かけ算の順序問題というものがある。

小学校のかけ算の文章題で、


りんごを1人3つずつ4人に配ります。りんごはいくつ必要ですか。

という問題があったとする。


模範解答は

式:3×4=12

答え:12個

である。


しかし、テストで

式:4×3=12

答え:12個

と書いてバツになる子がいる。


このように、文章題の立式で「かけられる数」と「かける数」を入れ替えた式を正解とするべきか、不正解とするべきか、という議論を「かけ算の順序問題」などと呼んでいる。


ネット上では、正解とすべきという意見が圧倒的多数のように感じている。

小学校教育によくある、理不尽の一つだと言うわけだ。


彼らの主張する理屈は主にこうだ。

「交換法則に反しているから」


そして、不正解とすべきという人に対しては「分かっていない」と見下した態度を取る人も多い。


しかし、本当に正解とすることが好ましいのか、私は疑念を抱いている。


以下の考察はあくまでも一素人の意見だ。


まず、かけ算の基礎的な概念は以下のように表すことができる。


1単位とする量 × いくつ分


これは「複数の数や量を1(ひとまとまり)とみなす」という考え方が元になっている。


数を一つずつ数えるという段階から一歩進んだ考え方である。


ちなみに、この考え方は割り算、割合、速さなどの単元でもベースとなってくる。


つまり、ある数量をひとまとまりとして捉えるという考え方ができるかが重要なポイントだと言える。


そして次に、そのひとまとまりの数量を1単位として、それがいくつ分あるか、1単位の何倍かという考え方をすることで全体量を把握する。


この大枠の考え方を理解し、身につけているか、イメージしたり実感を持てるかが重要だ。


最初の問題でいえば、りんごを1人に3つずつ

というのが1単位を表す部分であり、

4人に配るというのがいくつ分、何倍かを表す部分である。


3つのりんごをひとまとまりと考え、そのまとまりが4つ、だからこのくらい必要、というのをざっくり思い描けることが重要だ。


それを文字の式にすると、

1単位は3個 × 4つ分

となる。


この式の項の順序は、「◯の△個分」「◯の△倍」という日本語の語順に従って、自然に感じるように定義されていると言える。


実際アメリカなどでは逆になる。


教科書では、

「かけられる数 × いくつ分」などの文字の式で定義されている。


順序を定めないと、何がいくつ分なのか式からは判断できなくなってしまう。


かけられる数はどっちでもいいです、としていると、3×4は

3つのりんごが4人分なんですか?

4つのりんごが3人分なんですか?

どっちなんですか?となってしまう。


教科書のように順序を定めていると、何が1単位で、それがいくつ分なのか、日本語の自然な語順で誰もが一目で理解することができる。


次に、かけ算の順序が逆になった式を不正解とするのは、交換法則に反しているのかを考えたい。


交換法則はかけ算の「かけられる数」と「かける数」を入れ替えても答えは同じという性質を表すものだ。


りんごの例でいうと、

りんごを1人3つずつ4人に配るとすると、りんごは12個必要。

りんごを1人4つずつ3人に配るとすると、りんごは12個必要。


上と下の文では3と4が入れ替わっているが、必要なりんごの数は同じになっている。


もう少し数学っぽく書くと

3の4倍は12である。

4の3倍は12である。

となる。


これらの上の文と下の文はイコールなのだろうか。

数学の専門的なことはわからないが、事象としては別のことであると私は考える。


1単位の数量が3であり、それが4つ

ということと

1単位の数量が4であり、それが3つ

ということは、文章が異なるとおり別の状況だ。


交換法則は、

「1単位は3」「いくつ分は4」

「1単位は4」「いくつ分は3」

というときに答え(総量)が同じになる、という性質を示すものであり、


「1単位は3」「いくつ分は4」

「1単位は4」「いくつ分は3」

は事象として同じである。

という意味ではないのではないだろうか。


交換法則があることは、文章題の立式で項順を不問にする理由にはならないのではないか、と私は感じている。


ちなみに、四角形の面積など、どちらを1単位とするか明確に判断できないものについては項順を問うべきではないのは言うまでもないことで、このパターンでバツになっているのなら抗議して良いと思う。


