとどんな良いことがあったんでしょうか?
江戸城の御殿でお殿様が詰める部屋が格上の間になるとしてもこの時は本丸御殿が焼失してますよね。 この後、再建もされておりません。
またまた、格式に見合って面倒な仕事ばかりが増やされるのであればありがた迷惑とも思うのですが武士は格段に名誉を重んじたらしいのでこれ以上の喜びはなかったのかもしれません。
 
 
●4; しかしながら、この喜びも長くは続きません。
当御用留は元治元年の記録ですが、この僅か3~4年後の慶応4年(1868年)に戊辰戦争が起こります。
 
この戦いで庄内藩は会津藩と共に朝敵にされてしまいます。
両藩とも朝廷に誠を尽くすと申上げても薩長はこれを認めません。 どうみても逆恨みですよね。
会津は徹底的に叩かれ悲劇も多くその一部始終はドラマの題材にも多く取り上げられるなどして広く知られていますが、庄内のことは殆ど知られていないのではないでしょうか。
 
ところが我が庄内軍は非常に強かったのです。
連戦連勝で領内に官軍を一歩も寄せ付けていない、と言われることもあるが実は領内の温海組に隣接する小名部組に属する関川村のみは官軍に落ちてしまいました。
今でも関川の民家にはこの時の銃弾や刀傷が残され、また襲撃の恐怖の話も語り継がれているようです。
しかしながら庄内軍は秋田のお城を落とす寸前まで攻めまくりましたから全体としては猛烈に強かったことは間違いなかったと思います。
庄内軍の強さの秘密は日本一の大地主と云われた酒田の本間家の援助で西洋の進んだ武器を大量に調達し、かつ軍事調練が行き届いていたこともありますが、守備隊として砲術指南をも受けた約2000名の農民兵を組織できたこともまた大きかったと思います。
筆者の本家筋の座敷の鴨居にはかつて火縄銃や槍などが掛けられていたが、これは戊辰戦争時に藩から支給されたものであったようです。
温海組とその周辺では海上の官軍の軍艦から大砲を撃ち込まれたり、越後との国境線では激しい戦闘が繰り広げたりもしたが農民兵は慣れない戦争を必死に凌ぎ切りました。
でも、やはり農民というのは弱い民です。 内実はてんやわんやの大騒ぎで穴を掘って家財を隠したり逃げる準備をしたりと大変であったことが本間佐左エ門恵考が残した別の資料に記されております。
 
 
何れにしましても庄内藩の領民たる百姓達にとって元治元年という年は当御用留の限られた情報から類推するに・・・・、
多くの時間は去年までと同じように平々凡々としたものでありながら蝦夷地警備、江戸市中警備、長州征伐に駆り出されたり、重要物資が他領にどんどん流出する一方で逆に他領から浮浪者が侵入したり等々、いろいろな事件に少なからず翻弄された一年でもあったようです。
 
 
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[蕨野村(鶴岡市山五十川)に伝わる御用留]元治元年(12月)36番目のお達し
                (1864年)
 

今年度御成箇(年貢)の最終納税時期到来です。

同時に雑税や村方の共同運営経費なども全て急いで納付せよ!

      ・・とのご指示です

 
12月は1年の締めくくり。
藩庁から決められた御成箇(税金;米・金)は12月10日に全て受け取るとの連絡があった由。
大庄屋吉兵衛はこの時期に併せて雑税や村方を運営するために必要な決められた経費等々も全て洩れなく納付するように、との指示を配下の村々へ発しました。
 
毎年のことながら大忙しです。
 
イメージ 1

 
<古文書本分>
 
 温海組大庄屋吉兵衛から各村々(肝煎)に指示した文書
 
イメージ 2
 
以廻状申達候然者當子御成箇皆済一紙當月
十日於田川湯村御受取被成候段別紙写之通御達
有之候間其節本郡上納米金ハ勿論小役納共
聯無遅滞上納可被遂候尤當九日夕迄定宿甚
内処江相詰可被申候
一.暮渡□□□代弐拾八両同断山濱大雑用拾両淀
  川組残郷夫弐人暮渡拾両先達而為御登郷夫
  壱人壱両弐分ツツ内借上納金高弐六両弐分〆七拾
  五両程皆済場において取立可相成候間各右之
  心得を金子用意可被相詰候右之他差定候入
  用金勿論ニ候
右日合も無之候間廻状弐通ニいたし申達候早々
順達留ゟ可被相返候以上
  十二月五日    吉兵衛
 肝煎 =----
 
