こんにちは。

以前から、
知り合いにも見せられるような、もう少しオープンでちゃんとした文章を書きたいな、というのと、

アメーバさんの運営の感じがあまり好きじゃないので、

少し前に、新しいところで書き始めました。



完全移籍ではなく(こっちに載せていたのも少し持っていきましたが)

こっちはこっちで今のところ残しているので、
また、こそこそと書きたくなったら、再開するかもしれません。


お引越し先はこちらです。
http://blog.livedoor.jp/mikeneko610/

今度は、みけねこさんになりました。笑


ここでかかわった、たくさんの方々、本当にありがとうございます。
なんだか本当に、恥ずかしいこと、大事なこと、うれしかったこと、たくさん詰まっています。


新しいところも、おひまなときにのぞいてみてくださいー。


ではでは。

最近、「片付け」にはまっている。

2つあった本棚が1つになった。

洋服も、大量に古着屋さんに連れて行った。
 

その際にとても参考になったのが、この本。




『服を買うなら、捨てなさい』



本の中で、特に役に立った考え方は次のようなもの。

一週間、むりして毎日違うコーデにして、

23日、微妙な恰好になるよりも
 週に23回、お気に入りの同じ着こなしをして、
 毎日素敵な自分でいた方がずっといい。



・雑誌に載っている「ベーシックアイテム」が、


あなたにとっての定番になるとは限らない



・あなたの得意分野の服を着ればいい。それはスタイルがあるということ

 スカート派の人が無理して慣れないパンツを履いてダサくなるより、好きで得意なスカートを極めればいい


いかに自分が、せっせとタンスの肥やしを増やしていたかがわかった。

ユニクロなんかに行くと、

つい、安くて、なんとなく着られそうで、

コーディネートの幅を広げてくれるかもしれない…的な服を
1000
円札一枚だして「やったーお得」と買ってしまったりする。

で、しばらくタンスの中にいれておくと、

そいつがじーっと見つめてくるので、

せっかく買ったのだし、と一応袖を通すのだけれど

なんか、形も色もしっくりこない。ちょっとダサい。


いや、でもめっちゃ「シンプルでベーシック」だし。そんなに外してないはずだし。

外に出ると、

いや、やっぱこれ、

なんか、ちゃう。

私、今、弱い。

戦闘力めっちゃ弱い。スカウターで測ったら5ぐらい。

というように、

微妙だな、と思っている服を着ていると

気持ちまで、しゅわゅわ、へたへたしてきたりする。

服は、着る人に気力を与えたり奪ったりする。


服って、なんだ。





最近読んでいた本の中で気になるお話があった。


『健全な肉体に狂気は宿る』という


元大学教授で武道家の内田樹さんと精神科医の春日武彦さんの対談本。



「外見で人を判断しよう」という項目の中の、内田さんの発言を以下に引用。




「たぶん洋服というのは、その人の一番弱い部分とか感受性のやわなところが外部に露出しているところなんでしょうね。粘膜みたいに。きっと。だから、(服装を否定されると)すごく傷つきやすいんだ。


 よく「服装は名刺代わり」と言いますが、名刺どころじゃない、ある意味「恥部」なんでしょうね。だから、「人を見た目で判断するな」というのはまったく無意味な言葉であって、見た目こそが最良の判断材料になるんです。」



また、精神科医の春日さんは、患者の服装についてこんなことを言っている。


「(妙な服を着てくる患者について)説明するのは難しいんだけど、でも、病室に入ってきたとたん、もう直感的にわかるというか、見当がつくような感じなんですね。「あっ、これはやばい」とかね。


 理屈で考えれば何もおかしいことはないはずなんだけど、例えば「全身コーディネートしました」って言っても、そこまで全部同じ色に統一しちゃったらおかしいだろう、とか、結果的には、何かが過剰だったり欠落していたりする、その落差が不自然なんでしょうね。」





