出羽庄内藩の山村に遺された御用留を読む(初心者の古文書) -2ページ目

出羽庄内藩の山村に遺された御用留を読む(初心者の古文書)

羽州庄内藩の小さな山村(山形県鶴岡市山五十川)に遺された御用留を古文書の初心者が読み解く趣味のブログです。 御用留とはお上から出された達し書きを村方で写し取って一冊の文書綴りにしたもの。幕末(元治元年=1864年)の動乱期、揺れ動く庄内藩の様子が垣間見えます。

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[蕨野村(鶴岡市山五十川)に伝わる御用留] 元治元年(9月)29番目のお達し
                     (1864年)

禁門の変を起こした長州を征伐するとのことで幕府から庄内藩にも軍事動員の命令が下りました。      このため軍隊を下支えする1000名もの郷夫(人夫・人足)を江戸に登らせることになり領内の各村々へ,勿論私達の村にも人員が割り当てられました。


禁門の変で御所に向け大砲を放った長州に対し朝敵としてこれを罰するべく征討軍が編成されることになり我が庄内藩にも軍役の命令が下りました。
戦は武士の仕事ではあるが、上級武士の身の廻りの雑事、食料・弾薬・等々の運搬、陣地の構築等には農民から徴募されたる多くの郷夫(人夫)が不可欠です。
幕府からの動員命令を受け取り急ぎ500名を江戸に登らせますが、更に600名を早急に送って欲しいと庄内藩の江戸詰めからと推察されるが緊急の飛脚が到着しました。
領内全てから各村々の石高に応じて早急に人選しなければなりません。
温海組には追加分として17人が割り当てられ私達の実俣村・蕨野村には各1名ということのようです。

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< 古文書本分 >

 3名連名で発せられた庄内藩庁からのお達し

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残高郷夫五拾四人山濱通當
  同          温海組當り
右者江戸在勤御家中嫡子次三男江御貸
付郷夫其外者持郷夫當月七日江戸表へ為
御登相成候付壮強之者相撰當月六日迄
御郡方役所へ罷出候様可被申達候此段申達候
                     以上
   五月四日         三宅養介
                石井守右衛門  
                春山半内
 本間吉兵衛殿
   他連名略ス
猶々早々順達留ゟ可被相返候以上

 温海組大庄屋吉兵衛から配下の村々(肝煎)に宛てた書状

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廻状を以申達候今般
御進發御用ニ付是迄近間ゟ急速
為御登之郷夫五百人足らす有之候上
猶又六百人足らす急為御登之御飛脚
到着〆千人足らす之郷夫八組惣高割
被仰達組當り別紙之通御達ニ付兼々百
石弐人之御達相成居候残高當り壮強
之者別紙村々當り之通役人共同道
明後六日迄御郡方へ可被罷出候其節
代屋家等江も立寄面付年付名前
等可被差出候
一. 右郷夫専ら高當り御割達ニ付他組
   雇等決而相成不申候被下米金等兼々
   御沙汰申上候得共未御達も無之候間山
   濱組々取極ニハ是迄為登相成候ノ分
   一年給金拾五両ツツ内手擬為取候趣ニ付
   村々不同無之様尤右金子ハ同道の役人
   用意出立之節不残相渡候様可被致候
   尤是ニ限候事ニも無之趣ニ聞江申候間
   給金の儀山濱不同不相成様相心得出人
   早々取極可被罷出候是迄雇中組々之
   難渋ハっ面談ニ可為申聞候
   右甚火急之御達ニ付飛脚を以申達候
   間恐々取急順達留ゟ明後日出町
   之節代家ニ而可被相返候以上
    九月四日      吉兵衛
       早朝出ス
   肝煎衆中

猶々本文他組と申ハ櫛引京田通之事也
山濱内なれハ不苦候事

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一. 郷夫拾七人 温海組當り
  〇 弐人  小波渡村     〇 弐人 堅苔沢村
  〇 弐人  五十川村     〇 壱人 蕨野村
  〇 壱人  実俣村      〇 壱人 戸沢村   
  〇 壱人  温海村      〇 壱人  湯村  
  給得村ニ付書面之通
  〇 壱人  一霞村      〇 三人  大岩川村
  〇 弐人  小岩川村
右之通
   子九月

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< 現代文にチャレンジ >

  三名連名で発せられた庄内藩庁(郡奉行?)からのお達

残りの郷夫  54人    山浜通りの分
   同             温海組の分を含む
右に示す郷夫は江戸で勤務する御家中(上級の武士)の嫡男・次男・三男に
従者として貸し付けられる分、そしてまた弾薬・食料などの荷役にあたる分であるが、今月7日に江戸へ出発する。
ついては、壮強の者を選任し6日までに御郡方役所へ出頭されたい。
以上のとおり命ずる。
   5月4日          三宅養介
                 石井守右衛門
                 春山半内
  温海組大庄屋 本間吉兵衛殿
   ( 他連名省略 )

追伸 ; 早急に本書を所定のルートで組々(大庄屋)を回付し最終の組から当方へ返却すること。



 温海組大庄屋本間吉兵衛が配下の村々(肝煎)に宛てた添状

至急扱いで廻状により指示する。
今般の幕命による出兵に際し先ずはできるところから急いで500人の郷夫(人夫)を江戸に登らせたが、なお又600人を急いで登らせて欲しいと(庄内藩江戸詰めから)飛脚が到着した。
元々1000名の郷夫を8組(領内全ての意)全てを対象に石高に応じて徴募するようにとの指示であって各組あたりの割り当て人数は別紙の通り前々から示しているように村高100石につき2名である。
各組共、石高割の徴募人員に対し残となる人数について屈強なる者を別紙村々あたり人数リストに基づき選任し村役人同道にて明後日6日迄御郡方へ出頭すること。
その時に当該の郷夫は代家に立ち寄り本人確認の上、名前・年齢等を指し出すこと。

1. 右の郷夫は各村々の石高に応じて出すべきもので他の組から雇い入れるようなことをしてはならない。
郷夫に下されるお米・お金については以前からその水準について示すよう要請しているがいまだ連絡が無いので山浜通りに属する組々での取り決めとしては初めに江戸へ登った郷夫については1年の給金として各人に15両を内金(手当)として支給する。
従って、各村々はこの取り決めに従って対応すること。
なお、このお金は御郡方まで郷夫に同行する村役人が用意し、郷夫が江戸に出立する時に全額を渡して頂きたい。
また、郷夫への給金は内金として渡した額でおしまいということではないと聞いているので山浜通りから派遣する者各人への支給額が違った額にならぬようにして、ともあれ派遣する郷夫を早急に決めて御郡方へ出頭してもらいたい。
これまでの各組々における郷夫選任の難しさについては面談して説明します。
以上、大変急ぎの通達なので特別に飛脚を仕立てて連絡します。
誠に恐れ入りますが至急村々所定のルートで本書を回付し最終にあたる肝煎りから鶴岡の町にでた際、代家にて返却されたい。
    九月四日  早朝に出す        吉兵衛
  肝煎りの皆様方へ

(追伸) 本文の中に他組とあるのは櫛引通りと京田通りのことです。
      (我々が属する)山浜通りの村々は該当しません。

●  郷  夫  17人 ・・・・・  温海組分 (後半江戸派遣分)
   < 内訳 > 
   小波渡村   2名    堅苔沢村  2人
   五十川村   2名    蕨野村   1名
   実俣村    1名    戸沢村   1名
   温海村    1名    湯村    1名
   一霞村    1名    大岩川村  3名
   小岩川村   2名
      元治元年(1864年)9月