< 現代文にチャレンジ >
 
 温海組大庄屋吉兵衛から各村々(肝煎)に指示した文書
 
廻状により連絡する。
就いては、今年度(元治元年)の御成箇(税金)についてであるが、藩庁から納税総額が記載された書面のとおり今月の10日に田川湯村にて受け取るとの通達があった。
その際、本郡(山濱通か?)が藩庁に上納する米・金は勿論のこと、小役納め(雑税・村方の共通運営経費)など全てを遅滞なく納め切るようにし、9日の夕方まで定宿である甚内のところまで届けること。
一.年末に渡す□□□代28両、
  同様に年末渡しの山濱大雑用10両、
  淀川組の残りの郷夫2名分の費用として年末渡しの10両
  先日、江戸に登った郷夫の分として一人当たり1両2歩づつ
  合計75両ほどになるが、皆済場(納税場所)において取り立てるので皆さん方
  夫々に金銭の取りまとめを行うこと。
  これ以外の取り決められた諸経費についても勿論納付すること。
 
本件については、納付時期まであまり時間がないので廻状を2通作成し連絡する。
早急に本書を所定のルートで村々(肝煎宛)を回付し最終の村から戻してもらいたい。
   12月5日       吉兵衛
 肝煎の方々へ
 
 
< 素人なりに考察してみましょう >
 
●1; 1年の締めくくりは年貢を全て納めることで無事終了。
 そしてゆっくりと正月を迎えたのでありましょう。
 
●2; 元治元年(1864年)、年度末における温海組としての年貢納付場所は今の鶴岡市湯田川温泉であったと記されております。
ということは、山浜通りに属する淀川組、田川組、三瀬組、由良組、温海組、鼠ヶ関組、小名部組からの年貢は湯田川温泉1か所に集められたのでしょう。
ここに庄内藩の米蔵があったのかもしれません。
そして、12月10日が藩庁による収納日で、その前日9日の夕方までに甚内という方の庭先あたりに配下の村々から集められた年貢米が山のように積み上げられた模様です。
 
御成箇(年貢=税)は米・金とあるので米だけではなくお金で納めるものと両建てだったと思われます。
 
●3; 温海組大庄屋から発せられたこのお達しの目的は藩庁に納める年貢の取立時期を知らせるのと同時にその他の雑税や村方を運営するために必要な決められた諸経費についても併せて全て一切納付するようにと、この2つを指示すること。
 
●4; 雑税等々の内容は・・・
  ① 年度末に渡す ”なんとかかんとか” 読めないのですが、この分と
           して28両
  ② やはり年度末に渡す山濱大雑用分として 10両。
    山濱とは温海組の行政上の上部組織である山浜通りのことと思いま
           すが大雑用とはどんなことをいうのかさっぱり分かりません。
    山濱通という行政単位として配下の組々(村々)を運営・統制する
           ための何か共通の仕事があってその費用を徴収することなの
           かも・・・・?
  ③ 淀川組の残りの郷夫(人夫)一人分で暮に渡す費用10両。
    これは、温海組が本来出さなければならない郷夫を淀川組が代わっ
           て出してくれたということで発生した費用ということでしょうか
  ④ 先日、江戸に登った郷夫一人当たり1両2歩。
    先日江戸に登った郷夫とは長州征伐に付き従った郷夫のことでしょ
            う。
    緊急に集められたため諸手続きが間に合わず郷夫への給金は内金
          (暫定払い)として15両が支給されてされているが、最終的には
           16両2歩と決められたのだと思われます。
  ⑤ 内借上納金として26両2歩とあるのは、藩庁から元治元年中に借り
           たお金の返済金ということでありましょうか??  違うかもしれま
           せん。
  ⑥ 合計75両を取り立てるので各村々はお金を用意し12月9日夕方
           まで納付せよ
     ・・・・との指示であります。
 
イメージ 3

 
 
 
 
初心者の古文書;一緒に楽しみませんか

[蕨野村(鶴岡市山五十川)に伝わる御用留] 元治元年(12月)35番目のお達し
                      (1864年)

 蝦夷地の開拓農場に米の種籾を無償提供です


庄内藩がロシアなど外国の脅威に対抗すべく蝦夷地警備を命じられたが、併せて本土の領地よりも広い広大な領地を蝦夷に与えられました。
ということで外国船警備だけでなく与えられた地域が経済的に成り立つよう領地経営も行わなければならなくなり多くの開拓農民や職人が送り込まれました。

現代に至り品種改良が進みようやく内地とそん色のない米ができるようになりましたが、この当時寒冷地の荒地を切り開いたばかりの田んぼに南方を起源とする米が簡単に根付いたのであろうか?

