大除霊
深見東州先生の本の中でも何度も繰り返して読みたいもののベストワンがこれ、「大除霊」です。
本文から少し紹介してみたいと思います。
「先祖供養は適度にすべし」
除霊と関係のある先祖供養について述べてみよう。
世の中には先祖供養に熱心な人が多く、私もしばしば、
『先生、正しい先祖供養をするには、どうしたらいいのでしょうか』という質問を受ける。こんなとき、私は次のように答えることにしている。
『自分の直系のお父さんやおじいさん、それからお母さんに対してだけ、だいたい三十年間供養すれば、もうそれで十分です。三十年間の供養といっても、毎日毎日やるのではなく、一周忌、三周忌、七周忌、十三周忌、十七周忌、二十三周忌、二十七周忌、三十三周忌の周忌供養を、ひとりについて計八回為し、さらにお盆の供養をすれば、もうそれで十分です。お彼岸も、祖霊の総合供養のみで結構』
そういうと、
『ええっ!そんな程度でいいんですか?』
という声が飛んできそうだが、それで十分なのである。
そもそも、一口に先祖といっても、その数は三人や四人ではすまない。それこそ星の数ほどもいらっしゃるのだ。十代さかのぼれば約千人、二十代で約十万人、三十代では百万人にもなるといわれているのである。その中には、地獄に堕ちている先祖霊も相当数いることだろう。
これらの先祖をいちいち供養していたら、いったい、どうなるか。それこそ、一生涯先祖供養だけで終わってしまうだろう。それだけではない。ひたすら供養ばかりしていた人は死後、供養を仕事とする霊たちの集まる霊界へ行ってしまう。生にあっても、死したる後にあっても、供養、供養、供養の世界にいるということになる。
『神界からの神通力』でも書いたが、人間は死ぬと三十年の間、天之八衢(あめのやちまた)とか、幽界(中有霊界や精霊界ともいう)という世界にいて、この世の汚れと想いを払拭し、その期間が過ぎると本当の霊界へと旅立つこととなる。そしてひとたび霊界へ行くと、それぞれの御魂のランクにしたがって、天国界、中有界(まんなかにある霊界という意味)、地獄界などで修業をすることになるのである。
だから、天之八衢や幽界にいる三十年間さえ供養すれば、もうそれで十分なのだ。供養が真に生きる期間でもあるからだ。本当の霊界に行ってしまった先祖まで、追いかけていって供養をする必要はない。よほど、神権を受託された者でない限り、一般の人たちが行う先祖供養では、地獄界に長くいる先祖霊を救済することはできない。それどころか、地獄の釜のふたを不用意に開けると、次から次へと何万の霊たちが押し寄せてきて、ノイローゼ、重病人、奇病の続出などによる家庭内の問題がもちあがり、最悪の場合は一家離散の憂目(うきめ)にも遭いかねない。まさに、さわらぬ神にたたりなし、なのである。
そのような供養をするよりも、自分自身がプラスの人格面と前向きの人生観を絶えずもつように努力する方が、はるかに価値がある。そうすれば、あまたある先祖の霊の中で、高級霊として存在する方々とひとつになれるのである。この方がより大切なのだ。高級な先祖霊たちとひとつとなるべく自分自身の御魂を磨く方が、地獄界にある先祖霊を供養することよりも、はるかに重要であるし、運勢をよくするうえでも、大きな効果のあることなのである。
そうした努力、つまり学問、教養、正しい信仰力を身につける努力を怠っていて、供養、供養といっているから、永遠に解決する糸口のない暗夜行路へと迷い込んでしまうのだ。
くどいようだが、供養ばかり考えていると、次から次へと救済を求める霊が寄ってきて、自分自身が霊障(霊の障り)の固まりのような人となってしまうのである。
『あっ、この人は供養に熱心だから、この人につけば自分も救ってもらえるだろう』と地獄界に堕ちている先祖霊にとりつかれることになるのだ。
人生の本義は先祖供養をすることではなく、自己のご本霊、自分自身の御魂をいかにすばらしく磨き、いかに世の中をよくしていくかにある。
もちろん、供養もそれなりに必要なのであるが、何ごとによらず過ぎたるは及ばざるがごとし。これが霊界の実相をつぶさに見てきた私の結論なのである。