< 素人なりに考察してみましょう >

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●1; 長州は京都での政変に敗れ攘夷派の公家7名と共に前年の8月に都落ちしたが、この復権を目指し再び京へ軍を進め御所付近で激戦を繰り広げたのが禁門の変(蛤御門の変)。
大砲を打ち合うほどの戦いに 結局、長州は会津を中心とする幕府勢力に敗退します。 そして、逃走時に京の都に火を放ち3万戸余りが焼失、3日3晩にわたり燃え続けたそうです。
この長州の仕業に対しけじめをつけるべく長州征伐の幕府軍が編成され庄内藩にも軍役が課せられました。
長州征伐の為に庄内藩から派遣された武士身分の者は、必要とされた郷夫の数から逆算して1000名前後と推測され、これは全藩士の約4割くらいにあたります。 既に、江戸市中取締りとして相当数派遣されているので本拠である庄内に残された武士は老人と子供ばかり、といった状態にあったかもしれませんね。

●2; 幕末の歴史書は多数発行され今もブームであるが庶民の生活目線からみたものは殆ど見当たらない。
長州征伐の主役も全ては武士階級であり庶民は殆ど登場してこないが、動員された人数からすれば武士身分の者とほぼ同数か或いはそれ以上が庶民階級の出であったことがこの御用留から推察されます。
即ち、一軍を編成するためには戦いを直接行う戦闘員としての武士身分(足軽階級を含む)と同程度か或いはそれ以上の軍を下支えする郷夫を必要としたことが分かります。
郷夫は非戦闘員扱いなのであろうが旗差しなどその役目によっては戦闘地域に直接立ち入って働かなければならない者も多かったでしょうから命にかかわる危険な仕事であったことは容易に想像できます。

●3. この御用留によれば藩庁から発せられた文書の日付が9月4日付、命令を受けた大庄屋吉兵衛が配下の村々(肝煎)に郷夫の動員命令を伝えたのも9月4日。
しかも吉兵衛が発した書状には「早朝に出す」との記載があります。
藩庁から発した文書は4日以前に作成しないとファクスも電子メールも存在しない時代にこんなに早く伝達できるとは思えないのだが‥‥。
広い領地の各方面に早馬でも飛ばしたのだろうか???
ともかく17名の郷夫を緊急に選任し2日後の9月6日には鶴岡の御郡方役所(庄内藩の村支配役所)へ出頭させよ、・・・というとんでもなく緊迫した命令です。

●4; 郷夫の仕事は、このお達しでは ① 御家中といいますから上級武士の嫡男・次男・三男の従者として働くこと  ② 食料・弾薬・その他諸々の荷役にあたること・・・とされています。

 郷夫の徴用は小物成と称す納税の一環であり村高100石につき2名を差し出すようにとの命令です。
このブログでは省略するが、各村々がその石高に応じて負担すべき郷夫の人員を定めるにあたりことのほか公平な配分に腐心しています。
というのも、お上からはいろいろな理由をつけては臨時に過重な徴税が為されるため農民側は負担にあえぎ苦しんでおり、その結果村々の間では不公平さに極めて敏感にならざるを得なかったのでしょう。
どの村も余裕がありませんから本当に細かい計算をして村あたりの郷夫の負担配分を決めています。
そしてまた、郷夫に支払う給金についても同様に村々の負担額を実に細かく算定しているのです。

歴史書・小説などの世界では一般的に戦場に駆り出された雑兵(郷夫)について十把一絡げに荒っぽく取り扱われています。まるで物を取り扱うように。
これは物事の大要を語る上においてやむを得ないこととは認めるけれども、しかしながら雑兵といえど個々人が尊厳に満ちた一人の立派な人間であることにもう少し配慮してもらっても悪くはないのではないでしょうか。
このお達しに示されるように郷夫個人・個人が我々の直接の先祖でありまたその親戚のひとりであった、ということを忘れてもらっては合点がいきません。
僅か、5代くらい前のことなので寺に行けば過去帳に書き記されている個人名さえも特定できる可能性もありますから私達にとっては甚だ身近な距離感にあるのです。

●6; 次に各村々の中では割り当てられた人数の郷夫をどのようにして人選したのだろうか?
命に係わる仕事であればかなりのもの好きでなければ手を挙げる者はいない筈。 そうなれば、派遣する郷夫にはお金を支払うことを条件に人選を進めることになりましょう。
それでも応募する者がいなければ村の中で納税する能力の無い者(水飲みと称す土地を持たない農民か、少ししか田畑を持たない農民など)に白羽の矢がたてられる、・・・なんてことになるのではないか??・・・。
・・・と考えると極貧家庭の若者がやむを得ず徴用される、ということは自然の流れであったのではないか??・・・と推察されます。
郷夫選びの苦労はどの村においても一緒だったのでしょう。
結局は徴用に応じる郷夫に対し高額の給金支払を条件に出てもらおう、・・というシナリオで解決させたかに見受けられます。
郷夫への給金は、藩庁の政策を受けて各組(村々)の上部組織(通および郷単位)でその水準を定めたようだが、何れにしても基本的には小物成(税)ですからそのお金の準備は各村々がそれぞれの責任で行うことになります。
即ち最終的には保有資産に応じて村内の全戸で負担する、ということになりますよね。
言ってみれば、郷夫の派遣費用は全て村方の領民の負担で賄われ藩庁から給金が出た訳ではありません。
温海組が属する行政組織たる山浜通りでは給金の水準、各村々の負担割合などを合議したがあまりにも急なことであり郷夫出立日までに確定させることができなかったため、先ずは内金として15両を郷夫が江戸へ出発する日に村役人から本人に全額を手渡すように、と指示を出しています。

●7; 郷夫を他の組(村から調達することを禁止する、と敢えて断り書きが加えられています。
誰もが嫌がる仕事なので金で解決しようと考える村があったとしても不思議ではありませんが、小物成(税金)としての徴用なので趣旨に反することは禁ずるということなのでしょう。
頭数が集まればそれでOKというわけではなさそうです。

●8; 御郡方へは村役人(肝煎或いは添役)が江戸にたつ郷夫に同伴出頭するように指示され、加えて 郷夫が ”代家” に立ち寄り本人確認を行い名前・年齢を登録するように指示されています。

●9; 御用留にはこれまでも ”代家” の記述があり、何のことか意味不明であったが本項の記述から推測するにおそらくは村方にかかわる共同の事務・会合等を行う施設であったように推察されます。
規模や構造は全く分からないがご城下(鶴岡)にそれなりの施設が設けられこの運営費は領内各村々が石高の見合いで負担していたものと思われます。

●10; 話は飛躍するが・・・・・
蕨野村(現鶴岡市山五十川南部地区)における第2次世界大戦での戦死者は約20名ほど。 お寺の石碑に全員のお名前が刻まれておりお盆には皆が手を合わせます。
家数70~80戸の小さな山村ですから3~4軒に1軒くらいの割合で戦死者が出たことになります。
余りにも酷い犠牲と言わざるを得ません。
時の政府や軍部は同じ日本人である兵を単なる消耗品としか考えていなかったのだろうか??
戦争するにはそれなりの重大な論理性と勝算があったのであろうけれども
下々の一兵卒には「ただ従うべし!!何も語るな!!」・・・ということでは余りにも悲しい。

