私が人生初の持ち家(分譲マンション)を買ったのは59歳の時でした。
買った?
いや、やっと買えた、というほうが正しいです。
銀行や信用金庫に住宅ローンを求めては断られました。
どちらの融資担当者も等しく、私が持参した確定申告書の1か所を指さしながらこう告げました。
「ここです、この数字が。200万円以上無いと厳しいです」
それは収入欄ではなく、所得欄でした。
所得欄というのは諸経費を差し引いたあとの金額です。
つまり、所得税などの元となる数字です。
彼らはこうも告げました。
「つまり、税金をたっぷり払うこと(が、大事)ですね」
私はいわゆるフリーランス、個人事業者でした。
出版社で記者をしており、40代あたりから事件記者をしてきました。
収入は原稿料プラス多少の印税です。
せめて税金を軽くしたい、という思いはずっとありました。
それが裏目に出たようなものです。
長年に渡る賃貸暮らしはまだまだ続くのか。
そう思うしかありませんでした。
が、のちに手にした本に日本政策金融公庫という存在が小さく書かれていました。
これは何だろう?
問い合わせて、のち出向きました。
ここは私が出向いた銀行や信用金庫と対応が異なりました。
日本政策金融公庫は所得欄ではなく、収入欄を目を向けてくれたのです。心底、驚きました。
そして、融資が実行されたのです。
この日本政策金融公庫の存在によって、私は自力で人生初の築古マンションを購入できました。
この築古マンションの部屋は20平米にも満たない狭さで、10階建ての9階にありました。
狭いベランダの向こう側には、大きな道路を挟んでシティーホテルがあり、その一部屋上部分にチャペルがありました。
その広場からは、週末などになると新婚カップルを祝うたくさんの拍手や歓声が聞こえてきます。
もっとも、私が手にできたマンションの背後に回ると、非常階段の鉄サビがひどくペンキも剥げ落ちています。
廊下の照明も暗く、快適とは言えません。
それでもエレベーターに乗って自分の部屋まで行くという経験に、一種の陶酔感さえおぼえたものでした。
2人の子育ても終えて、一人で暮らす部屋でした。
その後、私は何度も持ち家(主に分譲マンション)を変えるようになります。
最大の理由は、面白かったからです。
必要な都度、日本政策金融公庫から借り入れました。
もっとも、日本政策金融公庫から借り入れる場合、持ち家の買い換えをその理由にはできません。
仕事に必要な事務所を購入したい、という理由付けが必要です。
その物件の半分以上を事務所で使用すると申告し、事務所に付帯する住まいの利用が認められるのです。
私自身、こうした仕組みを知るまでに遠回りしました。
今、思います。
世の中には、住宅ローンで審査落ちする人々がかなりいるはずです。
審査を受ける前に諦める人々もきっと大勢いる。
もしも、私も日本政策金融公庫の存在を知り得なかったら一生、賃借暮らしをしていたに違いありません。
そう思うと、知らない、という重みを残酷にさえ感じます。
さて、本題に向かいます。
私が南房総に移住するまでに3、4年の月日がかかりました。
事件記者という長年の仕事に飽き飽きし、別の仕事をやりたいという願望が芽生えた先に不動産業がありました。
事件記者の仕事を突き詰めれば、事件の深層に踏み込んで加害者と被害者のそれぞれの不幸を描くことです。
しかし、もっと社会で実務的な役割を担ってみたいと願ったのです。
事件記者は聞き込みや調査などをして事情をできる限り掘り下げ、執筆します。
それらの背後にあるのは交渉です。
事前の交渉が結果を決めることも少なくありません。
それら一連の作業は、じつは売主と買主の仲介役を務める不動産業と非常に似通うものがあります。
ここに着目し、不動産業を開業するために宅地建物取引士(国家資格)に挑戦。二度目で合格しました。
