投稿日が前後してしまった。始まったばかりなのに挫折してしまいそうだった。ブログを書くのは夜だがいざ書こうと思うと物凄い睡魔に襲われたこの3日間であった。満月だったからなのか。赤みを帯びた大きな月。バイト先でもミスを連発し大将にまでそれが伝染し肩身が狭かった。

 

タイトルは好きに感じて好きに表現とあるが、私の表現は今のところ書くこと。でも白紙の前で固まってしまう人もいると思う。書く習慣がそもそもなかったり少なかったりしたら緊張するよね。書けるときも自分の本当の気持ちを隠して、周囲がどう思うかを先読みし流されて書いてはいないだろうか。わたしもそれが全くない、とは言えない。書くことを『身構えて』しまったら何も書けなくなってしまう。

 

表現の歴史は小学校低学年から。いたずら書きに毛の生えた程度のイラスト?漫画?から始まった。休み時間書いていると『欲しい』という子たちに書いては渡していた。それが小学校高学年に思春期に差し掛かると詩に替わった。詩はさすがにこっそり書いた。無意識に中庸のバランスをとったのか高校時代は反動で完全な体育会系に転向した。朝練でおなかをすかせて3限目の休み時間に早弁し昼食をお替りし、日焼けも恐れず放課後日が暮れるまでボールを追いかけた。お陰さまで15歳までうちに閉じこもる性格が外向きになった。そして、同時にこんにちの還暦近くに至るまで内なる声を外に出すことを封印してきた。

 

『学生時代にもっと勉強すればよかった』という人がまれにいるが、それはちょっと違うと思う。今学ばないことを言い訳にしているようにしか聞こえないと思うのは上から目線になるだろうか?正直、学校で教えてもらったことは毒にも薬にもならずどうでもいいことのように思えた。その証拠に社会に出てからも、話の足しになることも思い出すこともなく、忘却の彼方へ旅立った。若い私は、書くためには積極的に自己形成をしなければならないと考えていた。本で創られた空想と妄想の世界で頭でっかちだったから、もっと生身の人間と接してその中で得る感情をすべて経験したいと願ってその通りにしてきた。1㎞走も走れなかった自分が体育会系になるとは考えられなかったし、中年になってから住み慣れた場所や地縁から飛び出すとも想像していなかった。でも、その時々に湧いた好奇心と直感に従い生きていたら今の私になっただけ。

 

だから私にとっての学びとはストレートに心に衝動がおきるもの。外への鎧や自慢にする『知識』ではなく、内に蓄え自助する『知恵』でありながら豊かに考えを膨らませていけるもの。学びは習得すれば一生役立つばかりではなく、いつでも何歳からでもスタートし磨いていける。だからカフェで自分の子供に『今、学校でちゃんと勉強しないとあんな風に大人になっても勉強しないといけなくなるよ』といった話を聴いた時、知識で武装したこの言葉の発信者に育てられた子供が、いつかきちんと分別をもって自分の親を乗り越える日を願わずにはいられなかった。

 

私という肉体でいろいろ経験できるのはあと20年くらいだろうか。そう考えると早く実行しないといけないことが次々に待機していることを意識する。新しい学びの前では、謙虚で生まれたての雛のように目をキラキラさせている。そんなときは内面も外見も若々しく生き生きしているとサミュエル・ウルマン卿が詩に残していた。毎日は無理かもしれないけど時々は休んでいいかもしれないけど、朝起きて『いけそう』と思う日はインスピレーションを働かせて過ごしてみよう。