江戸時代は武士階級が農民階級を強圧的に押さえつける専制政治で暗い時代であったといわれることがあるけれども御用留の記述からは農民の気持ちや要望を尊重する藩庁の思いやりが随所にみられ、庶民にとっては幕末の動乱期といえど戦前の昭和の時代よりはある意味良き時代だったのかもしれません。



初心者の古文書 ;一緒に楽しみませんか

[実俣村(鶴岡市山五十川)に伝わる御用留] 元治元年(8月)28番目のお達し
                     (1864年)

 長州を撃退し、京都の治安が回復。    控えていた神事・祭礼・音曲などを通常通り行っても構わない、と幕府からのご指示です。


元治元年7月19日(1846年8月20日)、京都の御所近くで大砲を放つほどの激しい武力衝突が起こりました。
有名な禁門の変(蛤御門の変)です。
前年の政変で京都から追い出されていた長州が失地回復のため再び兵を率いて上洛し御所近くで幕府側と交戦・敗退した事件のこと。
この動乱の最中に幕府は寺社や町方・郷方の神事・祭事・音曲等を控えるよう命令を発したが、戦闘が幕府側の勝利で終結したことから平常通りにしてよろしい、というのがこのお達しの内容です。
東北の小さな山村にもこうして文書が届けられたということは神事・祭事・音曲等の停止命令が京都市中に留まらず全国全てを対象に発せられた、ということなのでしょう。

歴史的大事件が当時の庶民に果たしてどの程度のインパクトをもって受け止められたものか??     興味がもたれますね。

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< 古文書本分 >

 庄内藩庁からのお達し

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京都表乱妨等有之
御所近ニ而炮發出火等ニ付當分之内神事
祭礼鳴物等見合候様相達置候処最早
其儀ニも不及旨被 仰出候間其段向々江
可被達候
右之通従 公義被 仰出候間被得其
意支配有之面々ハ支配下へも可被申達候 以上
    八月二十四日

 茂兵衛(山浜通担当の代官)から大庄屋吉兵衛に宛てた添状

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別紙之通御達ニ相成候間各被得其意
支配村々江も不洩様可被申達候
右申達候早々順達留ゟ可被返候以上
    八月二十四日       茂兵衛
  吉兵衛殿



 温海組大庄屋本間吉兵衛から配下の村々(肝煎)に宛てた添状

別紙之通両通写之通御達相成候間各被得
其意大小御百姓共江も不洩様可被申達候右申達
早々順達留より可被返相候
    八月二十八日       吉兵衛
  惣肝煎衆中

猶々寺社之面々江も各ゟ失念無通達可被致候以上

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< 現代文にチャレンジ >

 藩庁からのお達し

京都で争いごとがあり大砲が打たれたり市中が大火事になるなどしたため、暫くの間 神事・祭礼・歌舞音曲などは見合わせるようにと指示していたが、既に騒ぎも収まったので元通り通常の生活に戻って構わない。 各方面へこのことを伝達するようにせよ。
  ・・・・・と、幕府から連絡があった。
以上の事柄について、支配組織(部門・部署・村々等)を持つ者は配下に通達されたい。  以上
    月24日

 茂兵衛(山浜通担当の代官)から温海組大庄屋吉兵衛に宛てた添状

別紙のとおり通達が来たので皆様方におかれましてはこの趣旨を配下の村々へ洩れなく伝達してもらいたい。
この文書は早急に所定のルートで回付し最終の大庄屋から当方に戻してください。
    8月24日        茂兵衛
  温海組大庄屋吉兵衛殿


 温海組大庄屋吉兵衛から配下の村々の肝煎に宛てた添状

別紙両通の写しに示されるとおり通達が届いたのでこの趣旨を大百姓、小百姓全て洩れなく伝達願いたい。
以上の通り指示するので当書面を所定の村々に回付し最終の村から当方へ戻してください。
    8月28日       吉兵衛
  全ての肝煎の皆様方へ

 (追伸) 寺社の方々にも皆様方から忘れずに伝達下さい。


< 素人なりに考察してみましょう >

●1; このお達しは教科書にも載るほど有名な禁門の変に因んで発せられたものです。
禁門の変(蛤御御門の変)は7月19日の事件であるが、戦闘はその日の未明に長州側の攻撃によって始まり当日中に幕府側の勝利で終わっています。
長州側は御所を守る会津藩を追い出し京都での主導権を回復すべく立ち上がったが結局は味方を得られず一方的に徹底的に叩かれます。
そして、この時の騒乱で京都市中が火事となり3日3晩に亘って燃え続けたそうです。

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●2; 幕府がこの事件に関連して神事・祭事・歌舞音曲などを控えるようにとの命令を全国に発したようですがどのタイミングでこの通達が成されたのかは御用留に記録が無いので分りません。
ただ、騒乱が終結し京都市中の火事が収まって1カ月後には平常に戻って構わないと幕府からの通知が東北の山村迄にも伝えられていることから察するにこの頃はまだそれなりに幕府の権威が保たれていたんでしょうね。

●3; 我が庄内藩は京都での騒乱に関与していないが、新選組とも関係する乱暴集団の新徴組を幕府から家臣同様に面倒をみるようにと委ねられています。
     ( 当ブログのひとつ前 27番を参照 )

●4; 因みに この変に先立つ6月5日に池田屋事件があって長州の攘夷を掲げる有力メンバーが新選組に襲われています。 20数名が命を落としていますね。






初心者の古文書 ; 一緒に楽しみませんか

[実俣村(鶴岡市山五十川)に伝わる御用留] 元治元年(8月)27番目のお達し
                     (1864年)

ご加増のお知らせ、誠にめでたい と慶賀の気分です。 だが、暴れ者 ”新懲組” を庄内藩に預けるので家臣 同様に面倒をみるように、・・・とのこと


老中の牧野備前守から庄内藩の江戸留守居役が呼び出され、大いに持ち上げた上で乱暴集団 ”新懲組”を預けるので家臣同様面倒を見るように、とのお指図です。
石高を2万7千石増やしてあげるからいいでしょう・・・ということのようですが、これは江戸市中取締りや蝦夷地警備など膨大な経費を要する仕事を行っているが故の相対の措置であり、 そんなにありがたいお話なのでしょうか。
庄内藩に限らず東北在住の大名家は朴訥な田舎者と思われたのか、幕府から厄介事ばかりをいろいろ押し付けられます。

そして、挙句の果ては薩長勢力から賊軍呼ばわりです。

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           ( 新徴組の乱暴狼藉 )


< 古文書本分 >

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當月十八日御用番牧野備前守様ゟ御留守居
御呼出ニ而昨亥年ゟ以来市中廻り其他度々
御用向茂被 成御勤ニ新徴組御委任ニ付而ハ
格別尽粉骨候段達
御聴 御機嫌 思召候依之御称誉之為
出格之訳を以出羽国御両領所弐万七千石余為
御年擬被遊御拝領新徴組末々迄御家来御同様
御所興相成候間十分之御所置被遊候様被
仰渡候段早追到着申来候各可被致恐悦候支配
有之面々ハ支配下江も可被申達候右ニ付為御祝儀明後
二十五日御家老中御宅江可被出候御在勤之
御家老中江者不及罷出候尤
大殿様御廣間江茂罷出御帳江付可被申候
以上
   八月二十三日         組頭
                     小姓頭
  惣御家中