そうした中で庄内の中でも比較的気温の低い山里の蕨野村と実俣村(現在の鶴岡市山五十川)から蝦夷地に向けて2斗の種籾と米山餅1斗5升が無償で提供されたようです。


< 古文書本分 >

イメージ 1


       覚
一.籾弐斗   米山餅  小 八升     実俣村
                 小以壱斗五升
             々 七升     蕨野村
右之通蝦夷地行差上申候
   子十二月四日
  肝煎治郎右衛門          吉兵衛
  々 重三郎


< 現代文にチャレンジ >

    覚え書き

1. 籾 2斗    米山餅   小 8 升    実俣村
                   小を計1斗5升
                 小 7 升    蕨野村
右のとおり蝦夷地向けとして差上げます。
   元治元年(子年)12月4日

 蕨野村肝煎り 治郎右衛門       吉兵衛
 実俣村肝煎り 重三郎

イメージ 2



< 素人なりに考察してみましょう >

●1; 庄内藩はロシアなど外国勢力の進出に対抗すべく蝦夷地警備を命じられ、続いて西蝦夷地に領地が与えられました。
警備要員として武士身分の者が200~300名程送り込まれたようですが、この数をはるかに上回る領民が蝦夷地に駆り出されたものと思われます。
仕事は土木作業などの力仕事に従事する郷夫であったり、大工、桶職人、屋根の葺師等々の職人、そして農作業にあたる開拓農民など多様な構成であったことが、別のお達しに示されています。
何れにしても、訳の分からぬ寒冷の蝦夷行きには皆尻込みしたようで、優遇措置として若干の「鼻先ニンジン」を示されたくらいでは応募する者が殆どおらず、藩庁からの命令を受けた村役人は住民との間に入って相当にご苦労されたものと思います。

●2; 当時の蝦夷地で農業、特に稲作を行うことは非常に困難であったと思われます。
ただ、別の資料によれば入植後数年で幾分かは分かりませんが収穫できたようです。
粘り強い庄内人の心意気によるものでしょう。

●3;このお達しには蝦夷地の稲作に充てる稲籾を蕨野村と実俣村(現在の鶴岡市山五十川)から差上げた、と記されています。
翌年の春に種まきされる分でしょう。
いろいろな種類の種籾を送り試行錯誤で寒冷地の稲作にチャレンジしたことが窺い知れます。

●4; この文書に記されている「米山餅」とは何でしょうか? 分かりません。
実俣村8升、蕨野村7升とあるところをみると升で量れるものでしょうから、米或いは籾といったものでしょうね。
”餅”となっているので ”もち米” のことかもしれないし、 1斗5升の米で搗いたお餅を提供したのかもしれません。 何だったんでしょうね。

イメージ 3



初心者の古文書;一緒に楽しみませんか

[蕨野村(鶴岡市山五十川)に伝わる御用留]元治元年(11月)34番目のお達し
                      (1864年)

 温海組の中の村々で今年度中に融通し合った米を清算する時期が到来しました


この時代、温海組大庄屋配下の村々ではいろいろな事情から相互にお米の融通が行われていたものとみられます。
相互扶助の仕組みということでありましょうか。
そして、当年度中に借りたお米は年度末に清算(返済)する約束になっていたものと思われます。

融通されるお米を ”廻し米” と呼んだんでしょうね。

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< 古文書本分 >

一.各村々ゟ先日被申出候廻し米之内実又より
  弐拾俵蕨野ゟ拾俵〆参拾俵者我等方へ
  相廻し其余者別紙之四ケ村へ拝借高
  応し都合次第向々へ相廻し可被申候
  尤湯村と有之分者三十郎へ断々人差
  図次第取納候様可被申付候為其別紙
  拝借米高間取申達候早々以上
   十一月十四日    吉兵衛
  肝煎治郎右衛門殿
  肝煎重三郎殿

< 現代文にチャレンジ >

一.各村々より申し出があった「廻し米(融通借用米)」のうち、実俣村からの20俵と蕨野村からの10俵、計30俵は大庄屋のところに廻し、残りの分は別紙の4ヵ村へそれぞれ借用した量に応じて返済米を調達でき次第回す様にすること。
ところで、湯村(あつみ温泉)となっている分は肝煎りの三十郎へだんだんに指図をするのでそれを受けて米を取り立て納めること。
以上により拝借米の清算(返済行為)について段取りすること。
  11月14日        吉兵衛
 蕨野村肝煎 治郎右衛門殿
 実俣村肝煎 重三郎殿


< 素人なりに考察してみましょう >

●1; 毎年、11月になると当年度中に発生した諸々の行政事項について処理すべき課題を一斉に整理する、ということが慣習になっていたのではないでしょうか。
小物成と称す雑税について或いは郷村運営の諸経費などについて当年度の未納分を
納めるようにと指示があったばかりです。
このお達しでは当年度中に温海組配下の村々の間で融通(借用)しあった米を返済するための指示が行われております。