この対談本を読んでから、


 洋服というのは、その人なりの、世界との交信の仕方なんではないかと思った。


 その人なりの内面の期待や恥じらいや自信や諦めのごっちゃになったなにかが、


その人の身体の外に、洋服として結晶化するんじゃないか。




 だから、人の服装に違和感を抱くとき、


 それは、その人の世界との関わり方(狭い範囲では、自分との関わり方)に関して、


 何らかの違和感を、洋服も込みで抱いている状況なのかなー、と。





『服を買うなら捨てなさい』の中で、著者の地曳いく子さんは


ワードローブは、ワンパターンで偏りがあっていい。


それがあなたの「スタイル」であり、得意分野である、と述べている。



服を捨てて捨てて、最後に残る服たちが、


自分の中からずぶずぶっと出てくるなにものかと


自分の職場やプライベートでの環境との折り合いが取れた精鋭たちであって、


着ていると、なんとなく上手く生きられる服なんだと思う。


心強い相棒を求めて、今日も服を仕分けする。

 2時間弱、戦争や政治や歴史の話を聞きながら、
なぜか私はお腹を抱えて笑い、たぶん、子どものように目を輝かせていた。

内田樹、平川克美 の対談イベント「ボクたちの積極的平和主義」に参加してきた。
(筆者は、内田樹のファンであり、イベントに関するレビューというより、「内田樹に関するレビュー」になることをお断りしておく)

少年時代からの友人である彼らの息はぴったりで、リラックスしたムードの中、
政治のギリギリな裏話や、独特な歴史の解釈、ユーモアに満ちた政権批判などが繰り広げられ、

 会場内は、静かな活気と笑いに満ちていた。

2時間で語られた内容を要約する術もスペースもないので、
印象に残った「イタリア」についての話を、アバウトにここにまとめる。
(注:文字起こしをしたわけではなく、おぼろげな記憶と印象をつなげて書いています)
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第二次世界大戦ではさ、フランスよりも、イタリアのほうが、
自分たちが戦勝国だって言う権利があるんだよ。

フランスで、対独従属をしていたヴィシー政権は正統な政府で、
レジスタンスをしていたド・ゴールの自由フランスは何の実権もない団体だったのに、
戦況でドイツが不利になったら、みんなレジスタンスのほうに回って、
自由フランスのほうを正統な政府だってことにして、連合国側に滑り込んだんだよね。

イタリアのほうがさ、政治的実権のある政府がレジスタンスをしていたし、
日本が敗ける少し前に、日本に宣戦布告までしていたんだよ。笑

だから僕がイタリア人だったら、「俺たちは負けていない!」って怒るんだけど、
イタリア人は怒らないんだよね。負けちゃった、あはっ♪て感じで。
イタリアが国連の常任理事国のほうが、世界はもうちょっと面白いと思うんだけどね。笑

イタリア人はさ、先祖が立派すぎるでしょ。ローマ帝国だもん。
だから、ご先祖様と比べたら俺たちなんて……って、いつもちょっと自信なさげなんだよね。

あと、この前、イタリア人の友人に、
イタリアって最後に日本に宣戦布告したよねって言ったら、あはっ♪って笑ってた。
ちゃんと、知ってはいるんだよね。笑
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とまあ、こんな感じのお話し。

 去年刊行された『街場の戦争論』にも同じような話は書いてあったけれど、
雑談も加わった彼の「話し言葉」で聞くと、面白さは倍増した。

内田樹は、講演や対談の場には、ほとんど話すことを決めずに向かうという。
自分が知っていること、決めてきたことをそのまま口に出すだけだと、
何も新しいことが起こらないし、自分も飽きてしまうし、聴衆にも響かないから。
その場で生まれ、紡がれていく考えにこそ、話者本人が驚き、わくわくとし、
その「気」のようなものが会場に広がることが大切なのだそうだ。

今回の対談でもプロットはほとんどなく(一応、平川氏が用意していたのだけれど)、
話はどんどん脈絡なく転がっていく。

彼は、対談相手が何を語るのか、どんな話が聞けるのか、
それを聞いて自分はどんなことを思いつくのか、
 話がどこに流れていくのかに、本当に興味津々だった。

自分の次の発言を考えるために相手の言葉を消費するのではなく、
前のめりになって「聞きたい!聞きたい!」という姿勢は、まるで少年のようでもあった。
そのせいか、60歳過ぎの学者が戦争の話をしているというのに、どことなく「男子トーク」のような雰囲気が醸し出されていた。