< 現代文にチャレンジ >

        お知らせ
今月(8月)18日に月番のご老中 牧野備前守様より江戸留守居役(庄内藩江戸屋敷の責任者)が呼び出され・・・・ 
「 昨年(猪年)以来、江戸市中の警備、その他諸々の幕府の用件を勤められ、特に新徴組の委任に際しては特別にご苦労をされたと聞いており大変嬉しく思っている。」・・・・・ とのことで、これによりご褒美として特別の措置として出羽国に2万7千石を拝領(加増)することになったが・・、
「新徴組をこれから先 酒井家の御家来と同様に召し抱え十分なる措置を講じるように」・・・・と命令された。
・・・と、上記のことについて昼夜兼行で江戸から使者が知らせに来た。
このことについて御家中の皆々様方には心から喜んで頂きたい。

就いては、明後日の25日に(御家中の面々は)御家老様のお屋敷に出てきてもらいたい。
城中に出勤されているご家老の場合は屋敷へ来てもらう必要はありません。

なお、大殿様が大広間の御座所につかれ本件直接家中の面々へ申し達せられます。

    8月23日                  組頭
                           小姓頭
  家中全員の面々へ

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< 素人の考察 >

●1; 庄内藩は幕末に至りそれまでの14万石から17万石へと加増されます。
諸々の資料には加増の理由が江戸市中警備、蝦夷地警備等に要する費用を賄うための措置であるする記述が多いように見受けられるが、この「お知らせ」からみると幕府の本音としては厄介者の新徴組を江戸から東北の田舎へ追い出すことも大きな要因であったように思われます。

●2; 当ブログ 8番に示す幕府からのお達しから判断するに、この当時新徴組は商家に押し入るなど乱暴狼藉を働き江戸市中の治安を乱す張本人であったようです。
しかしながら、この新徴組は幕府の都合で編成された浪人集団であったことから取締りに手を焼き、庄内藩に管理を委任したところ上手くマネージしたので、これに味を占めたのでしょうか、新徴組を根こそぎ庄内藩の領内に押し込めてしまうことを考えついたようです。

●3; ところで、出羽庄内に送られた新徴組は当地に来ても扱いは他所者でありあまり良い処遇は受けられなかったようです。  戊辰戦争で多くが戦死し数少ない残存者は荘内で開拓に従事したようだが鶴岡市の郊外にある温泉地湯田川のお寺にはここで亡くなられた家族を含めてのお墓がひっそり残されている。   (当ブログ 8 番参照)


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●4; 庄内藩では2万7千石もの加増なので ”大いに喜びましょう” とのこと。
藩主である酒井忠篤公が江戸に居られたからでしょうか、大殿様が城中の大広間の御座に出られ家中の面々に加増の事、新徴組のことなどを申し伝えるとのことです。

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             ( 鶴ヶ城 本丸御殿 )




初心者の古文書 ; 一緒に楽しみませんか

[ 実俣村(鶴岡市山五十川)に伝わる御用留 ]  元治元年(7月) 26番目のお達し
                                    < 1864年 >

 温海組のお盆経費の分担金について割り当てが来ました。


温海組が共同体として行うお盆行事に要する経費を各村々に割り当てる書面が到来しました。
蕨野村の分は1両3朱と327文とのこと。
金額は物価等を考慮して決められたのかもしれませんが、毎年の決め事として徴収されていたのでしょう。

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< 古文書本分 >

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 温海組大庄屋吉兵衛から蕨野村に宛てられた書状


以廻状申達候然者山濱大雑用大小縄秉
代盆前代家賄代其外別紙割書面
之通當十七日盆賀之節迄取立持参
我等方江可被差出候右申達候早々順達留ゟ
可被相返候已上
    七月十二日     吉兵衛

  肝煎村之金壱両三朱ト参百弐拾七文
                   蕨野村當り


< 現代文へチャレンジ >

回覧文書によりお伝えします。
さて、山浜大雑用の大小縄束代、盆前代、家賄い代、その他別紙割り当て表に示す費用を今月17日の盆賀の時までに徴収の上 大庄屋役所まで持参すること。
上記のとおり申し伝えます。
この書面を早急に村々へ回付し最終の村から大庄屋役所へ戻してください。
    7月12日   温海組大庄屋 本間吉兵衛

貴肝煎の村の負担額は 1両3朱 と 327文
                  ( 蕨野村の分 )

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< 素人の考察 >

●1; 現代と異なりこの時代は正月とかお盆の節はいろいろな行事が催されていたようです。
準備作業も大変だったと思いますが共同体の絆を深める上で大事な行事として継承されてきたものと思われます。
こうしたことは、村社会の中の掟の一部でもあったのでしょう。

●2; 山浜大雑用のための大小の縄束代とのことですが、先ずは山浜大雑用ってどんな大きな雑用のことをいうのだろうか?? ・・・推測がつきません。
ただ、”山浜”とは温海組が属する上の支配組織と思うのでこれに因んだ何か特別な雑用があったのでしょう。
また、この雑用には大小の縄束が必要とされたようだが具体的にどのような目的でどのように使われたのか勿論全くわかりません。
当時は縄があらゆるところに活用された必需品でありましたから諸々の共同事業の何かに使われたのでしょうけれど・・・・・。

盆前代というのはお盆に備えて事前に何か共益的な作業があってこの費用ということなのでしょうか??

家賄い代ということもどんなことなのか全く想像がつきません。
何かお盆行事を共同で行うにあたり直会としての食事の準備が行われたのかも・・・。

何れも共同体としてお盆時に行われる何か大事な事柄だったと思われます。
その他にも細々としたことが決められ各村々、延いては各家々に負担を求めたことがこの文書から分かります。
年貢だけではなく折に触れ諸々の負担があったんですね。 
村社会で生活するというのは結構窮屈だったのかもしれません。 


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[ 実俣村(鶴岡市山五十川)に伝わる御用留 ]  元治元年(7月) 25番目のお達し

防犯取締りの為村方を巡回している足軽の世話はほどほどでいいよ、・・・・とのこと。


庄内藩では領内に外部から侵入した不審者や盗賊などを取り締まるために足軽を巡回させていたようです。
この足軽が領内を廻った時に夕暮れになり農家で宿泊したり或いは昼食などの世話をしてもらっていたのでしょう。  こうした取り扱いが農民たちにとって大きな負担になっていた模様です。
藩庁は農民の不満に応える形で「足軽」の世話は宿の提供までは必要なし、手軽に最小限の取り扱いで結構 ・・・・と、誠にありがたいご配慮です。

庄内藩は善政であった、との説を聞くことがあります。
他藩との比較において本件のようなお達しが出されたことからもそんな評価が為されるのかもしれませんね。


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< 御用留本文 >

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● 金右衛門(山濱通り代官)から温海組大庄屋吉兵衛に宛てられた指示書

此節浮浪之徒其外盗賊等郷方へ立入不締之儀有之候
而者不相済義ニ付盗賊方御足軽月々両度位ツツ御郡
中相廻り例之通行暮村方江止宿差図迷惑
いたし候儀茂有之哉ニ相聞候平日出役人之宿等
不致村方ハ取扱振不案内ニ付彼是申義も有之候
得共前々申達候通村方費不相立様手軽之
宿賄いたし止宿差図無之様取計可申旨可
被申達候此段外七組江茂可有御達候以上
右之通御沙汰ニ付諸事指図無之様可被取計
候右申達候以上
    七月五日  金右衛門
 吉兵衛殿

