ある出来事から、主体は何か?という問いが浮かび、実際、今自分に降りかかっていることを考えた。

私のケースは、主体である自分が、メインテーマであるのに対し、相反する客体が根底ではメインになりすましていることに、昨今気が付いたのだ。
本来ならば、すぐ気がつくところだが、心理上振り回されていると気づかない。
だが以前、1つの出来事に「変だな?」という違和感に襲われていた。でも、その場では自分に自信が持てなくり、見て見ぬ振りをしていたりする。

哲学者ミドーは、社会心理学である「主体」もしくは「自我」について、「コミュニケーションの理論」と位置づけ、コミュニケーションから「自我」は出現するという。また「自我」は、社会的経験や活動の過程から生じるという。
この「自我」と「主体」の概念は異なるが、私なりに擦り合わせて考えてみた。

コミュニケーションを通した「主体」と「客体」、本来ならば合意形成を辿る手段の1つにコミュニケーションが存在する。
それが、コミュニケーションも儘ならず、相手のペースで物事運ばれ、あたかも「主体」のためだからと事が進む。
今自分はその状態であると気付いた。今からでも遅くない。元に戻ろう。

研究でも論文を書くときもそうだが、「主体」それに対しての「客体」が存在し、多様な物の見方はつきまとう。

「主体とは何か?」の問いかけは、日頃から心がける事が大切だと痛感した。