●2; 元治元年に蕨野村では10俵を、実俣村では20俵を借り受けたのでしょう。 この分は大庄屋のところに返済するようにとの指示であり、他の村で借用した分は貸し出し側の4カ村に応分に返済するようにとのことです。

●3; 湯村とは現在のあつみ温泉のことであるが、ここは温泉場で殆ど米は生産していなかった筈なので何か複雑な貸し借りがあったのでしょう。
古文書記載の文脈をどのように理解してよいのか正直のところ分かりません

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[蕨野村(鶴岡市山五十川)に伝わる御用留]元治元年(11月)33番目のお達し
                (1864年)

一年の締めくくりとして税金未納分の整理、諸々のお上への申請事などを取りまとめる時期になって参りました。


師走が近づき雑税の未納分を早急に取り立てて納付するようにとか、90才以上の長寿者や特別に農業に精を出した者、親孝行が特別と認めれる者などの申請等々、諸々の行政事項について万端取りまとめる時期になってきたようです。
この時期は毎年非常に慌ただしかったのでしょうね。


< 古文書本分 >

 温海組大庄屋吉兵衛から配下の村々の肝煎りに宛てた書状

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一.當子御普請通帳幷郷賄証文有之分
  無落取揃人足を以無間違十五日昼時迄我
  等方へ可被相届候先詰役人迄届ケ候村方様有
  之勝手ニ而不宜候事
一.各村々来丑九拾才ニ相成候長寿家名年付
  共書付を以右同日迄ニ可被相届候
一.別紙品々其外定御手当面付幷御扱願
  詮議我等扣共右同日迄ニ可被差出候
一.累年取立幷郷夫者當登給米代金山濱
  大雑用其外品々取立もの有之候間各
  金事用意可相詰候
右先詰江差懸候付廻状弐通ニ而申達候早々
順達留ゟ可被相返候以上
  十一月十二日      吉兵衛
肝煎 ---

一.累年之通農業出情孝養寄特其外
  申立有之候ハハ無落出又日限無間違可被差出候事
   十二日

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< 現代文にチャレンジ >

 温海組大庄屋吉兵衛から配下の村々の肝煎りに宛てた書状

1.今年度(子年;元治元年;1864年)の公共工事へ出た記録ならびに村方の共同事業に要した費用を示す証文がある場合は洩れなく取り揃えた上で誰かに持たせて15日昼まで大庄屋に届けること。
なお、先詰役人(出先の役人?)のところへ届けるという勝手なことをされる村方様がいないようにすること。

1.各村々において来年度(丑年;1865年)90才になる長寿の方がいる場合、その家名、年付共書面で前項同様15日まで大庄屋へ届け出ること。

1.別紙の品々、その他定められたお手当と個人名の突き合わせ、扱い願いの取調について大庄屋の控え共、前項同様15日まで大庄屋に差し出すこと。

1.例年取立が決まっているもので未納になっている分、今年度江戸に登った郷夫に給与として支給する費用、村支配の上部組織である山浜通りの運営経費、その他取り立てるべき品々がまだ残っている場合は、それぞれについて納付すべきお金を用意すべく業務を完遂すること。

以上、藩庁への納税時期が迫っているので廻状を2通作成し指示する。
本書を早急に所定のルートで回付し最終の村(肝煎)から大庄屋まで戻すこと。
   11月12日         吉兵衛
 肝煎りの皆様方へ

追伸) 例年のとおり農業で特別の成果を挙げている、孝養が特別に篤いと認められる、その他特別に申請すべきことがあれば落ち度なく期限を間違えず提示すること。


< 素人なりに考察してみましょう>

●1; このお達しに記載されている言葉なのですが・・・・

正直言って・・・・、
① 御普請通い帳とはどんなことを書き記した帳面なのか全く分かりません。
  当年度中の公共工事に人夫として出た記録の事なのでしょうか?
  であるとするなら、その年度内に人夫として出た日数に応じて決められた手当て
  が支給される仕組みであったのかもしれません。

② 郷賄い証文についても本当のところ分かりません
  村方のことでお金を建て替えた分の証文ということでしょうか?
  もしそうなら、その証文に基づき清算が行われるということになりましょうか。

③ 先詰め役人も分りません。
  お上に代わって何かお役目を勤める事をいうのでしょうか?

