母は膝が曲がり辛く、段差が苦手だった。

そのため母は、父と一緒の時は父のパンツのポケットを、私が一緒の時は私の腕を掴んで歩いていた。

父はポケットが伸びるから嫌だと言うと、母は笑いながら言った。

あんた達は私の杖なんだからね
いつも側にいてくれないと困るのよ

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朝出勤してメールチェックすると、社内の最古参から

あなたの朝の挨拶が聞こえません
大きな声で挨拶すれば、あなたの人生も変わります

と言う内容のメールが届いた。

確かに挨拶は社会人の基本。事務所に入る時は挨拶しているつもりだったが、声が小さかったか。

しかし事務所に響き渡る程の大声もどうかと思うし、それより今の私には「大きな声で挨拶して人生変わるのなら、母の病気を治してくれよ」と思ってしまう。

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午前11時には自分の仕事が終わり、お昼休みまで時間を持て余す。

仕事でペアを組んでいるお局は忙しそうだ。仕事も仕事に必要な情報も独占され「仕事を振ってくれ」と頼んでも「間に合っている」と断られる。最近ではアホらしくなって、聞くのも止めてしまった。

仕事がないので、周囲との係わりもない。電話もメールも来ない。一言も喋らず終業時間を迎える日もある。

会社から必要な人材と思われる様、努力もしたつもりだった。どこで方向を間違えたのだろうか。誰も教えてくれない。

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母は病院食を殆ど取れていないが、家族が持ち込んだ梨や歌舞伎揚げは良く食べる。

小さく切って口元まで運ぶと、ニコニコしながら

サンキュー

と何故か英語で礼を言う。

今日のお昼は、生クリームどら焼きを半分食べてしまった。毎朝飲んでいたコーヒーと共に、至福の時間を楽しんだ事だろう。

しかし最近は食べた後に咳き込む様になった。枕元に、誤嚥用の吸引器が下がっていた。

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今も昔も、母は私を必要としてくれる。

もしも母がいなくなったら、誰が私を必要としてくれるのだろうか。誰からも必要とされない人生なんて、生きている理由もない。