そして宅建業の免許を取得しました。
しかし、私の狙いはあくまでも空き家の再生です。
それが私が生きる道です。
当時、埼玉県の準イナカに暮らしていた私は最初、埼玉県の奥へ奥へと歩いて回りました。
やがて着目したのが秩父鉄道沿線にある皆野(みなの)駅です。
まずネット上の物件情報を見て気に入りました。
駅歩20分ほどの別荘地に建つ築30年の2LDKは姿がよく、窓辺にある木製の浴室も気に入りました。
売り出し価格は220万円。
しかし、現地に向かう上り坂の入り口で断念しました。
徒歩では、きつい。
きつ過ぎる。
建物までに、険しめの狭い道が待っています。
さらに、追い打ちをかけられたのは、秩父地方に熊がしばしば出没するというニュースでした。
秩父地方を断念し、私は「地域おこし協力隊」という存在を知ります。そして、応募しました。
南は九州の福岡県、北は茨城県まで。
空き家の再生を現地でやりたい、という願いからです。
しかし、すべて落選。
そのあと私はこう思います。
ただ、好きな場所に移住すればいいじゃないか
こうして向かった先は、千葉県の館山駅を挟んだ外房と内房でした。
館山駅に近い海岸は眺めもよく、元リゾート地としての雰囲気がありました。
しかし、過去を生きる町という印象もありました。
全部で10駅ほど歩きました。
外房は和田浦というクジラ捕鯨地まで、内房は上総湊の手前まで。それぞれの町の姿はおのずと異なります。
太平洋に面した外房は津波などの被害が内房よりも起きやすいようです。
また、交通の便も内房のほうが東京に近いです。
気持ちは内房に傾いていきます。
やがて不動産サイトで内房にあるJR富浦駅付近の物件を見つけました。
ここはJR館山駅から東京寄りに2駅先です。
売り出し価格100万円。
土地面積、約70坪。築古の平屋(約40平米)付きです。
富浦駅から徒歩10分、東京方面からの高速バスが停まる道の駅「とみうら枇杷倶楽部」にも徒歩10分で足りる立地です。
添付された物件写真を見ると建物内には残置物も多く、更地は草ボーボー。
ありがちな安物件ですが、交通の便のよさは強みです。
また、原岡海岸まで徒歩4、5分です。
のちに分かったことですが、この海岸には木製の原岡(岡本)桟橋が海に向かって真っすぐに伸びています。
この桟橋を目当てに若いカップルたちの姿をよく見かけました。
夕暮れどきになると、昔ながらの電球が点々と灯り、夕焼けの茜色と相まってノスタルジックな光景を映し出します。
よく晴れた日には、桟橋の先、つまり東京湾を越えて富士山を眺めることができるそうです。
そのルーツをたどると、100年あまり前(大正時代)に誕生したこの桟橋は漁業用施設として造られたそうです。
また、当時の海は「道」でもあり、漁獲した魚や人々を運ぶための「駅」の役割を担っていたのでしょう。
やがて昭和30年代を迎え、その役割を終えます。
しかし、取り壊されることなく、人気のロケ地になっていきました。
そしてSNS時代へとバトンをつないだようです。
こうしたロケーションの魅力の一方で、物件に面した道路(市道)幅は狭く2メートル弱です。
もっとも、車を運転しない私に不満はありません。
その昔タイプのデコボコの小石が見えるコンクリート造の細道には、味わいさえ感じられます。
ただし、トイレは簡易トイレでした。
古い和式(ボットン式)。
給湯器もなく、風呂場にいったん水を汲み入れたあと、プロパンガスで沸かす方式のようです。
さらに所有権上の弱点もありました。
売主(個人)の持ち分割合は15分の13だというのです。
つまり全部の所有者ではありません。
そのため、この物件に興味を持っても、所有権の問題を理由に撤退する買主候補がいたことをのちに知ります。
しかし、私は思いました。
この物件、かなりイケるんじゃないか?
ただし・・・
いくらなら買うのか。