 温海組大庄屋吉兵衛から配下の村々(肝煎)に宛てた添状

別紙之通御達有之候間各得其意其節
差図無之様兼而心得居可被申候右申達候以上
    七月十一日     吉兵衛
  肝煎
   面々

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< 現代文にチャレンジ >

 金右衛門(山浜通り代官)から温海組大庄屋吉兵衛に宛てたお達し

近頃において浮浪人、その他盗賊などが村々へ立入り犯罪等を犯すようでは不味いので盗賊担当の足軽を毎月2回くらいの頻度で領内を巡回させている。
その際、巡回中の足軽が夕方になって最寄りの農家に宿泊を求めるという迷惑行為を行う場合もあるやに聞いている。
普段、出張の役人に宿を提供したことのない者にとっては、どのように対処してよいか分からないためあれこれ言う者もある。
前々から申しているように こうした折 村方で費用が発生しない手軽な世話程度とし、宿泊の手当てなどすることの無きよう取り計られたい。
本件は温海組だけでなく他の7組にも指示している。
上記のとおりの指示なので諸々よろしく取り計られたい。
以上、通知する。
    7月5日    金右衛門
  吉兵衛殿

  温海組大庄屋吉兵衛から配下の村々(肝煎)に宛てた添状

別紙のとおりの指示なのでその意向に従い足軽巡回の際 宿泊手配は行わないようにしてください。
以上連絡します。
     7月11日   吉兵衛(温海組大庄屋)
   各村々の肝煎の皆様方へ

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                          ( 大 盗 賊 )


< 素人考察 >

●1; 当時、警察などという治安組織が存在せず防犯はそれぞれの村々の責任において成されたようです。
しかしながら幕末に至り領外からの浮浪者や不審者の侵入が目立つようになり農民のみによる自治警備だけでは安全が保ちにくくなってきたのでしょう。
このため、庄内藩では毎月2回くらいの頻度で足軽に防犯を目的として領内を廻らせていたようです。

●2; 武士階級は軍人としての誇りが高く治安維持にあたる警察業務は通常下層の人々に委ねていたようなので足軽にこの業務をやらせることについては当時として相当に思い切った政策だったのかもしれません。
しかしながら、武士の端くれである足軽身分の者にとっては、農民階級より自分達は上位との認識が強かったと思うので農民のための防犯パトロールであれば農民から接待を受けるのは当然と思っていた可能性があります。

●3; これに対し農民達は素直に不満を上奏したのでしょう。
藩庁からは丁寧な形で不満解消の指示が成されております。
幕末もいよいよ後期になると農民の自治組織が強くなり藩政を司る役人も農民の苦情を無視するのが難しくなってきたように思われます。
特に、庄内藩においては幕府からの命令たる三方領地替えを民衆の力によって阻止してきた経緯もあり農民には応分に配慮せざるを得ない事情があったのではないでしょうか。



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[実俣村(鶴岡市山五十川)に伝わる御用留]元治元年(6月)24番目のお達し
                          <1864年>

重要物資が庄内藩の領外へどんどんヤミ流出。            ・・ 物価高騰の影響か??


横浜開港が大きな要因となり江戸期を通じて長期間安定していた物価が幕末に至り急速に高騰します。
その影響なのでしょうか、庄内藩の領内から蝋、漆、銭、銅、鉄、鉛、菜種油、胡麻油、油粕、小糠などの重要物資が流出停止措置にもかかわらずかなりの勢いで領外に売り渡され品不足となり人々を苦しめる事態になってきた、・・・とのこと。

藩庁から再び流出防止のお達しであるが、果たして実効性のほどは・・・・・?

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< 御用留本文 >

 庄内藩の藩庁(?)からのお達し

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蝋漆銭銅鉄鉛荷菜種胡麻水油
油粕小糠前々より沖出停止之分近年
相馳忍荷を以沖出し致候より之儀ニ
可有之御領内不融通ニ相成一同の
及難儀其侭難被成置候付右品々向後
買索め沖出ハ勿論他所商人江う売出候者等
於有之者急度可申付候且沖出他領江
売払江致世話候者茂是又急度咎
可申付候尤改方猶又厳重申付置候
此旨不洩様可被申達候
右之通郷方江不洩様可被申達候以上
   六 月

 茂兵衛(山濱通担当代官)から大庄屋に宛てた添状

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別紙之品々兼而沖出御停止之処近年
相馳忍荷を以沖出致候より御領内不
融通ニ相来諸人難義ニ至り其侭ニ被成
かたく向後買索沖出ハ勿論他所商人江
売渡候者於有之ハ急度可被申付旨御沙汰ニ候
右沖出幷他領江売出候世話致候者茂是又急度
御咎可被仰付旨御沙汰ニ付能々此段相弁へ御沙汰
之保ニ不相背様厳重村々人々前江不洩
様可被申達候差ニ相背候者も有之候ハハ其
段早速可被申出候
右申達候早々順達留ゟ可被相返候以上
     六月八日    茂兵衛
   吉兵衛殿

 温海組大庄屋吉兵衛から配下の村々(肝煎)へ宛てた添書き

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別紙両通之通御停止被仰出候品々
沖出幷他所商人江売渡候世話等一切不相
成候条村々人々前へ不洩様厳重可被申達候
右申達候早々順達留ゟ可被相返候以上
   六月十二日  吉兵衛

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< 現代文にチャレンジ >

 庄内藩の藩庁(?)からのお達し

蝋(ろう)・漆(うるし)・銭・銅・鉄・鉛・菜種油・ごま油・油粕・小糠については以前から庄内藩の領外へ船荷で持ち出す事を停止しているが、近年 これらの物資が相当の勢いを以て隠れて船に乗せられ流出している。
このためこれら物資の領内での流通が滞り人々の生活に支障が出るに至りこのまま放置することができない事態となってきた。
従って、今後これらの物資については、領内で買い集めて船で搬出することは勿論、庄内藩以外の商人に売り渡そうとする者を見かけたら必ずや届け出ること。
且つまた、他領へ売りはらうための斡旋をする者についても必ずや罰するのでヤミ行為である指定物資の流出に対する取締りを厳重に行うこと。
以上、この内容について遺漏なく徹底を図られたい。

本件、領内の村々に全て洩れなく伝達すること。


 茂兵衛(郡奉行所役人?或いは山浜通りの責任者?)から配下の大庄屋に宛てた添状

別紙(藩庁からのお達し)記載の品々については予てより船荷にて領外へ持ち出すことを停止してきたが、近年大変な勢いを以て隠れて船積みされている。
このため領内での流通が滞り人々の生活に支障を来し放置できない事態になってきた。
今後はこれらの物資を領内で買い集め船積みして領外へ持ち出したり、或いは庄内藩以外の商人に売り渡す者がおった場合は必ず届け出るようにとのご指示である。
そしてまた船積みして領外へ物資を持ちだすことや他領へ売り払うことなどに対して手助けや斡旋行為を行う者については必ずや罰を加えるとの命令である。
このことをよくよくわきまえてお上のご指示に背く事の無きよう各村々の人々へ洩れなく徹底願いたい。 
以上のお上のご指示に従わぬ者がおる場合は遅滞なく届け出ること。

以上、指示するので、本書を早急に所定の経路にて回付され最終の組から当方へ戻してもらいたい。
    6月8日   茂兵衛

 温海組大庄屋吉兵衛から配下の村々(肝煎)に宛てた添状

別紙の2つの書状に示される通り、決められた品々を船積みによる領外持出し、並びに庄内藩以外の商人に売り渡すことへの斡旋などについては絶対にはやってはいけないことである、・・・ということを各村々においては全村民に洩れなく厳重に伝えること。

