初心者の古文書; 一緒に楽しみませんか
[蕨野村(鶴岡市山五十川)に伝わる御用留]元治元年(9月)30番目のお達し
( 1864年)
郷夫選びにズルはダメ!! 金で他の村から人集めしてはならないとのご命令
このお達しは当ブログのひとつ手前の29番のお達しとセットになるものです。
郷夫の選任に当たっては「金に任せて他村から求める」などのズルをせず「各村々に配分された人員は自分の村から選び出せ」というもの。
なるほど正道ではあるが、死をも覚悟しなければならない征討軍の一員たる郷夫になりたい者などどれほどおりましょうか・・・。
各村々では自分の村でどうしても応募する者がいなければ納税の義務(郷夫の徴用)が果たせなくなるので他の村の誰かを大金で雇入れることを考えるのは自然というもの。
しかしながら、藩庁から自分の村に割り当てられた郷夫の人数は自分の村から選びだせ、・・・・と厳命です。
< 御用留本文 >
● 役人3名の連名による藩庁(郡奉行?)からの指示書
御家中従者郷夫の儀小物成役所ゟ差
出候義兼而御趣意茂被為在候處多分
之雇賃差出相雇候向も有之哉ニ相
聞御趣意相背之上郷方難渋不容易
以之外心得違之儀ニ付右躰之儀無之様
能々遂吟味雇者決而不相成其村ゟ
直出之事と可申達旨御郡代衆被申聞
候間不締無之様可申達候此段急村継を
以申達候以上
八月晦日 三宅養介
石井守右衛門
春山半内
本間吉兵衛殿
● 温海組大庄屋本間吉兵衛から配下の村々(肝煎)に宛てた添状
御別紙写之通今度御達相成候間
各被得其意郷夫等村々直出相勤候様
都而お達公ニ罷出候もの内証ニ而不當之
高数貪取不申候様村々遂吟味不締
無之様可被申達候
右可申達早々順達留ゟ可被相返す候
以上
九月四日 吉兵衛
村々
肝煎衆中
< 現代文にチャレンジ >
● 役人3名の連名による藩庁(郡奉行?)からの指示書
(長州征伐のための庄内藩の部隊編成に際し)上級武士である御家中の従者として働く郷夫(人夫)の件は小物成役所(雑税役所)から徴用の趣旨・内容を通達したとおりであるが、多額の金を積んで他の村から採用するという事例があるやに聞こえてきている。
これは郷夫徴用の本来の趣旨に反した行為であって各村々においては非常に過重な負担となり全くもって論外と言わざるを得ない。
こうした金に任せた他村出身者を郷夫に決めることについては(よくよく考えて)やってはならず必ず自分の村から出すようにすること。
これは御郡代の皆様方のお考えでもあり順守しないということのないよう命じるものである。
以上、村継(村から村へ文書を伝達)で通達する。
8月30日 三宅養介
石井守右衛門
春山半内
本間吉兵衛殿
● 温海組大庄屋本間吉兵衛から配下の村々(肝煎)に宛てた添状
別紙写しのとおりの今般の指示命令についてはその趣旨を理解の上 割り当てられた郷夫は自分の村から直接出す様にすること。
このことは藩庁からの公の指示として出されたものでありますからこっそりと隠れて
不当に高いお金を使う卑怯な手法での郷夫確保は行ってはならない。
各村においては十二分に考えてお上の指示に従わない、ということの無きよう取り計らうこと。
以上指示するので本書を所定のルートで各村々(肝煎)を回付し最終の村から大庄屋役所へ戻す事
9月4日 吉兵衛
村々の
肝煎りの皆様方へ
< 素人なりに考察してみましょう >
●1; 第一次長州征伐のため庄内藩にも出兵の命令が下ります。
荘内藩士は御家中と称す上級武士が約500人、御給人と称す下級武士が約2000人、総計約2500名であったとのことであるが、このうちどれほどの人数が出兵したのであろうか。
当時は蝦夷地警備にも多くを割いているし、領内支配にも相当数を置いておかなければならないとしたら武士身分の派遣は1000名位かと推測されますが、正直のところ当方の持つ僅かな情報量では分かりません。
一方、農民の郷夫としての徴用は当初1000名を予定していたようであるが、江戸藩邸からの緊急要請は1100名です。
このようなことから考えてみると、当時一軍を編成するにおいては直接戦闘に携わる武士に匹敵する数の郷夫を必要としたものと思われ、場合によるとそれ以上であったのかもしれません。
●2;郷夫の仕事は、御家中(上級武士)の嫡男・次男・三男の従者として働くこと、荷役などの力仕事を行うこと・・と記されています。
・・・であれば郷夫の条件は、若くて丈夫で力持ち、できれば命知らずであればなお好都合ということになりましょうか・・?