あの場を1番楽しめていたのは、聴衆ではなく、内田樹本人だったように思う。

自分にはわからない単語や話題も多く、
まだ私の知らない概念を使いながら楽しそうに語る彼らを見ていると、
ずるい!私ももっと知りたい、わかりたい、楽しみたい!
という学習欲が自分の中から湧き上がってきた。
活力のある生きた学びは、自然に波及するのだと感じた。
(彼が教鞭を取っていた神戸女学院大学の学生さんたちが羨ましい……)

その人が笑っているだけで、周囲が嬉しくなってしまうような人がいる。
私にとって、内田樹はその一人だ。


生の内田樹の話を聞くのは久しぶりで、参加する前に、実は少し気が重いところがあった。

ここ数年で、内田樹はあまりにも有名になり、本は飛ぶように売れ、年に数十冊の本を刊行し、
彼の発言は権威を帯び始めた。

 武道家でもあり、独自の身体論によってさまざまな社会現象をぶったぎっていく姿が
(そこが魅力なのだけれど)、少し、教祖様のようになってしまった気がしていた。

また、私はごく狭い範囲でツイッターをしていて、内田樹や、内田樹と親交の深い執筆家の方たちをフォローしていたのだけれど、
安保法案やオリンピックの競技場問題で、一時期、
タイムラインが政治に対する批判や怒号で埋め尽くされた。
ひたすら続く批判に心が疲弊していき、私はツイッターをやめてしまった。

そんな経緯があり、今回、内田樹の話を聞けるのが楽しみでもあり、少し不安でもあった。政権批判の話を聞いて、暗く、怒りに満ちた気持ちにあまりなりたくなかった。

しかし、そんな心配は不要だった。
確かに、政治的な分析、体制への批判もあったけれど、
怒りや絶望が渦巻き、深刻になるような場面はほとんどなかった。

時にまじめに、時にユーモアを交えながら、
軽薄なわけではなく、でも必要以上に重たくならず、
場はずっと、明るくて強い気で満ちていた。

彼は、権威に塗り固められ、自説に固執した教祖様なんかとは程遠く、
その場で生成する、知ること、話すこと、考えることに夢中な、
少年のようなおじさんだった。

来てよかった、と心から思った。
彼の書く文章だけでは、彼がどんな気持ちや態度でそれを書いたのかわからなかったから。

日本の未来は暗いかもしれないし、シビアな状況を分析し、辛辣な批判をする場面も多々生じる。

でも、そのことを書く人が、常に怒りに満ち、悲しみに沈んでいるわけではなかったし、
読み手である私たちも、それを読んで、不安に溺れ、ただ未来を嘆く必要もなかった。

彼の中にはもっと、
生産性のある活力、しょうがない現状を笑う余裕、
必要以上に悲観的にならない冷静さがあった。

書き言葉と話し言葉。
同じことを述べていても、伝わり方は大きく違う。


生の内田樹は、彼の書く文章以上に内田樹だった。
彼の人柄は彼の文章そのままだし、彼の語る言葉や発する空気は、
書き言葉以上に彼そのものだった。


自分の好きな文章を書く人は、どんな声で、どんなトーンで、どんな表情で言葉をつむぐのか。どんな場を形成するのか。

執筆家の話し言葉は、
彼の文章から発するイメージと彼本人が発するオーラとの間の一致やズレが、
いつも新鮮で面白い。

これからも私はときどき、生の声を聞きに足を運びたい。
文章(書き言葉)は大好きだけれど、ときどき固くなりすぎて、
風通しが悪く、息苦しくなってしまうことがあるから。

自分が発する生の声や、それが周りにどんなふうに伝わるのかも、
たまに立ち止まって見つめてみたい。