④ 御扱願い詮議 も同様に全く分かりません。

⑤ 当登り給米代金 は恐らく長州征伐に駆り出され江戸へと旅立った郷夫に要する
  費用であろう、と推察されます。

⑥ 山浜大雑用についても具体的にどんなことだったのかは分かりませんが、
  恐らくは温海組の属する行政組織である山浜通りを運営するための費用なのかも
  しれません。

ともかく、全くもって分からない言葉だらけなのは残念です。

●2; 分からないことだらけなのですが、このお達しで指示していることは、一つには当年度の締めくくりとして未完になっている行政上の宿題を整理すること、もう一つは 今年度対象の 90才の長寿者、農業に特別の功績を挙げた者、考養が並外れて優れている者を藩から表彰してもらうための申請を出させること、です。


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[蕨野村(鶴岡市山五十川)に伝わる御用留]元治元年(11月)32番目のお達し
                     (1864年)

 何か目的税と思われますが税金取立の話です

温海組の大庄屋吉兵衛から蕨野村の肝煎治郎右衛門へ「本増飼番金」「御国役金」「川御役金」の分であるとして2両2歩1朱と18文の税を村民から集めて大庄屋の役所へ持参せよ・・・とのお指図です。
現在価値に置き換えるのは難しいのですが、大体10万円くらいってことでしょうか・・・。

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< 古文書の本分 >

 温海組大庄屋吉兵衛から蕨野村肝煎り治郎右衛門に宛てた納税の指示書
 
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                蕨野村當り
一金.壱両ト百三文         本増飼番金
一金.弐分弐朱ト弐百六拾七文    御国役金
一金.三歩弐朱ト三拾五文      川御役金
  三口〆弐両弐分壱朱ト拾八文
右之通當子諸上納金残組當り書面之通
御取立御達ニ付村之當取立来月二日迄無間違
我等方江可被差出候右申達候早々順達留ゟ
可被相返候 以上
                吉兵衛
  子十月二十五日
 肝煎 =====

 蕨野村肝煎次郎右衛門から温海組大庄屋吉兵衛に宛てた返書

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 三口〆金弐両弐分壱朱ト拾八文
右之7通差送申候間御受取可被成候以上
  子霜月朔日   蕨野村肝煎治郎右衛門
 本間吉兵衛殿


< 現代文にチャレンジ >

 温海組大庄屋吉兵衛から蕨野村肝煎治郎右衛門に宛てた返書
 
             納税通知
               蕨野村分

一金. 1両   と 103文     本増飼番として
一金. 2歩2朱 と 267文     御国役金として
一金. 3歩2朱 と 35文      川御役金として
 3種類の税の合計 2両2分1朱 と 18文

右のとおり当元治元年(子年)の諸税について温海組の残り分を書面のとおり取り立てるようにとお上からの指示なので各村々はそれぞれ負担分を各家々より集めて来月2日まで間違いなく大庄屋へ納付すること。
以上通知します。
なお、この書面は早急に各村々(肝煎)を回付し最終の村から大庄屋に戻すこと。以上
  元治元年(子年)10月25日     温海組大庄屋 吉兵衛
 肝煎の皆さん方へ

 蕨野村の肝煎治郎右衛門から温海組大庄屋本間吉兵衛に宛てた返書

 3種類の税 合計 2両2分2朱 と 18文

右の通り送金いたします。よろしくお受け取り願います。
                蕨野村 肝煎 治郎右衛門
  元治元年11月1日(子霜月朔日)
 本間吉兵衛殿


< 素人なりに考察してみましょう >

●1; 今回の税は「本増飼番金」「御国役金」「川御役金」に宛てる分であるとしていますが、筆者の知識ではそれぞれが具体的にどのようなものなのか全く分かりません
飼番金とは宿駅の馬の管理料でしょうか??
御国役金とは番所などの管理費でしょうか??
川御役金とは河川の管理費用でしょうか??

●2; 江戸時代の税金は”年貢”ということになりますが主たる税の”本途物成”と雑税としての”小物成”で構成されており、これは庄内藩も同じです。
”本途物成”は米と金、”小物成”は漆や蝋などの産物やいろいろな名目での金銭納付・労役提供等々・・・。。
年度初めに当年度分を申告し、これを当年度中に何度かに分けて納付し年の瀬までには全て完納(皆済)する、ということが慣例であったようです。
そしてまた、何かにつけて臨時で金銭による徴税もありました。

●3; 温海組はこの時期12の村で構成されており家数が約700軒くらい。
村により異なりますが、土地を保有する農民が50~60%、土地を持たず小作の”水吞み”と称す農民が40~50%くらいといった割合にあったようです。
”水呑み”百姓の比率が結構高かったということです。

