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[蕨野村(鶴岡市山五十川)に伝わる御用留] 元治元年(9月)29番目のお達し
(1864年)
禁門の変を起こした長州を征伐するとのことで幕府から庄内藩にも軍事動員の命令が下りました。 このため軍隊を下支えする1000名もの郷夫(人夫・人足)を江戸に登らせることになり領内の各村々へ,勿論私達の村にも人員が割り当てられました。
禁門の変で御所に向け大砲を放った長州に対し朝敵としてこれを罰するべく征討軍が編成されることになり我が庄内藩にも軍役の命令が下りました。
戦は武士の仕事ではあるが、上級武士の身の廻りの雑事、食料・弾薬・等々の運搬、陣地の構築等には農民から徴募されたる多くの郷夫(人夫)が不可欠です。
幕府からの動員命令を受け取り急ぎ500名を江戸に登らせますが、更に600名を早急に送って欲しいと庄内藩の江戸詰めからと推察されるが緊急の飛脚が到着しました。
領内全てから各村々の石高に応じて早急に人選しなければなりません。
温海組には追加分として17人が割り当てられ私達の実俣村・蕨野村には各1名ということのようです。

< 古文書本分 >
● 3名連名で発せられた庄内藩庁からのお達し

覚
残高郷夫五拾四人山濱通當
同 温海組當り
右者江戸在勤御家中嫡子次三男江御貸
付郷夫其外者持郷夫當月七日江戸表へ為
御登相成候付壮強之者相撰當月六日迄
御郡方役所へ罷出候様可被申達候此段申達候
以上
五月四日 三宅養介
石井守右衛門
春山半内
本間吉兵衛殿
他連名略ス
猶々早々順達留ゟ可被相返候以上
● 温海組大庄屋吉兵衛から配下の村々(肝煎)に宛てた書状

急廻状を以申達候今般
御進發御用ニ付是迄近間ゟ急速
為御登之郷夫五百人足らす有之候上
猶又六百人足らす急為御登之御飛脚
到着〆千人足らす之郷夫八組惣高割
被仰達組當り別紙之通御達ニ付兼々百
石弐人之御達相成居候残高當り壮強
之者別紙村々當り之通役人共同道
明後六日迄御郡方へ可被罷出候其節
代屋家等江も立寄面付年付名前
等可被差出候
一. 右郷夫専ら高當り御割達ニ付他組
雇等決而相成不申候被下米金等兼々
御沙汰申上候得共未御達も無之候間山
濱組々取極ニハ是迄為登相成候ノ分
一年給金拾五両ツツ内手擬為取候趣ニ付
村々不同無之様尤右金子ハ同道の役人
用意出立之節不残相渡候様可被致候
尤是ニ限候事ニも無之趣ニ聞江申候間
給金の儀山濱不同不相成様相心得出人
早々取極可被罷出候是迄雇中組々之
難渋ハっ面談ニ可為申聞候
右甚火急之御達ニ付飛脚を以申達候
間恐々取急順達留ゟ明後日出町
之節代家ニ而可被相返候以上
九月四日 吉兵衛
早朝出ス
肝煎衆中
猶々本文他組と申ハ櫛引京田通之事也
山濱内なれハ不苦候事

一. 郷夫拾七人 温海組當り
〇 弐人 小波渡村 〇 弐人 堅苔沢村
〇 弐人 五十川村 〇 壱人 蕨野村
〇 壱人 実俣村 〇 壱人 戸沢村
〇 壱人 温海村 〇 壱人 湯村
給得村ニ付書面之通
〇 壱人 一霞村 〇 三人 大岩川村
〇 弐人 小岩川村
右之通
子九月

