昨日は我が家のピトチが洗礼を受けた。洗礼はクリスチャンとしての第一歩だ。
ピトチは1年生の頃にはすでにイエスさまを受け入れていた。
なので本人の意思さえあればいつでも洗礼を受けてもいい状態だったのだが、親が勧めてよりも自分の意志で洗礼を受ける決心をして欲しかったので、特に強く勧めた事はなかった。
その頃は「う~ん、まだいいかなぁ?」って答えだったので。
夏の始め、8月28日に洗礼式があることを知り、何気なくピトチに「今度洗礼式があるみたいだよ。ピトチもいつか受けるんだよね?」って聞いたら、「そうだねぇ~。そろそろ受けようかなぁ~。」って答えた。
その後で「でもオレ、心配なんだよねぇ~。」と言った。
やっぱりまだ確信まではいってないのかと思い、「別に急がなくてもいいよ。」って言ったら、「あれさ、水に入る時に鼻つまんでいいの?鼻つまんだらかっこ悪いかなぁ?」とピントはずれなことを言っていた・・・。でも自分が洗礼をする時の具体的なイメージを持っていたのね。ピトチなりに。
でもピトチが洗礼を受けるにあたり、一つ大きなハードルがあった。
それが証し。どうやって自分がイエスさまと出会い、イエスさまを人生の主をしてを受け入れる決心をしたのか、洗礼を受ける前に会衆の前で証しするのだが・・・。
ピトチは作文や発表って大の苦手。前回洗礼を勧められた時も「証しの作文を書かなきゃいけない。」と言われたらしく、その時は断ったらしかった。
私的には救いの確信がしっかりあれば、洗礼の時期には特にこだわりはなかったんだけどね。
だってピトチはピトチなりに、結構しっかりと信仰生活を送っていたから。
学校で登り棒が登れなければ祈って登る。そして「祈ったら登れた!」と言って喜んで帰って来る。
「生活科の町探検でお寺の見学をしたくないから必死に祈ったら、一番行きたかったけど諦めていた駅の見学が当たった!」と言って喜んで帰って来る。
ゲーセンでメダルゲームをする時すら、一枚一枚メダルを投入する度に祈る始末。
でもこの祈りは必ず答えられる訳じゃないんだけどね。そんなことになったら、たちまちピトチはギャンブラーだよ。でもメダルを全部スッった後も「イエスさまは祈りを聞いてくれなかった!」って怒るのではなく、「やっぱ自分の都合がいいようになる祈りは聞かれないねぇ~。」と言っている。
ピトチの信仰は本当に生活に密着している。毎日何かしら証しを持って帰って来る。
それをそのままみんなの前で言えばいいのになぁ~と思うけど、なかなか言えないんだよね。
そんなこんなで、洗礼式の10日前にカウンセリングを受けた。
カウンセリング後、副牧師の先生に「どうでした?」って聞いたら、「ピトチはイエスさまが大好きで、自分の罪のためにイエスさまが十字架にかかったことも信じてます。天国に行ける確信もあります。」って言ってくださった。
「じゃあ、もういつでも洗礼が受けられるよ。」と先生が言ったらピトチは少し渋ったらしく、その妨げになっているものを聞いたら、やはり証しの作文だったそうだ。そんなに嫌かねぇ?