一体、こうした村々というのはどんな状況にあったんでしょうか??
恐らくは・・・、
土地を持つ農民は自分で耕作して得られる米に加えて小作地からも来るので年貢を納めた後も相当数の米が残りこれを商人に売って現金化することができたのではないかと思います。
ですから、田畑の保有量にもよりますが応分に富裕な生活をおくることができたのかもしれません。
一方、水呑みといわれる小作農は、せいぜい2~3反程度の狭い土地を耕作し収穫物の6~7割程度(年貢含む)を地主に納めることになりますから働けど働けど手元には殆ど残らなかったように思います。
僅かに残った米は雑税(小物成)や村方運営の共同経費等の支出に振り向けるべく金銭化しておかなければならなかったとするならば百姓といえど米を口にすることは殆どできなかったとみるべきでしょう。
ということは、何かの事情で一旦 ”水呑み” になってしまうと再び土地持ちの農民に復帰することは絶望的で毎日の生活にも事欠く極貧の生活をおくらざるを得なかったことは容易に類推されます。
村の中の半分にも近い農家が極めて貧しい生活をおくらざるを得ない状態が江戸時代のみならず昭和20年の敗戦まで延々と続き、占領政策による農地解放によってやっと解消された、ということなのでしょう。
戦後、山林は農地解放の対象から外れたこともあってそれなりに格差は残ったが、それでも従来の村社会と比較すれば、比較的富裕であった農民は普通の農民になり極貧の農民もまた普通の農民になったわけですから村社会のありようも相当に変化したと思います。

戦後間もない筆者が子供の時分、村の中には極貧生活の実際の姿がまだ幾分余韻として残っており、朽ちて草の生えている藁ぶき屋根を補修することもできずまた戸の代わりにムシロを下げている家などもありました。
子供が学校に弁当を持参するなど勿論できません。着るものも毎日同じです。
これは僅か60~70年前の東北の山村の姿です。
そんなに昔のことではありません。
当時の極貧の姿というのは今の日本社会からは想像しにくいけれども貧富の格差是正が政治の最も重要な使命であることは疑う余地もありません。





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[蕨野村(鶴岡市山五十川)に伝わる御用留]元治元年(9月)31番目のお達し
                                                    (1864年)

郷村担当の代官までもが急に江戸へ駆り出されることになった模様。

勘定方ともいえる郷村支配の代官 金右衛門までもが緊急に江戸へ呼び立てられた、とのお知らせです。
金右衛門不在中は平田組を担当していた今泉外守(今泉外?)が、茂兵衛と共に山浜通の代官を勤められる由。

庄内藩には蝦夷地警備、江戸市中警備、長州征討軍への参加等々、次から次へと重大なるお役目が課せられます。
酒井家は有力譜代大名の一人であり徳川家の危機に粉骨砕身励まねばならない立場は理解できますが領民にとってはその都度年貢とは別に税が課せられるのです。
本当に難義なことであります。



< 古文書本分 >

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 山浜通担当の代官茂兵衛より温海組大庄屋吉兵衛に宛てた書状

以廻状申達候然者同役金右衛門儀急出府ニ付在勤中
平田組今泉外守立合被仰付候此段各為承知申
達候右之段支配村々江も不洩様可申達候
右可申達如斯御座候 早々順達留ゟ可被相返候已上
   九月二十日       茂兵衛
 吉兵衛殿

 代官からの通達を受けて温海組大庄屋吉兵衛から
            配下の村々(肝煎)に宛てた添状

別紙之通御達相成候間各此段可被致承知候候
右可申達候早々順達留ゟ可被相返候以上
   九月二十九日      吉兵衛
  肝煎 ~



< 現代文にチャレンジ >

 山浜通担当の代官茂兵衛より温海組大庄屋吉兵衛に宛てた書状

廻状により連絡する。
ついては、
同役の代官 金右衛門が急に江戸へ立つことになったのでこれまで平田組を担当していた今泉外守が 私(茂兵衛)と共に山浜通担当の代官を勤めることになった。
このことについて承知してもらうべく通知する。
以上の次第を配下の村々へ洩れなく伝達してもらいたい。
本件以上の通りでございます。
本書を速やかに大庄屋間で回付し最終の所より当方へ戻すこと。 以上
  9月20日        茂兵衛
 吉兵衛殿

 代官からの通達を受けて温海組大庄屋吉兵衛から
             配下の村々(肝煎)に宛てた添状

別紙の通り通達が届いたので皆様方よろしく承知願います。
以上お知らせします。
本書を早急に所定のルートで村々の肝煎の間で回付し、最終のの肝煎から当方へ戻す事。  以上
  9月29日        吉兵衛
 肝煎の面々へ

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< 素人なりに考察してみましょう >

●1; 山浜通担当の代官は白石茂兵衛と細井金右衛門の2名制ですが、この中の金右衛門に対し急に江戸に登るよう命令が下ったようです。
庄内藩はこれまでの江蝦夷地警備や江戸市中警備に加え長州征伐への出兵も命じられ人手不足が顕著になってきたものと思われます。
郷村支配に従事する代官までもが駆り出されることになったものと推察されます。

●2; 代官といえば直ぐに ”悪(わる)” のイメージが浮かぶけれどもこれは現代における時代劇がつくった虚構の世界。
 「 越後屋、お主は悪よのう・・・。」
 「 いやいや、お代官様ほどでは・・・・ふふふ 」