< 現代文にチャレンジ >
● 三名連名で発せられた庄内藩庁(郡奉行?)からのお達し
残りの郷夫 54人 山浜通りの分
同 温海組の分を含む
右に示す郷夫は江戸で勤務する御家中(上級の武士)の嫡男・次男・三男に
従者として貸し付けられる分、そしてまた弾薬・食料などの荷役にあたる分であるが、今月7日に江戸へ出発する。
ついては、壮強の者を選任し6日までに御郡方役所へ出頭されたい。
以上のとおり命ずる。
5月4日 三宅養介
石井守右衛門
春山半内
温海組大庄屋 本間吉兵衛殿
( 他連名省略 )
追伸 ; 早急に本書を所定のルートで組々(大庄屋)を回付し最終の組から当方へ返却すること。
● 温海組大庄屋本間吉兵衛が配下の村々(肝煎)に宛てた添状
至急扱いで廻状により指示する。
今般の幕命による出兵に際し先ずはできるところから急いで500人の郷夫(人夫)を江戸に登らせたが、なお又600人を急いで登らせて欲しいと(庄内藩江戸詰めから)飛脚が到着した。
元々1000名の郷夫を8組(領内全ての意)全てを対象に石高に応じて徴募するようにとの指示であって各組あたりの割り当て人数は別紙の通り前々から示しているように村高100石につき2名である。
各組共、石高割の徴募人員に対し残となる人数について屈強なる者を別紙村々あたり人数リストに基づき選任し村役人同道にて明後日6日迄御郡方へ出頭すること。
その時に当該の郷夫は代家に立ち寄り本人確認の上、名前・年齢等を指し出すこと。
1. 右の郷夫は各村々の石高に応じて出すべきもので他の組から雇い入れるようなことをしてはならない。
郷夫に下されるお米・お金については以前からその水準について示すよう要請しているがいまだ連絡が無いので山浜通りに属する組々での取り決めとしては初めに江戸へ登った郷夫については1年の給金として各人に15両を内金(手当)として支給する。
従って、各村々はこの取り決めに従って対応すること。
なお、このお金は御郡方まで郷夫に同行する村役人が用意し、郷夫が江戸に出立する時に全額を渡して頂きたい。
また、郷夫への給金は内金として渡した額でおしまいということではないと聞いているので山浜通りから派遣する者各人への支給額が違った額にならぬようにして、ともあれ派遣する郷夫を早急に決めて御郡方へ出頭してもらいたい。
これまでの各組々における郷夫選任の難しさについては面談して説明します。
以上、大変急ぎの通達なので特別に飛脚を仕立てて連絡します。
誠に恐れ入りますが至急村々所定のルートで本書を回付し最終にあたる肝煎りから鶴岡の町にでた際、代家にて返却されたい。
九月四日 早朝に出す 吉兵衛
肝煎りの皆様方へ
(我々が属する)山浜通りの村々は該当しません。
● 郷 夫 17人 ・・・・・ 温海組分 (後半江戸派遣分)
< 内訳 >
小波渡村 2名 堅苔沢村 2人
五十川村 2名 蕨野村 1名
実俣村 1名 戸沢村 1名
温海村 1名 湯村 1名
一霞村 1名 大岩川村 3名
小岩川村 2名
元治元年(1864年)9月
< 素人なりに考察してみましょう >