本書については早急に村々を回付し最終の村より当方へ返却願いたい。
     6月12日  温海組大庄屋 本間吉兵衛

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< 素人なりに考察してみましょう >

●1; この当時、陸運による物流組織も応分に発達していたようではあるが街道は道が狭いうえに雨に弱くしかも峠に阻まれ大量流通を賄うには十分といえなかったのでしょう。
纏まった荷物を陸運に頼ろうとすればコストが嵩むので結局は安価に大量流通が可能な船に頼ったものと思われます。
しかも、庄内藩の領内には北前船の一大拠点たる酒田港があるし、加茂や鼠ヶ関にも北前船が活発に出入りしています。
ということは、酒田の豪商本間家に限らず交易にかかわる目ざとい商人が沢山存在していたことでしょうし、領外の商人も多数出入りしていたものと思われます。

●2; 幕末のこの時期、庄内藩では蝋(ろう)、漆(うるし)、銭、銅、鉄、鉛、菜種油、ごま油、油粕、小糠を領外に船積して持ち出すことを停止する措置が取られていたようです。
恐らくは、横浜開港による経済行為の激変から諸物価が高騰したため資本力のある商人が地方で安く物資を買い集めた上で高く売れるところに持ち出し始めたことからこれを阻止しようとしたのでしょう。

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                  蝋 (ろう)


●3; しかしながら「停止」などという緩い措置では全く効き目がなかったものと思われます。
近年に至り急速に大量にヤミ物資として持ち出され領内での生活にも支障を来すほどにになったとあります。

●4; 藩庁からの今回のお達しでは、領外流出を停止している指定の物資を直接買い上げて船荷で持ち出す商人に限らず、これらの物資を庄内藩以外の商人に売り渡す者、および物資流出の斡旋・支援を行うものも罰する、・・・ということです。

●5; この結果がどうなったのか??   それを示す記述がこの御用留には記載されていないのでわかりませんが、”水は高きところから低きところに流れる”の原理に当てはめるならば・・・・・。

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                   漆 ( うるし )











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[蕨野村鶴岡市山五十川)につたわる御用留]元治元年(6月)23 番目のお達し
                      < 1864年 >

 将軍家茂公、京より還御。    但し、江戸出入りの規制は当面継続の由。


将軍家茂公が1月に京へ上られることになり、この時留守になる江戸への出入りについて規制を強化する旨のお達しが出されました。 (当ブログ 3 番参照)
5月に上洛の用件を済まされた将軍は江戸にもどられましたが、1月に発布したお達しの内容( 江戸への出入りを規制 )については当面継続するとのお触れです。
幕府の権威が相当に失墜し江戸の治安維持に多少不安があったのかもしれませんね。

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                            ( 将軍  家茂公 )


< 御用留 本文 >


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     大目付江
御上洛相済
還御被遊候得共先達而相達候諸国
関所幷江戸出口宿々其外番
所等ニおいて印鑑を以改請候儀
追而相達候迄都而
御留守中之通可被相心得候
右之通向々江不洩様可被相觸候
     五 月

右之通従
公義被 仰出候間可被得其意候以上
    六月十三日
  

< 現代文にチャレンジ >

      大目付へ
将軍家茂公が上洛の用件を済まし
江戸へ戻られたが、江戸を出立した1月に通達した 「全国
の関所ならびに江戸の出口にあたる宿場、その他の番所
などにおいて旅人が所定の印鑑を押印した身元確認の書面を保持しているかどうかの確認を行う件」
については、追って通知するまでは将軍が江戸を留守にしていた時と同様の措置を継続するので承知されたい。
以上の内容を各方面へ洩れなく伝達すること。
      5 月

以上のとおり公儀(幕府)より通達があったので承知されたい。
      6月13日

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             ( 番 所 跡 )


< 素人なりに考察してみましょう >

 朝廷が、兵庫(神戸)開港を決めた老中2名を幕府の意向に関係なく処分しためこれに抗議すべく14代将軍徳川家茂公が文久4年(1864年)1月に2度目の上洛を行いました。

この時、将軍が不在となる江戸市中に身元のはっきりしない反幕府勢力の侵入を恐れたためであろうか、各藩・幕府領の代官所、寺社等々の公的機関が予め関所に届け出ている印鑑を押印した身元証明の文書を持たない者は江戸市中への出入りを禁ずる旨お達しが出されました。
もしも、このお達しに違反して旅を行い、関所などで検問に逢った際抵抗するようなことがあれば容赦なく斬り殺しても構わない、とする厳しい内容でありました。

この内容については、当ブログ3番に記載してありますので参照願います。


 そして、今回のお達しは、約半年前(1月)、将軍家茂公が上洛するに際し発っせられたお達しの規制(上述)を将軍が5月に戻ったけれども当面はそのまま継続して運用する、ということを下々に伝える事を目的に発せられたもの。

 元治元年のこの年、3月には水戸で天狗党の乱、即ち藤田小四郎らが筑波山で挙兵し、6月には新選組による池田屋事件が起きています。
尊王攘夷の動きは益々激しさを増し天下の情勢は荒れ模様になってきました。

 このお達しの流れ
このお達しは ① 先ずは老中から大名を統制する大目付に発っせられ ⇒ ② 大目付から庄内藩江戸詰めへ ⇒ ③ 庄内藩江戸詰めから国元へ ⇒ 庄内藩庁(郡奉行所或いは代官)から温海組大庄屋へ ⇒ 温海組大庄屋から蕨野村(肝煎)へ・・・・と伝達されました。

老中から発せられた文面が各段階で書き写されて最終的には東北の山村迄届けられたことになります。
この当時の情報伝達の有りようが分って面白いですね。




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[蕨野村(鶴岡市山五十川)につたわる御用留]元治元年(6月)22番目のお達し
                                                             <1864年>

蝦夷地永住を命ぜられた足軽小頭にお嫁さんの手当てを・・・・。      急いで探すように村方へご指示です。                                     当初は、村々を廻ってお嫁さん探しをする計画だったようだが・・

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幕府から蝦夷地警備を命ぜられ、加えて周辺に広大な領地が与えられました。  これにより庄内藩の本領内では庶民クラスにもいろいろな形で影響が出てまいりました。

侍たちは一定の期限が来れば本領の庄内に戻れたのかもしれませんが足軽や一般庶民は未開の蝦夷地で永住することを前提に領内で募集されたようです。
移住の対象者はおそらくは主として二・三男を中心にしたのかもしれませんが単身赴任では当然のことながら跡を継ぐ子供が生まれないわけで、これでは早晩領国経営が行き詰ります。
移住者全員にお嫁さんの手当てができたかどうかはわかりませんが、このお達しでは急遽赴任する足軽小頭のお嫁さんを急いで探す事を目的にしたもののようです。

年初からいろいろな職人達が若干の優遇措置を受けつつやはり永住ということで狩り出されています。

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< 御用留 本文 >

 金右衛門(山浜通担当代官)から温海組大庄屋吉兵衛に宛てた書状

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先日申達候蝦夷地永住御足軽小頭廻村の義
役所ゟ役人江達し状為持遣し候義少シ指障候
次第も相見候間今度八組評義之上及沙汰
別紙之通被仰付候間此間申達候村々江五六日中
其先方ゟ右小頭廻村有之筈と申義相達置
可被申候此段申達候早々順達可被致候以上
   六月五日         金右衛門
吉兵衛殿