実際の代官は権限の弱い実直なる能吏で農村支配という地味な仕事を間違いなく処理して当たり前、不正でも行うようなことがあれば場合よっては切腹ものです。

代官の日頃の仕事といえば手にするのは筆とそろばんくらいであったと思われるが、江戸に発った金右衛門は刀、槍、銃を手に取り戦いに参加、・・・ということになったのでしょうか。
この御用留からは分かりません

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[蕨野村(鶴岡市山五十川)に伝わる御用留]元治元年(9月)30番目のお達し
                     ( 1864年)

郷夫選びにズルはダメ!!               金で他の村から人集めしてはならないとのご命令


このお達しは当ブログのひとつ手前の29番のお達しとセットになるものです。
郷夫の選任に当たっては「金に任せて他村から求める」などのズルをせず「各村々に配分された人員は自分の村から選び出せ」というもの。
なるほど正道ではあるが、死をも覚悟しなければならない征討軍の一員たる郷夫になりたい者などどれほどおりましょうか・・・。
各村々では自分の村でどうしても応募する者がいなければ納税の義務(郷夫の徴用)が果たせなくなるので他の村の誰かを大金で雇入れることを考えるのは自然というもの。
しかしながら、藩庁から自分の村に割り当てられた郷夫の人数は自分の村から選びだせ、・・・・と厳命です。

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< 御用留本文 >

 役人3名の連名による藩庁(郡奉行?)からの指示書

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御家中従者郷夫の儀小物成役所ゟ差
出候義兼而御趣意茂被為在候處多分
之雇賃差出相雇候向も有之哉ニ相
聞御趣意相背之上郷方難渋不容易
以之外心得違之儀ニ付右躰之儀無之様
能々遂吟味雇者決而不相成其村ゟ
直出之事と可申達旨御郡代衆被申聞
候間不締無之様可申達候此段急村継を
以申達候以上
   八月晦日        三宅養介
                 石井守右衛門
                 春山半内
  本間吉兵衛殿


 温海組大庄屋本間吉兵衛から配下の村々(肝煎)に宛てた添状

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御別紙写之通今度御達相成候間
各被得其意郷夫等村々直出相勤候様
都而お達公ニ罷出候もの内証ニ而不當之
高数貪取不申候様村々遂吟味不締
無之様可被申達候
右可申達早々順達留ゟ可被相返す候
                      以上
   九月四日        吉兵衛
 村々
   肝煎衆中



< 現代文にチャレンジ >

 役人3名の連名による藩庁(郡奉行?)からの指示書

(長州征伐のための庄内藩の部隊編成に際し)上級武士である御家中の従者として働く郷夫(人夫)の件は小物成役所(雑税役所)から徴用の趣旨・内容を通達したとおりであるが、多額の金を積んで他の村から採用するという事例があるやに聞こえてきている。
これは郷夫徴用の本来の趣旨に反した行為であって各村々においては非常に過重な負担となり全くもって論外と言わざるを得ない。
こうした金に任せた他村出身者を郷夫に決めることについては(よくよく考えて)やってはならず必ず自分の村から出すようにすること。
これは御郡代の皆様方のお考えでもあり順守しないということのないよう命じるものである。
以上、村継(村から村へ文書を伝達)で通達する。
  8月30日         三宅養介
                石井守右衛門 
                春山半内
 本間吉兵衛殿


 温海組大庄屋本間吉兵衛から配下の村々(肝煎)に宛てた添状

別紙写しのとおりの今般の指示命令についてはその趣旨を理解の上 割り当てられた郷夫は自分の村から直接出す様にすること。
このことは藩庁からの公の指示として出されたものでありますからこっそりと隠れて
不当に高いお金を使う卑怯な手法での郷夫確保は行ってはならない。
各村においては十二分に考えてお上の指示に従わない、ということの無きよう取り計らうこと。
以上指示するので本書を所定のルートで各村々(肝煎)を回付し最終の村から大庄屋役所へ戻す事
   9月4日        吉兵衛
 村々の
   肝煎りの皆様方へ

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< 素人なりに考察してみましょう >

●1; 第一次長州征伐のため庄内藩にも出兵の命令が下ります。
荘内藩士は御家中と称す上級武士が約500人、御給人と称す下級武士が約2000人、総計約2500名であったとのことであるが、このうちどれほどの人数が出兵したのであろうか。
当時は蝦夷地警備にも多くを割いているし、領内支配にも相当数を置いておかなければならないとしたら武士身分の派遣は1000名位かと推測されますが、正直のところ当方の持つ僅かな情報量では分かりません。
一方、農民の郷夫としての徴用は当初1000名を予定していたようであるが、江戸藩邸からの緊急要請は1100名です。
このようなことから考えてみると、当時一軍を編成するにおいては直接戦闘に携わる武士に匹敵する数の郷夫を必要としたものと思われ、場合によるとそれ以上であったのかもしれません。

●2;郷夫の仕事は、御家中(上級武士)の嫡男・次男・三男の従者として働くこと、荷役などの力仕事を行うこと・・と記されています。
・・・であれば郷夫の条件は、若くて丈夫で力持ち、できれば命知らずであればなお好都合ということになりましょうか・・?