武士身分の者については、嫡男・二三男と敢えて断り書きがあるところをみると各家の当主は原則外され、やはり若い者達で一軍が編成されたものと思われます。
●3;郷夫は小物成と称す雑税の一環として徴用されていたことが分かります。
ということは、派遣する郷夫に要する経費は全て当該の村の構成員により賄わなければならないということを意味します。
●4;郷夫の仕事は直接的に武器をとらないまでも戦闘部隊の武士を下支えすることなので命を失うかもしれない危険な行為、好んでする仕事とはいえません。
郷夫の人選には各村々共、相当に苦労した様子がうかがい知れます。
しかも、通達が届いて2~3日のうちに江戸へ出立する、という緊急性。
●5;このような時に各村々はどのようにして郷夫の人選作業を行うことになりましょうか???
自分の村から応募する者がいなければ、他の村の誰かに大金を積んでお願いする・・・と発想するのはごくごく自然なことではないでしょうか。
●6;ところが、上記のお達しでは他村の者にお金を積んで郷夫を調達してはならない、各村々に割り当てられた郷夫は当該の村から直接出すように、との命令です。
金に任せての郷夫募集は郷村支配の秩序を乱すとの考えだったのかもしれません。
●7;自発的な応募者がいない中で各村々が自分の村の中から郷夫を人選するとしたら次はどんなことを考えるだろうか・・・?
当時の納税は村請です。
江戸に派遣する郷夫の費用は雑税ですから当該の村の構成員全員がそれぞれの保有資産に応じて負担しなければなりません。
しかしながら、この当時、村の中には”水呑”と称す土地を持たない極貧の小作農民が少なくなく(温海組内では水呑が約半数を占める村があるなど他地域に比べて多い)、少額といえどこのような臨時の徴税に耐えられなかったことが別に残された資料から分かります。
従って、金銭による納税が可能な者が納税に耐えられない弱者に身体で支払うよう求めるのもまた自然発生的な流れになろうかと推察されます。
こうしたことから、恐らくこの時に駆り集められた郷夫は大半が極貧の農家の若者達であったように思われます。
●8;江戸に出立する際、郷夫は従軍滞在中の経費として15両の内金を渡されたことがこの御用留に記されています。
現在の価値にすれば70~80万円ということになりましょうか。
極貧家庭の若者にとっては見たこともない大金であったと思うが、リスクもまた大きい訳どんな気持ちで江戸へ出立したのであろうか・・・・。
働き手を失った残された家のことを心配する者もいたでしょうし、病気の親を気遣う者もおりましたでしょう。
密かに想いを寄せた愛しい人にそっと隠れて別れを告げた者もいたかもしれません。
そしてまたヤケになって給金を博打で全て失った者がいても不思議ではありません。
表の記録にはない様々な出来事が数多くあった筈です。
誰かが詳細な日記でも残しておいてくれたならば「黄昏清兵衛」とはまた違った庶民目線の趣深くもありかつ悲哀に満ちた物語の素材を沢山提供していたかもしれませんね。
●9; 結局のところ庄内藩は長州征伐の際に前線にはたたず江戸市中の治安維持にあたることになった模様です。
とは言え、1100名もの農民が動員されることになりました。
これらの農民は藩から給料をもらうのではなく江戸滞在中の自分の経費は全て出身の村で負担した訳ですから滞在期間が長引けば長引く程各村々の負担は大きくなり大変であったことでしょう。
会津藩が京都守護職を命ぜられ新選組を利用するなど華々しく活動した際も恐らくは武士身分の人員を上回る数の農民が動員されていたはずです。 そして、これら農民の京都滞在中の経費は庄内藩同様に出身の村方で全て負担したものと思われます。
戊申戦争で会津が破れ白虎隊はじめこの時の諸々の悲劇は余りにも有名であるが、謹慎していた松平容保公父子が江戸に連行される時、見送りする農民は皆無であったばかりでなくその後一揆すら起きています。
会津藩の京都での活躍は農民たちの過酷な犠牲の上に成り立っていたんでしょうね。
庄内藩における江戸市中見回りや蝦夷地警備などが農民の大きな犠牲のもとに行われていたことはこの御用留に示されているとおりであり歴史学者はこうした庶民目線からもう少し語って欲しいものです。