小説家の西村賢太がタクシーの中で気分が悪くなり、運ばれた病院で2月5日に死亡してから、もう3カ月になろうとしている。54歳だった。大ショックを受けたが、考えてみれば、西村賢太の小説を読んだことがなかった。


西村賢太

読んだつもりになっていただけだ。読んでみようと芥川賞受賞作「苦役列車」の中古単行本をAmazonで買って、読んだ。

まあ「平成私小説」と言われる通りで、父親が性犯罪で逮捕・服役した過去を引き摺る中卒の19歳北町貫太が肉体労働をして生活している様子を淡々と書いた小説だ。400字詰め原稿用紙で200枚ぐらいの中編。さらにこの単行本にはその北町貫太が作家になった20年後を描いた「落ちぶれて袖に涙のふりかかる」という50枚ぐらいの短編も収録されている。

なんと言うのか、こういう複雑な過去を持った人間が赤裸々に自分のことを語る私小説(ワタクシショウセツと読んで欲しいと生前西村は言っていた)というのは、今の時代には確かに珍しい。それも1日5500円の日給で働く社会の底辺を生きる人間が主人公だ。まあ人間の生態研究としては面白いが、小説としての完成度はもちろんフィクションとしての面白さはまるでない。これが芥川賞受賞というのは、かなり反対意見も多かったのではないだろうか。聞くところによると選考委員の石原慎太郎が強力に推していたらしい。

それと例えば、「苦役列車」の書き出しは「曩時北町貫太の一日は、」だが、今どき曩時(のうじ:昔の意味)なんて単語を使う作家がいるだろうか。

西村が尊敬する大正時代の私小説作家藤澤清造などが使っていた言葉だろう。この他にも「どうで」(どうせ、どっちにしろの昔風言い方)なども頻出するが、よく言えば独特の味わいが感じられるが、悪く言えばカッコつけの感じではある。


2作だけ読んだだけだが、たぶん西村賢太の小説は、かなりマンネリに陥っているはずである。人足仕事をするにせよ、売れない作家になっていたにせよ、私小説である限り、生活にさほど変化がない限り、新境地を開拓しない限り、マンネリズムにならざるを得ない。少なくとも、私はこの2作で十分だ。