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本文から少し紹介してみたいと思います。
「先祖供養は適度にすべし」
除霊と関係のある先祖供養について述べてみよう。
世の中には先祖供養に熱心な人が多く、私もしばしば、
『先生、正しい先祖供養をするには、どうしたらいいのでしょうか』という質問を受ける。こんなとき、私は次のように答えることにしている。
『自分の直系のお父さんやおじいさん、それからお母さんに対してだけ、だいたい三十年間供養すれば、もうそれで十分です。三十年間の供養といっても、毎日毎日やるのではなく、一周忌、三周忌、七周忌、十三周忌、十七周忌、二十三周忌、二十七周忌、三十三周忌の周忌供養を、ひとりについて計八回為し、さらにお盆の供養をすれば、もうそれで十分です。お彼岸も、祖霊の総合供養のみで結構』
そういうと、
『ええっ!そんな程度でいいんですか?』
という声が飛んできそうだが、それで十分なのである。
そもそも、一口に先祖といっても、その数は三人や四人ではすまない。それこそ星の数ほどもいらっしゃるのだ。十代さかのぼれば約千人、二十代で約十万人、三十代では百万人にもなるといわれているのである。その中には、地獄に堕ちている先祖霊も相当数いることだろう。
これらの先祖をいちいち供養していたら、いったい、どうなるか。それこそ、一生涯先祖供養だけで終わってしまうだろう。それだけではない。ひたすら供養ばかりしていた人は死後、供養を仕事とする霊たちの集まる霊界へ行ってしまう。生にあっても、死したる後にあっても、供養、供養、供養の世界にいるということになる。
『神界からの神通力』でも書いたが、人間は死ぬと三十年の間、天之八衢(あめのやちまた)とか、幽界(中有霊界や精霊界ともいう)という世界にいて、この世の汚れと想いを払拭し、その期間が過ぎると本当の霊界へと旅立つこととなる。そしてひとたび霊界へ行くと、それぞれの御魂のランクにしたがって、天国界、中有界(まんなかにある霊界という意味)、地獄界などで修業をすることになるのである。
だから、天之八衢や幽界にいる三十年間さえ供養すれば、もうそれで十分なのだ。供養が真に生きる期間でもあるからだ。本当の霊界に行ってしまった先祖まで、追いかけていって供養をする必要はない。よほど、神権を受託された者でない限り、一般の人たちが行う先祖供養では、地獄界に長くいる先祖霊を救済することはできない。それどころか、地獄の釜のふたを不用意に開けると、次から次へと何万の霊たちが押し寄せてきて、ノイローゼ、重病人、奇病の続出などによる家庭内の問題がもちあがり、最悪の場合は一家離散の憂目(うきめ)にも遭いかねない。まさに、さわらぬ神にたたりなし、なのである。
そのような供養をするよりも、自分自身がプラスの人格面と前向きの人生観を絶えずもつように努力する方が、はるかに価値がある。そうすれば、あまたある先祖の霊の中で、高級霊として存在する方々とひとつになれるのである。この方がより大切なのだ。高級な先祖霊たちとひとつとなるべく自分自身の御魂を磨く方が、地獄界にある先祖霊を供養することよりも、はるかに重要であるし、運勢をよくするうえでも、大きな効果のあることなのである。
そうした努力、つまり学問、教養、正しい信仰力を身につける努力を怠っていて、供養、供養といっているから、永遠に解決する糸口のない暗夜行路へと迷い込んでしまうのだ。
くどいようだが、供養ばかり考えていると、次から次へと救済を求める霊が寄ってきて、自分自身が霊障(霊の障り)の固まりのような人となってしまうのである。
『あっ、この人は供養に熱心だから、この人につけば自分も救ってもらえるだろう』と地獄界に堕ちている先祖霊にとりつかれることになるのだ。
人生の本義は先祖供養をすることではなく、自己のご本霊、自分自身の御魂をいかにすばらしく磨き、いかに世の中をよくしていくかにある。
もちろん、供養もそれなりに必要なのであるが、何ごとによらず過ぎたるは及ばざるがごとし。これが霊界の実相をつぶさに見てきた私の結論なのである。
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