昨日(3月20日土曜日)、新国立劇場でワーグナーの楽劇「ワルキューレ」を見た。コロナ禍で外国人歌手が来日できず、ヴォータン役(ミヒャエル・クプファー=ラデツキー)を除いてキャストは全て日本人。さらに当初予定の指揮者飯守泰次郎(80歳)が手術後で長時間の指揮に不安ありと辞退し、新国立劇場オペラ部門芸術監督の大野和士が第1〜4日、同劇場音楽チーフ城谷正博が第5日目を指揮。加えてジークムント役が第1幕は村上敏明、第2幕は秋谷直之で分担という不安だらけの上演。


正直あまり期待していなかったのだが、これがなかなか聞かせる演奏だった。


巷間、日本人の演奏家にとってもっとも縁遠い、向いていない演目がワーグナーの楽劇だと言われている。いわく、声量が足りない、スタミナがない、ドイツ語が今ひとつ等々。今回、これらの通説がいかに先入観による迷信かを思い知らされた。この「ワルキューレ」には、ジークリンデ(小林厚子)、ブリュンヒルデ(池田香織)、フリッカ(藤村実穂子)という重要な3人の女性歌手が登場するが、いずれも繊細な日本スタイルとでも言いたくなるような心地よい見事な歌唱で楽しませてくれたのだ。外人歌手のような分厚いワーグナーのオーケストレーションを突き抜けてくるようなド迫力には確かに欠けるが、こちらの細やかな歌唱の方が好みだという聴衆がいても不思議ではないのだ。少なくとも迫力不足という評価は全く当てはまらない。私は、2016年のこのプロダクションの新国立劇場初演(ゲッツ・フリードリヒ演出、飯守泰次郎指揮)の演奏(3人の歌手はウェーバー、ツィトコーワ、テオリン)も聞いているが、日本人を贔屓しているわけではなく、それぞれの良さがあると感じた。


ジークムントを第1幕、第2幕で分担したテノール2人も違和感はなかった。 1幕はまさに輝かしい高音のヘルデンテノール、2幕は中音部中心のロブストなテノールなので分担したのもスタミナの問題だけではなさそうだが、なかなか健闘。

ヴォータン役のラデツキーはさすがの貫禄。第2幕は恐妻家ぶりを好演。第3幕は娘との悲しい永遠の別れを熱演して泣かせた。


しかし、今回の公演のMVPは大野和士指揮東京交響楽団だろう。オーケストラのソーシャルディスタンス確保のために、アッバス版という縮小オーケストラ版を使用しているというが、フルオーケストラ版に比べて迫力不足を感じさせないし、筋肉質で透明度が高い演奏だった。早めのテンポで全く弛緩したところがない全てのフレーズに意味を感じさせる見事なオーケストラ演奏だった。毎度書くが、特にオーケストラを引っ張るオーボエの惚れ惚れするような演奏。東響、絶好調だ。公演4日目ということも関係しているのだろうか。


気になった点も指摘しておきたい。まず第1幕でフンディング(長谷川顯)が、猟銃を武器庫から持ち出す点。天下無双の名剣ノートゥングとかやっているのだから猟銃が出てきたら、ぶち壊しだと思うが。さらにフンディングはリモコンでジークムントがいる部屋の灯りを消すのだが、吹き出しそうになった。このフンディング一味のウエスタン調のファッションもかなり違和感があった。衣裳と言えば、第1幕ジークリンデの薄いブルーのシャツに茶色のベストというコーディネートは、やっぱりドイツ人はファッション音痴と言われかねない違和感が(笑)。さらにワルキューレたちのテコンドーのような衣裳もなんとかならないものか。

舞台はなかなかよく出来ているが、第1幕のジークムントとジークリンデが外を見やると冬が過ぎ去り春がやって来ていて驚くという感動的シーンの、全く冴えない春の訪れの背景もなんとかならないものか。


なお、18時9分にかなり強い揺れの地震(発表震度3)があった。もうちょっと強いと演奏が止まるのではないかというレベル。震度3強という感じではないか。第3幕の冒頭だったが、何もないかのように演奏は続けられた。指揮者の判断なのだろう。


いろいろあったが、満足できる公演だった。ワーグナーの楽劇は疲れるが、感動もやはり大きい。

3月23日火曜日14時から最終公演がある。