わたしは写真をやっているせいか、
「感覚認知」の学びの中でも
「光と色」の受容と認知に関する記述を

特に面白いなあ・・と感じています。

 

 

教科書の中に、
何気なく書かれてあった一文、

 

 

”われわれが光だと思って見ているものは、

光そのものではなく、
光が一度物体に反射した反射光である”

 

 

 

これには、地味に衝撃を受けました。おねがい

 

 

簡単に言い直すと、

 

 

「光そのものは光っていないし光らない」

 

 

ってことなのです。

 

 

 

私は・・・

「光」そのものとか、
「光」とイコールに見なされている人、
とにかく「光」を象徴する全対象に
ものすごく憧れがありました。

そうありたい、そうなってみたい、
あれたらいいのに・・と、
人知れず、理想とかけ離れた自分を抱いて

物陰でたくさん泣くことも多かった。

 

 

 

でも、その恋焦がれた「光」そのもの
「光っていない」し「光らない」って言うんです。

 

 

 

そもそも私たちが目にしている「色」と言うのは、
その物体が吸収できなかった「波長」が

外へと反射されたものだと言われています。

 

 

 

草や樹木の葉が「緑」に見えるのは、
それらが「緑」を吸収できずに
反射しているから。

 

 

だとしたら・・・

この世に生きている
私たち人間、

ひとりひとりはどうなんでしょう?

 

 

 

私たちが外へと反射しているものは
私たちが「吸収」しなかった
(「吸収」しないことを選んだ)
何某かと言うことになるのでしょうか?

 

 

 

そうだと仮定するなら、

 

 

裏を返せば、
「吸収」している「光」があるからこそ
「吸収」していない「光」もあるわけで
手に入れよう、そうなろうと、憧れるまでもなく
既に十分、「光」に満たされている状態だとも
言えるのではないでしょうか?

 

 

 

となると、今、この瞬間、
ひとりひとりが放っているモノと言うのは、
それが好ましかろうが、
そうでなかろうが、
「吸収」されなかった「波長=質」が
シンプルに反射されているだけのこと・・

となります。


 

 

だから、放つものが弱いとか、
自分は何も放っていないと嘆くのも
もしかするとちょっと違っていて、
あらゆる「波長」を「吸収」済みだからこその
「虚無感」や「穏かな平凡さ」

と言う可能性だってあるわけです。
 

 

 

ここまで頭の中に浮かんだナラティブを
たらたら書いてみましたが、

とどのつまり、

 

 

「光そのものは光らない」

「光って見えるものは、吸収しなかった波長(質)の反射」

 

 

と、淡々と受け取っておくだけで、
不確実な未来や、

再現不能な過去に

悔やんだり、焦りにくくなるのではないかな?

そんな風に思うのです。

 

 

 

 

とか言っちゃってる私は、
今、心理学実験実習Ⅰのレポートに
めっちゃ焦ってるんですけどね~笑い泣き笑い泣き笑い泣き

 

 

 

 

良い週末をドキドキ

 

 

 

 

 

今日も最後までお読みくださり
ありがとうございます。^^

さとうみゆき

 

 

 

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