武士身分の者については、嫡男・二三男と敢えて断り書きがあるところをみると各家の当主は原則外され、やはり若い者達で一軍が編成されたものと思われます。

●3;郷夫は小物成と称す雑税の一環として徴用されていたことが分かります。
ということは、派遣する郷夫に要する経費は全て当該の村の構成員により賄わなければならないということを意味します。

●4;郷夫の仕事は直接的に武器をとらないまでも戦闘部隊の武士を下支えすることなので命を失うかもしれない危険な行為、好んでする仕事とはいえません。
郷夫の人選には各村々共、相当に苦労した様子がうかがい知れます。
しかも、通達が届いて2~3日のうちに江戸へ出立する、という緊急性。

5;このような時に各村々はどのようにして郷夫の人選作業を行うことになりましょうか???
自分の村から応募する者がいなければ、他の村の誰かに大金を積んでお願いする・・・と発想するのはごくごく自然なことではないでしょうか。

●6;ところが、上記のお達しでは他村の者にお金を積んで郷夫を調達してはならない、各村々に割り当てられた郷夫は当該の村から直接出すように、との命令です。
金に任せての郷夫募集は郷村支配の秩序を乱すとの考えだったのかもしれません。

●7;自発的な応募者がいない中で各村々が自分の村の中から郷夫を人選するとしたら次はどんなことを考えるだろうか・・・?

当時の納税は村請です。
江戸に派遣する郷夫の費用は雑税ですから当該の村の構成員全員がそれぞれの保有資産に応じて負担しなければなりません。
しかしながら、この当時、村の中には”水呑”と称す土地を持たない極貧の小作農民が少なくなく(温海組内では水呑が約半数を占める村があるなど他地域に比べて多い)、少額といえどこのような臨時の徴税に耐えられなかったことが別に残された資料から分かります。 
従って、金銭による納税が可能な者が納税に耐えられない弱者に身体で支払うよう求めるのもまた自然発生的な流れになろうかと推察されます。

こうしたことから、恐らくこの時に駆り集められた郷夫は大半が極貧の農家の若者達であったように思われます。 

●8;江戸に出立する際、郷夫は従軍滞在中の経費として15両の内金を渡されたことがこの御用留に記されています。
現在の価値にすれば70~80万円ということになりましょうか
極貧家庭の若者にとっては見たこともない大金であったと思うが、リスクもまた大きい訳どんな気持ちで江戸へ出立したのであろうか・・・・。
働き手を失った残された家のことを心配する者もいたでしょうし、病気の親を気遣う者もおりましたでしょう。
密かに想いを寄せた愛しい人にそっと隠れて別れを告げた者もいたかもしれません。
そしてまたヤケになって給金を博打で全て失った者がいても不思議ではありません。
表の記録にはない様々な出来事が数多くあった筈です。
誰かが詳細な日記でも残しておいてくれたならば「黄昏清兵衛」とはまた違った庶民目線の趣深くもありかつ悲哀に満ちた物語の素材を沢山提供していたかもしれませんね。

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●9; 結局のところ庄内藩は長州征伐の際に前線にはたたず江戸市中の治安維持にあたることになった模様です。
とは言え、1100名もの農民が動員されることになりました。
これらの農民は藩から給料をもらうのではなく江戸滞在中の自分の経費は全て出身の村で負担した訳ですから滞在期間が長引けば長引く程各村々の負担は大きくなり大変であったことでしょう。

会津藩が京都守護職を命ぜられ新選組を利用するなど華々しく活動した際も恐らくは武士身分の人員を上回る数の農民が動員されていたはずです。 そして、これら農民の京都滞在中の経費は庄内藩同様に出身の村方で全て負担したものと思われます。
戊申戦争で会津が破れ白虎隊はじめこの時の諸々の悲劇は余りにも有名であるが、謹慎していた松平容保公父子が江戸に連行される時、見送りする農民は皆無であったばかりでなくその後一揆すら起きています。
会津藩の京都での活躍は農民たちの過酷な犠牲の上に成り立っていたんでしょうね。
庄内藩における江戸市中見回りや蝦夷地警備などが農民の大きな犠牲のもとに行われていたことはこの御用留に示されているとおりであり歴史学者はこうした庶民目線からもう少し語って欲しいものです。