「そんなに嫌なら、証しはしなくてもいいよ。」と先生は言ってくださった。
大事なのは証しをするという行為ではなく、ピトチとイエスさまの関係だからという理由で。
確かにそうだよね。
でも親としては洗礼を受けるに至った気持ちを聞きたくはあった。
でもごり押しをしてピトチの心がかたくなになってもいけないし・・・。
家に帰って、何気に「ピトチはどうして洗礼を受けようと思ったの?」って聞いた。
そしたらピトチは「う~ん。イエスさまとず~っと一緒に居たかったからかな?」と答えた。
そうか、イエスさまとず~っと一緒に居たかったんだ。ならもう大丈夫だね。
ピトチにはピトチのイエスさまとの関係がある。自分でそれがしっかり分かっているんだから、親がこれ以上とやかく言う筋合いもないし。
私も子どもの頃、あまり母親に信仰のことについてあれこれ言われたりしなかったな。
母曰く「自分の信仰で天国に入るのよ。親がクリスチャンだからって、親の信仰をあてにしちゃだめよ。」うちの母親結構クール。この言葉を聞いて、自分の信仰について考えるようになったのよ。
当日の私は結構淡々としていた。
子どもの洗礼は親としてはとても嬉しいけどさ、あくまでも長い信仰生活の出発点だからね。
ピトチと一緒に洗礼を受ける人たちはみんな証しをした。
それぞれ大変な中を通ってイエスさまと出会い、救いを受けて、今は困難な中にあっても喜びを持って生活している。
他の人の救いの証しを聞くと、いつもちょっと心が痛む。
私はいつイエスさまと出会ったのか、憶えていない。ずっとイエスさまがいて当たり前の人生だったから、「もしかしたら私は救いの本当の喜びって、よく分かっていないのかも。」と思う時がある。
その反面、大変な中を通った(今も通っている)人の話を聞くと、いつも守られていた自分がなんとなく悪いことをしたような後ろめたい気持ちになる時もある。人それぞれの人生があって、自分の幸せが直接他の人を不幸にしている訳じゃないのにね。
でもイエスさまを知らなかった故に人々が辛い中を通っているのなら、クリスチャンとしての責任があるから、これからも伝道していかなきゃいけないよね。
ピトチも物心付いた時にはすでにイエスさまのことも、聖書のことも、そのまま受け入れていた。
神さまがいて当たり前という環境だったから、洗礼もすごく特別って感じではなかったのかも。
自然な形で受けられるって感謝なことだと思う。
洗礼漕に入ったら、ピトチはまだ小さいからほとんど見えなかったけど、お祈りの後水から引き上げられたピトチの濡れた顔は、生まれたばかりの羊水に濡れた赤ちゃんだった頃の顔と同じだった。本当に新生って感じ。見た目は全然変わっていないけど、ピトチの内側の古い人が死んで、新しい人が生まれたのよね。洗礼式っていいよね。
その後父親であるさっきーがピトチの洗礼の感謝と祝福のために祈った。
お父さんに祝福のお祈りをしてもらえるピトチは本当に幸せだよね。
洗礼式よりもその祈りに感動したかも・・・。
ピトチはこれからどんな人生を歩んでいくのかな?
何をするにも、イエスさまと一緒に歩む人生を送って行ってほしいな。
そうそう、洗礼後「ピトチ、結局鼻つまんだの?」って聞いたら、「すぐだったからつままなくても大丈夫だった!練習したし!」と得意げに言っていた。
洗礼式の前の日、お風呂で「我、父と、子と、聖霊の・・・・」って言いながらお湯の中に入って洗礼の練習(?)をしていたらしい・・・。
(今日のブログ、長っ!)
ピトチは1年生の頃にはすでにイエスさまを受け入れていた。
なので本人の意思さえあればいつでも洗礼を受けてもいい状態だったのだが、親が勧めてよりも自分の意志で洗礼を受ける決心をして欲しかったので、特に強く勧めた事はなかった。
その頃は「う~ん、まだいいかなぁ?」って答えだったので。
夏の始め、8月28日に洗礼式があることを知り、何気なくピトチに「今度洗礼式があるみたいだよ。ピトチもいつか受けるんだよね?」って聞いたら、「そうだねぇ~。そろそろ受けようかなぁ~。」って答えた。
その後で「でもオレ、心配なんだよねぇ~。」と言った。
やっぱりまだ確信まではいってないのかと思い、「別に急がなくてもいいよ。」って言ったら、「あれさ、水に入る時に鼻つまんでいいの?鼻つまんだらかっこ悪いかなぁ?」とピントはずれなことを言っていた・・・。でも自分が洗礼をする時の具体的なイメージを持っていたのね。ピトチなりに。
でもピトチが洗礼を受けるにあたり、一つ大きなハードルがあった。
それが証し。どうやって自分がイエスさまと出会い、イエスさまを人生の主をしてを受け入れる決心をしたのか、洗礼を受ける前に会衆の前で証しするのだが・・・。
ピトチは作文や発表って大の苦手。前回洗礼を勧められた時も「証しの作文を書かなきゃいけない。」と言われたらしく、その時は断ったらしかった。
私的には救いの確信がしっかりあれば、洗礼の時期には特にこだわりはなかったんだけどね。
だってピトチはピトチなりに、結構しっかりと信仰生活を送っていたから。
学校で登り棒が登れなければ祈って登る。そして「祈ったら登れた!」と言って喜んで帰って来る。
「生活科の町探検でお寺の見学をしたくないから必死に祈ったら、一番行きたかったけど諦めていた駅の見学が当たった!」と言って喜んで帰って来る。
ゲーセンでメダルゲームをする時すら、一枚一枚メダルを投入する度に祈る始末。
でもこの祈りは必ず答えられる訳じゃないんだけどね。そんなことになったら、たちまちピトチはギャンブラーだよ。でもメダルを全部スッった後も「イエスさまは祈りを聞いてくれなかった!」って怒るのではなく、「やっぱ自分の都合がいいようになる祈りは聞かれないねぇ~。」と言っている。
ピトチの信仰は本当に生活に密着している。毎日何かしら証しを持って帰って来る。
それをそのままみんなの前で言えばいいのになぁ~と思うけど、なかなか言えないんだよね。
そんなこんなで、洗礼式の10日前にカウンセリングを受けた。
カウンセリング後、副牧師の先生に「どうでした?」って聞いたら、「ピトチはイエスさまが大好きで、自分の罪のためにイエスさまが十字架にかかったことも信じてます。天国に行ける確信もあります。」って言ってくださった。
「じゃあ、もういつでも洗礼が受けられるよ。」と先生が言ったらピトチは少し渋ったらしく、その妨げになっているものを聞いたら、やはり証しの作文だったそうだ。そんなに嫌かねぇ?