 組で協議した結果、各大庄屋に向けた指示書(上記文書で別紙と称す文書)

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書面之趣申聞候儀尤之筋有之既ニ廻村不致相済候様
申上候得共取急此義ニ義有之廻村不致候而者所縁之者尓
取調向所々差図候義御拝頭立候次第も有之廻村之
義於蝦夷地被御聞置候上先無余義次第ニ有之趣意柄
ハ永住御足軽獨身ニ而者不締之次第ニ有之候間妻女為
取迎替等為致候ハハ相続方之一助ニ茂可被成御趣意
有之縁談之儀者如何ニ相対熟談之上一通村役
人江申談候筈ニ付組々役所ゟ達状不都合ニ候ハハ申立之
村々役人共江五六日中大庄屋元ゟ為心得沙汰
廻り相成居候様宜御沙汰可有之事


< 御用留 本文 >

● 金右衛門(山浜通担当代官)から温海組大庄屋へ宛てたお達し

先日れんらくした「蝦夷地に永住する足軽小頭が各村々をまわる件」、当足軽組頭に役所からの通達を持たせ派遣するついて、
役所から村役人大庄屋役所から役人に書状を持たせ派遣することについては、多少具合の悪いことが生じてきました。
このため8組で協議した結果別紙のとおり指示をまとめました。
先日各村々へ通達した5・6日中に先方より足軽小頭が廻村する予定とした件について配下の村々へ通知願いたい。
以上の通り通知するので各組へ回付願います
    6月5日         金右衛門
 吉兵衛殿

● 組で協議した結果、大庄屋に向けた指示書

書面の内容を聞いたところその通りと理解されるので、「村々を廻らずして用件は済みました」 と既に申し上げております。
しかしながら、急ぐべき課題は残っており、廻村しないとしても関係者に取り調ることについてところどころ指図すべくお目に掛かることを要請することもありましょう。
廻村の件については、蝦夷地で聞き置かれるのはやむを得ないことではあるにせよ本件の趣旨は
蝦夷地に永住する足軽が独身ではお役が務まらないので妻を迎えさせるなど ”家として相続”できるようにするための一助、ということであります。
従って、本件の趣旨である縁組について、どのような形であっても構わないのでみんなで熟談しその結果を村役人に提言することになっております。
各組それぞれにおいて大庄屋役所からの書面による指示では具合が悪いと申し立てる村役人があるならば5・6日中に大庄屋の方から出向いて指示する、・・・・と配下の村々へ指示すること。


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< 考察してみましょう >

私の力量ではこの文書の文脈をつかみきれません。
ですから 現代文へのチャレンジもこれで良いのかどうか全く自信がもてません。
そうした中にあっての以下の考察です。

●1  ここでの文書の趣旨は、蝦夷地に赴任する足軽小頭に領内でお嫁さんをお世話するようにとの藩庁からの指示に対しどのような手段でそれに応えるか、ということではないかと思われます。

●2;  当初は蝦夷地赴任の足軽小頭が直接嫁さん探しに領内の村々を廻ることになっており、この事を大庄屋役所の役人が事前に配下の村々へ書面を持って回って村役人へ説明することになっていたのでしょう。

●3;  しかしながら、この当初の予定に不都合が生じたようです。
この不都合というのは当該の足軽小頭が何かの理由で蝦夷地に向かわなければならず領内の村々を廻ることができなくなった、ということかと・・・。
そのため、足軽小頭の村廻りなしに本件(嫁探し)を済まさなければならなくなったようです。

●4; 庄内藩は蝦夷地警備を命ぜられこのため本領の何倍も広い領地を蝦夷地に与えられました。
こうしたことから蝦夷の新領地に赴任する足軽小頭は永住が前提となったのでしょう。 

●5; 農村部に年頃の若い女性がそれなりに居たことは当然でしょうが、得体のしれない蝦夷地行きとなるとどんな親御さんも尻込みしたのではなかろうか・・・・??

●6; 農作業で忙しい中、村役人も大変ですよね





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[実俣村(鶴岡市山五十川)に伝わる御用留]元治元年(4~5月)21番目のお達し
                    (1864年)

幕末期、日本は物価高騰に悩まされます。       幕府は物価引下げのお達しを出すものの・・・。


今の日本政府と日銀は ” 庶民を助けるために物価を上げる” といってお金をジャブジャブ流しているが、どうした訳か何年たっても物価は上がりません。

幕末期の幕府は ”庶民を助けるために物価を下げる” と努力するが物価はたちまち高騰してしまいます。

今の日本政府・日銀と徳川幕府とどちらが庶民の味方なのだろうか??   ”どっこいどっこい” という評価なら今の日本の行政力は徳川幕府と同等レベルということなのかもね。
ん~、残念ながら進歩せず・・・ということか???


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< 御用留 本文 >

 老中(?)から大目付に宛てた書状

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      大目付江
物価之義ニ付而者前々度々之御世話も有之
候得共追々引上ケ近年別而庶民難渋候ニ付弥々
御心配被為在候処今般旗章劭(たかく)茂厚く被仰出候
趣茂有之候間此上者急度御趣意ニ貫キ候様
被為遊度就而者追々御所置可有之条末々
之者とも一己之利潤ニ迷ひ庶民之難渋をも
不顧不埒之所業於有之者急度可處料もの也
   五月
右之趣御判私料寺社領共不洩様可相觸候


 幕府(大目付)からのお達しを受けて庄内藩が家中に通達した文書

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右之趣従
公義被 仰出候付御趣意急度相心得
郷方より売出し候品々者ハ勿論商人共仕入売買
之品共都而價ひ引下ケ候様可致候 若心得違之
もの於有之ハ急度可申付候尤追々尚及沙汰
候品茂可有之候
右之通郷方江早々可被申達候


 庄内藩山浜通担当の代官から温海組大庄屋本間吉兵衛に宛てた文書

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別紙写之通諸品高直ニ付諸人難渋之所弥々
御心配被為在候ニ付郷方ゟ出品者勿論都而売買
致し候売人共之品もの直段引下ケ候様之御趣
意能々奉恐察心得違等躰無之様可致旨
村々江不洩様可被申達候 此段申達候以上
   六月五日           金右衛門
 吉兵衛殿


< 現代文にチャレンジ >

 老中(?)から大目付に宛てた書状

      大目付へ
物価のことについては以前から度々抑制措置をとってきたが時を経るに従い徐々に上昇し、近年は庶民に多大なる負担を与える程になってきた。
幕府としてこうした事態を放置することができなくなってきたので今般物価引下げの高い目標を掲げこれを完遂する強い決意をもって対策にあたる方針である。
この通達を各所に配布し、下々の者達が目先の利益に捕らわれ庶民を苦しめるなど道理にかなわないことをした場合は必ずや罰せられる、・・ということを周知すること。
     5 月
本件、幕府領・各藩領・寺社領 全て洩れなくお触れ達すること。


 幕府(大目付)からのお達しを受けて庄内藩が家中に通達した文書

別紙、公儀(幕府)から届いた書状の趣旨を十分に理解され、領内の村々から売り出す品は勿論のこと商人達が仕入れ或いは売買する品物など全てについて価格を引き下げるようにすること。
もし、この趣旨をはき違えている者がいる場合は必ずや公儀の指示を守るよう伝えること。
今後、状況に応じ具体的な品名をもって然るべき指示をすることもあるであろう。