●1; 長州は京都での政変に敗れ攘夷派の公家7名と共に前年の8月に都落ちしたが、この復権を目指し再び京へ軍を進め御所付近で激戦を繰り広げたのが禁門の変(蛤御門の変)。
大砲を打ち合うほどの戦いに 結局、長州は会津を中心とする幕府勢力に敗退します。 そして、逃走時に京の都に火を放ち3万戸余りが焼失、3日3晩にわたり燃え続けたそうです。
この長州の仕業に対しけじめをつけるべく長州征伐の幕府軍が編成され庄内藩にも軍役が課せられました。
長州征伐の為に庄内藩から派遣された武士身分の者は、必要とされた郷夫の数から逆算して1000名前後と推測され、これは全藩士の約4割くらいにあたります。 既に、江戸市中取締りとして相当数派遣されているので本拠である庄内に残された武士は老人と子供ばかり、といった状態にあったかもしれませんね。
●2; 幕末の歴史書は多数発行され今もブームであるが庶民の生活目線からみたものは殆ど見当たらない。
長州征伐の主役も全ては武士階級であり庶民は殆ど登場してこないが、動員された人数からすれば武士身分の者とほぼ同数か或いはそれ以上が庶民階級の出であったことがこの御用留から推察されます。
即ち、一軍を編成するためには戦いを直接行う戦闘員としての武士身分(足軽階級を含む)と同程度か或いはそれ以上の軍を下支えする郷夫を必要としたことが分かります。
郷夫は非戦闘員扱いなのであろうが旗差しなどその役目によっては戦闘地域に直接立ち入って働かなければならない者も多かったでしょうから命にかかわる危険な仕事であったことは容易に想像できます。
●3. この御用留によれば藩庁から発せられた文書の日付が9月4日付、命令を受けた大庄屋吉兵衛が配下の村々(肝煎)に郷夫の動員命令を伝えたのも9月4日。
しかも吉兵衛が発した書状には「早朝に出す」との記載があります。
藩庁から発した文書は4日以前に作成しないとファクスも電子メールも存在しない時代にこんなに早く伝達できるとは思えないのだが‥‥。
広い領地の各方面に早馬でも飛ばしたのだろうか???
ともかく17名の郷夫を緊急に選任し2日後の9月6日には鶴岡の御郡方役所(庄内藩の村支配役所)へ出頭させよ、・・・というとんでもなく緊迫した命令です。
●4; 郷夫の仕事は、このお達しでは ① 御家中といいますから上級武士の嫡男・次男・三男の従者として働くこと ② 食料・弾薬・その他諸々の荷役にあたること・・・とされています。
●5; 郷夫の徴用は小物成と称す納税の一環であり村高100石につき2名を差し出すようにとの命令です。
このブログでは省略するが、各村々がその石高に応じて負担すべき郷夫の人員を定めるにあたりことのほか公平な配分に腐心しています。
というのも、お上からはいろいろな理由をつけては臨時に過重な徴税が為されるため農民側は負担にあえぎ苦しんでおり、その結果村々の間では不公平さに極めて敏感にならざるを得なかったのでしょう。
どの村も余裕がありませんから本当に細かい計算をして村あたりの郷夫の負担配分を決めています。
そしてまた、郷夫に支払う給金についても同様に村々の負担額を実に細かく算定しているのです。
歴史書・小説などの世界では一般的に戦場に駆り出された雑兵(郷夫)について十把一絡げに荒っぽく取り扱われています。まるで物を取り扱うように。
これは物事の大要を語る上においてやむを得ないこととは認めるけれども、しかしながら雑兵といえど個々人が尊厳に満ちた一人の立派な人間であることにもう少し配慮してもらっても悪くはないのではないでしょうか。
このお達しに示されるように郷夫個人・個人が我々の直接の先祖でありまたその親戚のひとりであった、ということを忘れてもらっては合点がいきません。
僅か、5代くらい前のことなので寺に行けば過去帳に書き記されている個人名さえも特定できる可能性もありますから私達にとっては甚だ身近な距離感にあるのです。
●6; 次に各村々の中では割り当てられた人数の郷夫をどのようにして人選したのだろうか?
命に係わる仕事であればかなりのもの好きでなければ手を挙げる者はいない筈。 そうなれば、派遣する郷夫にはお金を支払うことを条件に人選を進めることになりましょう。
それでも応募する者がいなければ村の中で納税する能力の無い者(水飲みと称す土地を持たない農民か、少ししか田畑を持たない農民など)に白羽の矢がたてられる、・・・なんてことになるのではないか??・・・。
・・・と考えると極貧家庭の若者がやむを得ず徴用される、ということは自然の流れであったのではないか??・・・と推察されます。
郷夫選びの苦労はどの村においても一緒だったのでしょう。
結局は徴用に応じる郷夫に対し高額の給金支払を条件に出てもらおう、・・というシナリオで解決させたかに見受けられます。
郷夫への給金は、藩庁の政策を受けて各組(村々)の上部組織(通および郷単位)でその水準を定めたようだが、何れにしても基本的には小物成(税)ですからそのお金の準備は各村々がそれぞれの責任で行うことになります。
即ち最終的には保有資産に応じて村内の全戸で負担する、ということになりますよね。
言ってみれば、郷夫の派遣費用は全て村方の領民の負担で賄われ藩庁から給金が出た訳ではありません。
温海組が属する行政組織たる山浜通りでは給金の水準、各村々の負担割合などを合議したがあまりにも急なことであり郷夫出立日までに確定させることができなかったため、先ずは内金として15両を郷夫が江戸へ出発する日に村役人から本人に全額を手渡すように、と指示を出しています。
●7; 郷夫を他の組(村)から調達することを禁止する、と敢えて断り書きが加えられています。
誰もが嫌がる仕事なので金で解決しようと考える村があったとしても不思議ではありませんが、小物成(税金)としての徴用なので趣旨に反することは禁ずるということなのでしょう。
頭数が集まればそれでOKというわけではなさそうです。
●8; 御郡方へは村役人(肝煎或いは添役)が江戸にたつ郷夫に同伴出頭するように指示され、加えて 郷夫が ”代家” に立ち寄り本人確認を行い名前・年齢を登録するように指示されています。
●9; 御用留にはこれまでも ”代家” の記述があり、何のことか意味不明であったが本項の記述から推測するにおそらくは村方にかかわる共同の事務・会合等を行う施設であったように推察されます。
規模や構造は全く分からないがご城下(鶴岡)にそれなりの施設が設けられこの運営費は領内各村々が石高の見合いで負担していたものと思われます。
●10; 話は飛躍するが・・・・・
蕨野村(現鶴岡市山五十川南部地区)における第2次世界大戦での戦死者は約20名ほど。 お寺の石碑に全員のお名前が刻まれておりお盆には皆が手を合わせます。
家数70~80戸の小さな山村ですから3~4軒に1軒くらいの割合で戦死者が出たことになります。
余りにも酷い犠牲と言わざるを得ません。
時の政府や軍部は同じ日本人である兵を単なる消耗品としか考えていなかったのだろうか??
戦争するにはそれなりの重大な論理性と勝算があったのであろうけれども
下々の一兵卒には「ただ従うべし!!何も語るな!!」・・・ということでは余りにも悲しい。
江戸時代は武士階級が農民階級を強圧的に押さえつける専制政治で暗い時代であったといわれることがあるけれども御用留の記述からは農民の気持ちや要望を尊重する藩庁の思いやりが随所にみられ、庶民にとっては幕末の動乱期といえど戦前の昭和の時代よりはある意味良き時代だったのかもしれません。








































