東京にも雪が降りましたが、この辺りは特に積もっていません。


昔から気になる事ができると、調べずにはいられないという性分で、あの本この本と読み漁り、ネットでも検索してノートにまとめていきます。

何日間かそのことが頭から離れず、没頭しますが、ひと通り済むと終了です。


昔、父にはそれは君の欠点だと言われました。確かに、知識欲や教養として求めているのではなく、ただ知りたいだけ、気になるからというだけで、それ以上深めようとしないところもあるからです。

昔は、ネットが使えなかったので、とにかく本屋と図書館から本を調達して、母から、またこんなに本を買って…とぶつぶつ言われました。三日坊主なのにと。


確かに身に付いていません。ですので

ひとつの事に、真摯に向き合って極めて行く人には、本当に感動します。


祈るという事にしても、形から始めようとしていた時期がありました。

他人は、一体どのようにして祈りを習得し深めるのだろうという事が、やはり気になって仕方なかったからです。


祈るという行為は、幼い頃から習慣としてありました。

キリスト教ではなく、実家は仏教ですが。

お仏壇の部屋にある、大きなお仏壇に朝、お水とご飯を供えるのは、いつからかわたくしの役目になりました。

お供えして鐘を鳴らして手を合わせる。

戴き物があると、先ずはお仏壇に供えて、チ~ンと鐘を鳴らして手を合わせる。出掛ける時にもチ~ンと鳴らして手を合わせることが習慣となっていました。


今は十字架のしるしをすることと、教会の祈りやロザリオの祈り等を唱えるときに、イエス様の御像と聖母のイコンの前で手を合わせています。



一昨年、念祷を30分してくださいと言われて、とにかく念祷。と思って続けています。

これが本当に最初は苦行でした。

正直今でもまだ難しいです。


それこそ、他人はどのようにして深めていくのかと知りたかったです。

でも、なかなか聞くことがはばかられ、そうなると、本とネットです。



アビラの聖テレジアは14年。

「神の現存の体験」の著者ラウレンシオ修士は10年と書いています。
そのような方たちでさえ、それだけの年月を必要とされたのです。

我が身を振り返りますと、恥ずかしくなります。
マザー・テレサは、「祈りは苦痛をもたらすためにあるのではありません。」と書いておられます。
でも、自分はまだそこまでの境地にはなれていません。
念祷を終えた時に、清々しい気持ちになる時はありますが稀です。

祈りに関しては、習得する方法とか、頭で理解してからとかではないんですよね。本当に簡単ではありません。
沈黙が良いのか、お友だちのように会話をすれば良いのか。それさえも分かりません。

ご本を読み勉強になった神父様とお話しする機会が得られた時に、祈りについてお伺いしましたら、自由にすれば良い。無理にしなくても良いでしょう。と言われました。わたくしの質問の仕方が悪かったのかもしれませんが、ご本からの印象とは随分違うものだと思いました。

神を待ち望む気持ちや、神、信仰に求めるものは、人それぞれであると思います。

ただわたくしにとって信仰を深めることは、祈りを深めることなのだという気がします。
諦めず、淡々と続けていくしかありません。

わたくしの願いはただひとつ。
静かに祈りの日々を続けてゆきたいです。


こんなわたくしのために、祈っていただけたら、とても嬉しいです。
わたくしも、あなたのために祈ります。