以上の内容を各村々へ伝達すること。


 庄内藩山浜通担当の代官から温海組大庄屋本間吉兵衛に宛てた文書

別紙(写し)の通り、諸々の品物の値段が高くなり人々が困る事態となったことに対し公儀(幕府)の方でも大変心配して下さっている。
・・・なので、村々から売りに出す品々は勿論のこと、商人が取り扱う品々についても全て値段を下げるように、との公儀の指示についてその趣旨の重要性を認識されこれに反する行為をしないようにと各村々へ洩れなく周知すること。 以上 通達する。
     6月5日           金右衛門
  吉兵衛殿


< 素人なりに考察してみましょう >

 幕末期の物価高騰について

江戸時代の物価は紆余曲折ありながらも幕府の政策がうまく機能したのであろうか長期間安定していたようです。
これがペリー来航を契機に開国して以降は次第に物価が上昇に転じ特に文久元年以降はこれが顕著になってきます。
こうした中、元治元年(1864年)5月の幕府による上記文書によれば数度にわたって物価引下げの指令を出していたと記述しています。
しかしながら、中々効果があがらなかったのでしょう。 今回また全国に物価引下げの指示をすることになり、東北の小さな山村にもこの文書が届きました。

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理不尽な値決めを行ったものは罰すると言っているが、どこからどこまでが理不尽なのかを判別するのは難しいし、関係する者がみんなで少しづつ引き上げたなら誰が悪人なのか見極めることは困難と思われます。
元号が元治の後の慶応になると(1866年以降)物価は更に爆発的に上昇していきます。
それまでまあまあ機能していた幕府の物価政策が国際化に起因する経済変動という新たな事態に対処できなくなってきたんでしょうね。
こうした行政上のつまづきも要因のひとつになって程なくして幕府が倒れることにつながったのかもしれません。

それにしても、幕府の物価引下げ策はただ ”下げろ” というだけであり、これを受けた庄内藩も当局が認めた文書内容をみると大変だといいながらそれほどの緊迫感が感じられません。
為政者側に物価抑制の効果的な手段がなかったためか非常に歯切れが悪いですよね。

これを引き合いに現代の日本政府・日銀の物価政策を鑑みるに過去5年間の実績からみるともう能力限界なのかもしれません。
もうそろそろ別の方々にお任せするタイミングのようにも思うのだが日銀総裁再任が決まりました。
この先どんなことになるのだろうか。 
ただただ、クラッシュしないことを祈るのみ・・・・・。

初心者の古文書 ; 一緒に楽しみませんか
 
[蕨野村(鶴岡市山五十川)に伝わる御用留]元治元年(5月)20番目のお達し
                    (1864年)

 毎年、皐月(さつき)になると1年間の手間賃を決めます。


これは庄内藩からのお達しということではなく村の中での決め事です。

諸々の農事について他人に作業を頼む場合の協定手間賃なのですが毎年皐月(5月)の初めに当年度分を決めることが慣例になっていたようです。
雪が消えて農作業が本格化する直前に時節の物価(米価)を基準に毎年改定していたものと思われます。

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< 御用留 本文 >

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   皐月定之覚
一、 五月八日之農立    但 仕抹次第ニ植付
                  段々致へく事
一、 手間の儀者白米弐升銭払へ之儀ハ
    百八十文  但 此節壱升九拾文位之事
一、 賄之儀者何成共宥来者寨付之事
一、 小苗打手間半払ひ之事
一、 こひ草刈手間  弐百文    男
              百七拾文   女
    但 かき放し  参百文  男   弐百五拾文 女
一、 畑払ひ  田之草取   百八拾文  男
                   百五拾文  女
一、           かき放シ  弐百八拾文  男
                     弐百五十文  女
  右之通相定申候
    子五月一日 夕


< 現代文にチャレンジ >

”皐月(さつき)”の定めについて
 
1、5月8日を今年度の農作業を始める「農立て」とする。
   準備でき次第 田植え作業を始めること。
1、皐月の手伝い作業を頼んだ場合の手間は米2升とする。
   お金で払う場合は180文とするが、これは最近の米1升の値段が
   90文位であるため。
1、この部分は・・・・
  「食事についてはどんなものでも良いので手助けに来てくれているのだ
   からおかず付きにすること」
              ・・・とでもいうのでしょうか???
1、小苗打ちの手間賃は所定の金額の半額とする  
1、こい草刈りの手間賃は男の場合は200文、女の場合は170文
   かき放しの手間賃は男が300文、 女が250文
1、畑払いと田の草取りの手間賃は、 男 180文  女 150文
   かき放しの手間賃は、 男 280文   女 250文

  以上、今年度の協定価格を定める
    元治元年5月1日 夕


< 考察してみましょう >
   
●1  毎年農作業が本格化する直前の5月の初めに当年度の農事の頼み事に対する手間賃を決めるのが慣例だったようです。
その基本となる考え方は・・・
    「 基準額 =  男姓 1日分の手間賃 = 白米2升 」 
    「 お金で支払う場合は・・・・ 当年度の米価で置き換える 」
    「 元治元年の米価 = 白米1升 約90文 」
従って・・・・
    元治元年の基準協定手間賃は 成人男子1日当たり 180文
・・・・ということになるようです。

●2  58日が農作業を本格的に開始する”農立て”ということですが、実俣村&蕨野村では具体的にどんな行事をやったのであろうか??
全く分かりません。
そして、農立てが終わったら順次田植え作業を始めるように・・・・と、”定め書き”の第1項に記されています。

●3  賄云々の部分は読めない字もあってどのように解釈してよいのか残念ながら自信がありません。  どなたかご教示頂けると助かります。

●4  小苗打ちとは、田植えを行う人に畔から苗を投げて補給してあげる仕事のことと思います。
もし、そうだとすると、これは主として女か子供が従事するような仕事だったので手間賃は基本となる額の半額とされたのではないかと思われます。

●5 「こい草」とは何だろうか??  肥草ということなのだろうか?? もしも、肥やしにするための草刈りであって男性の場合 200文、 女性で170文というのであれば通常の手間賃より若干高めに設定されていたということか???

この ”こい草刈り” の項に 「但し、かき放し・・・・」とあって、男が300文、女が250文とかなり高めの手間賃が設定されています。
高度の技能を要すのか、あるいは労働がきついのか何れかなのであろうが、”かき放し”とは具体的にどんな作業をさすのか分かりません。

●6 次の項にある「田の草取り」は分かりますが、「畑払い」というのはどんな作業なのだろうか?
この2つの作業の手間賃は 男 180文、 女150文ということなので普通の作業とみなされていたのでしょう。
畑払いというのは焼き畑のための草刈りのことdろうか?
ところで、この項にも ”かき放し” とあって 男280文、 女250文とあります。
”かき放し” とは一体全体何なんなんでしょう・・・。
重労働なのか高技術を要することなのか、ともかく”普通”を超えた作業なのでしょう。


●7  米価と手間賃について
元治元年の白米が1升が約90文であったと記載されています。
この当時の1文が現在価値で約5円であったそうであるから白米1升が90文なので450円くらいであったことになります。
これは、他の資料等と対比してもそう違和感のある水準ではないと思います。

しかしながら、手間賃をみると男性が1日働いて基準ベースで 180文、すなわち約900円ということになります。 これは如何にも安すぎはしないだろうか。
農作業の繁忙期には他人の手を借りないと人手が足りないため互助的な農作業ということでこのような料金設定にしたものかもしれませんね??

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