自覚の重要性とか認知の歪みについて | 発達障害家族の記録

発達障害家族の記録

発達障害について、当事者として、
当事者の家族の立場としての両面から書いてます。

 

 

 

 

このネタ、これでラストにします。


 

東海道新幹線無差別殺傷事件の加害者の名前をずっと小島一郎と書いてたけど、正しくは一朗でしたアセアセ

仕事では人の名前の漢字間違いは注意してるんですけどね(言い訳)

 

 

小島一朗を取り巻く家庭環境で言えば、誰にも明らかな間違いはなかったと思う。

 

それだけに、小島一朗のような人は今もどこかに存在していて、チアーさんからのコメントのお言葉をお借りすると、たまたま事件を起こしていないというだけなんだと思う。

 

 

でも、年代が違うとはいえ、私も似た環境で育った発達障害の当事者。私の経験談が少しでも世の役にたつことを祈って、これかな?って思ったことを追記したい。

 

 

加害者の家族もまた被害者

 

この事件、加害者の一朗の主張からすると、伯父とか父方の祖母から酷い扱いを受けた風なことが語られたようだけど、

 

父方の祖母に関する情報が少ないので、なんとも言えないけど、伯父に関しては、ごく普通の人なら普通に言うことだったと思う。

 

この伯父だけが、一朗の両親の育児放棄や祖母の甘やかし過ぎに苦言を呈していたらしいので、恨まれるどころか救いの機会を作ってた気がしなくもない。悪者扱いされた伯父は気の毒だなって思った。

 

 

母親と母方の祖母が、ちょっ~と頭が緩い感じ。なんでも『まぁいっか』的に一朗を受け入れて、祖母亡きあとの事まで想定してない感じ。

 

ただ、一朗にとっては、母と祖母の緩さもある程度必要だったとは思う。

 

ASD・ADHDの子は楽に逃げたがる傾向があるので、それが時には救いや癒しになることもあれば、時には甘やかしを『あるべき正しいこと』と認識し、それが認知の歪みに繋がってしまうパターンもあると思う。

 

 

誰が悪いって話ではなく、これもチアーさんのコメントから引用させていただくと

 

考えてみたら、人生なんて努力でなんとかすることよりも、偶然の積み重ねが結果的に〇にも×にもなってることのほうが多い。

 

ってことになると思う。

 

 

それともう一人、陰に隠れがちだけど、一朗にはひとつ上の姉がいるらしい。

 

両親が姉ばかり可愛がったという話だけど、

私にも姉がいて、昔は姉ばかり可愛がられてると思ってたけど、大人になってお互い色々話しあったことで、その姉もまた、両親の間で振り回され姉なりの苦労を積み重ねてきたことを知った。

 

一朗のお姉さんもまた、親から特別扱いされてるって感じたのは一部分だけで、お姉さんなりにもいろいろ抱えてきたものがあったかもしれない・・・。

 

加害者の家族もまた被害者だと思うけど、子より先にこの世を去るであろう両親より、同じ寿命が想定される兄妹に関しては、特に気の毒だとしか言いようがない。お姉さんのためにも踏みとどまってほしかったものだ。

 

 

発達障害の診断はスタート地点

 

 

小島一朗は高校生の頃に、自ら精神科を受診して発達障害の診断を受けている。

・・・ここからが大きな分岐点だったと思う。

その診断名を本人や家族が、どう受け止め、どう活かすか次第。

 

 

私の勝手な推測だけど、一朗の両親もおそらく発達障害だと思う。

 

マスコミの前で『戸籍上の父親です』などとまるで他人事のような発言したことで無責任な父親と批判されまくっていた父親はおそらくASD

 

※この父親の発言の裏には、一朗が母方の祖母の養子になったこととか、自分がいっさい育児に関わってこなかったことを説明してるだけだったと推定。思ったまんまを口に出した空気の読めなさからそう感じた。うちのアスペ父も、私が犯罪者になったら他人事のように語ること間違いなし。

 

 

母親の育児放任さとか、母方の祖母の規則性のない、というか緩すぎる感じの思考からしてADHDかな、と思った。

 

 

因みに、私は勝手に発達障害のレッテル貼ってるけど、これは問題だと思ってない。可能性があるなら、どんどん貼れば良いと思ってる。

 

発達障害は先天性の特性なので、物事の原因を辿るならまずそこから疑わないと、結果としてズレてしまうことはあると思う。

(それを失礼と言う方が当事者に失礼な話)

 

発達障害を疑うことは、自分のことを正しく知るきっかけであり、周りの人にとっても、当事者への対応の目安になるはず。

 

 

小島一朗の家族の場合、息子が発達障害と診断されたなら、もしかしたら自分も?!ってならなかったのだろうか?

子供だけが診断を受けても、親が無自覚では意味がない。

 

 

自分を棚に上げて子を責めても・・・

 

 

私の兄と母の話になるけど、

 

うちの母(ADHD)は、兄のASD由来の問題行動を母は嘆くばかりだった。

いつだったか、姉が母に『母親としての愛情を注いでこなかったからそうなったんだよ?!』と、言ってやったらしい。

 

 

私が発達障害と診断を受けたことで、母もADHDだと思うよ、と、『やらなかったんじゃなくて、(能力的に)出来なかったんだ』と、姉に教えると、それ以降、兄の事で母を責めることはなくなったようだけど。

 

姉は言う。

出来ないものは出来ないから仕方がないけど・・・せめて『普通のお母さんみたいに出来なくてごめんね』的な気持ちが感じられたら、こっちだって気持ち的に違ってくるのに!ムカムカと。

 

 

そこなんだよね・・・ホントそこ大事。

 

発達障害がどうこうの問題じゃないのよ。

 

 

発達障害があると、人から責められることが多いせいか、つい自分を守りたくなっちゃうんだけど、曲がりなりにも親なら、そこもうちょっと頑張って抑えよう?って話。

 

 

定型発達の姉はともかく、兄や私のような子供は、どこの親にとっても育てにくい子供だったのは間違いないけど、母や父だって普通のじゃなかったんだから、それを棚に上げて子供だけを責めても、子供は納得しないって。

 

 

そしてこれ、うちの親だけでなく私自身にも同じことが言える。

 

ずっと以前、うちの娘から『ママは自分の考えを絶対曲げない!自分が正しいって思ってる!』って言われたことがある。

しかも『絶対謝らない』とも言われた(笑)

 

・・・そういうところなんだよね。

アスペだとか、ADHDだとか、そういうのはどうでも良くて、

自分のことに無自覚なこととか、変なプライドとか、自己保身とか、そういうのが娘を追い詰めてたんだなって反省・・・。

 

最近は、『アスペでごめんねぇ~』的に開き直り過ぎてる感があるけど(ASDの極端さよ(笑))

 

 

 

また、小島一朗の話に戻るけど、そういう意味で、家庭内で自分ばかりが責められるという、納得できない不満の積み重ねとかはあったんじゃないかな?って思った。

・・・だからといって、全く同情はしないけど。

 

 

一朗が『刑務所のほうがマシ』って言った言葉は本心だった気がするし、そう思えるほど、追い詰められたのは確かだったと思う。

 

その心理は私には理解はしがたいので、この記事の内容もズレているかもしれないけど、このシリーズで書いたことがどこかでなんらかの役に立ってくれたら嬉しい。