「そんなに嫌なら、証しはしなくてもいいよ。」と先生は言ってくださった。
大事なのは証しをするという行為ではなく、ピトチとイエスさまの関係だからという理由で。
確かにそうだよね。
でも親としては洗礼を受けるに至った気持ちを聞きたくはあった。
でもごり押しをしてピトチの心がかたくなになってもいけないし・・・。
家に帰って、何気に「ピトチはどうして洗礼を受けようと思ったの?」って聞いた。
そしたらピトチは「う~ん。イエスさまとず~っと一緒に居たかったからかな?」と答えた。
そうか、イエスさまとず~っと一緒に居たかったんだ。ならもう大丈夫だね。
ピトチにはピトチのイエスさまとの関係がある。自分でそれがしっかり分かっているんだから、親がこれ以上とやかく言う筋合いもないし。
私も子どもの頃、あまり母親に信仰のことについてあれこれ言われたりしなかったな。
母曰く「自分の信仰で天国に入るのよ。親がクリスチャンだからって、親の信仰をあてにしちゃだめよ。」うちの母親結構クール。この言葉を聞いて、自分の信仰について考えるようになったのよ。
当日の私は結構淡々としていた。
子どもの洗礼は親としてはとても嬉しいけどさ、あくまでも長い信仰生活の出発点だからね。
ピトチと一緒に洗礼を受ける人たちはみんな証しをした。
それぞれ大変な中を通ってイエスさまと出会い、救いを受けて、今は困難な中にあっても喜びを持って生活している。
他の人の救いの証しを聞くと、いつもちょっと心が痛む。
私はいつイエスさまと出会ったのか、憶えていない。ずっとイエスさまがいて当たり前の人生だったから、「もしかしたら私は救いの本当の喜びって、よく分かっていないのかも。」と思う時がある。
その反面、大変な中を通った(今も通っている)人の話を聞くと、いつも守られていた自分がなんとなく悪いことをしたような後ろめたい気持ちになる時もある。人それぞれの人生があって、自分の幸せが直接他の人を不幸にしている訳じゃないのにね。
でもイエスさまを知らなかった故に人々が辛い中を通っているのなら、クリスチャンとしての責任があるから、これからも伝道していかなきゃいけないよね。
ピトチも物心付いた時にはすでにイエスさまのことも、聖書のことも、そのまま受け入れていた。
神さまがいて当たり前という環境だったから、洗礼もすごく特別って感じではなかったのかも。
自然な形で受けられるって感謝なことだと思う。
洗礼漕に入ったら、ピトチはまだ小さいからほとんど見えなかったけど、お祈りの後水から引き上げられたピトチの濡れた顔は、生まれたばかりの羊水に濡れた赤ちゃんだった頃の顔と同じだった。本当に新生って感じ。見た目は全然変わっていないけど、ピトチの内側の古い人が死んで、新しい人が生まれたのよね。洗礼式っていいよね。
その後父親であるさっきーがピトチの洗礼の感謝と祝福のために祈った。
お父さんに祝福のお祈りをしてもらえるピトチは本当に幸せだよね。
洗礼式よりもその祈りに感動したかも・・・。
ピトチはこれからどんな人生を歩んでいくのかな?
何をするにも、イエスさまと一緒に歩む人生を送って行ってほしいな。
そうそう、洗礼後「ピトチ、結局鼻つまんだの?」って聞いたら、「すぐだったからつままなくても大丈夫だった!練習したし!」と得意げに言っていた。
洗礼式の前の日、お風呂で「我、父と、子と、聖霊の・・・・」って言いながらお湯の中に入って洗礼の練習(?)をしていたらしい・・・。
(今日のブログ、長っ!)