くだらないこだわりで数学の法則を無視するようなことがあってはならない、というのが

項順不問派の主張であるが、法則そのものの理解、法則というものの解釈に問題があるのではないだろうか。


もし、それが間違っていたとしても、かけ算を理解することは「〇〇が△個分」という考え方を理解することである。


文章題を読んで、模範解答と項順を逆に書いて立式した場合、

概念を正しく理解しているかはかなり怪しくなると感じる。

(教科書では単位量を先に書きましょうと指定してあるわけだし)


また、算数であっても、そのベースとなるのは母語である日本語だ。


りんごを一人に3つずつ、4人に配るとき、りんごはいくつ必要か。

という日本語を正しく理解して初めて式を立てることができる。


そして理解したことをそのまま式にしたのなら、模範解答のようになるのが自然だ。


すくなくとも小学生の算数では、かけ算の基本を習得するためにも、国語の力をつけるためにも、

項順にはこだわったほうが得るものは大きいだろう。


かけ算をしっかり理解していれば、順番なんてどちらでもいい、学校教育はおかしいと言う意見は出ないようにも思う。


特に割り算の意味がわかっていれば、かけ算の順序を軽視することは考えにくいと思うのだが…


分数の割り算で、割る数の分母と分子をひっくり返してかける意味がわかるだろうか。

大学生や大人でも答えられる人が非常に少ないこの問題も、かけ算からしっかり理解していれば答えられる。


少なくとも算数で大切なことは、九九を丸暗記して、九九を唱えながら問題を解くことではなく、見方や考え方ではないだろうか。


かけ算の些細な順序問題、正しく理解していれば、少なくとも国語力がしっかり育っている子であれば、模範解答と同じ立式をするはず。


ここをしっかりと理解すれば、速さや割合などの算数の難関もスムーズに理解できるし、「キハジ」などを使ってわかっていないのに機械的に解くということもない。


順序が違うだけでバツにするなんて酷い教員だとか、学校教育はおかしい、ということにして本当によいのだろうか。


ネットでかけ算文章題の順序違いは間違いとすべきと発言すると、叩く人が多数いるので…多数派に流されてしまうのかもしれないが、それは子どもたちにとって損失ではないだろうか。


ちなみに幼児教育でもかけ算は扱うが、

2×3=

などの計算問題が延々と続くプリントを解くのではない。


小学校では文章題は応用問題扱いだが、幼児教育では逆だ。

文章題が基本になる。

ただし、紙の上で解くのではなく、具体物をつかったり、生活の中でかけ算に相当する事象に触れることで、かけ算の基本である、いくつかの数をひとまとまりとして捉える見方を習得していく。


2×3=

という問題は抽象度が高く、式の意味を理解するのは子供には難しい。

だが、具体物を使えば幼児でもかけ算を理解することができる。


幼児の数の習得にはいくつかの段階があるが、具体物を使って1:1対応、数量感覚、合成分解などから順に身につけていけば、かけ算や、割り算、速さなども理解することができる。


まずは具体物や生活算数を学ぶことが、ゆくゆくは難しい抽象概念を理解する知能を育む。


日本の算数の教科書は、まず生活の中にある問から始まり、それを解決する方法を考えるという順序で学んでいく。


以前見たシンガポールの教科書は、公式が書かれていて、それに当てはめて問題を解くだけだった。


日本の算数の教科書は思考力を育てる上でとても優れていると言えるのだ。だから安易に教科書を否定するのはナンセンスである。

なぜ教科書ではこういうアプローチをしているのかを考えたほうが得策だろう。


しかし実際の算数の授業では、それこそ学校教育の問題点なのだろうが、子供の日本語の力が十分でなかったり、幼児期に何もしてこなかった子にとっては難易度が高かったり、最近では教える内容の増加も手伝って概念をしっかり理解する時間がとれず、機械的に公式やキハジに当てはめないと解くことができない、という状況が多発している。

これでは仮に問題が解けても理解していることにはならないだろうし、思考力も育たない。

だからこそ、かけ算の文章題で項順を間違える、ということが起こるのではないだろうか。


それにしても、順序が違ってバツになったときに「あっ、間違えた」と思ったり、理由を説明されて納得できるのなら問題はない。


最も問題なのは、説明を聞いても納得できず「なんで順序が違うだけでバツなの!おかしい!」と親に見せ、親もまた「交換法則というものがあるのに、この先生はまちがっている。」という流れになってしまっていることだ。

それは子供たちの思考力を伸ばす上で、本当に好ましいことなのだろうか。


かけ算の順序が問題になることそのものが、日本人の学力の低下を示しているように私には感じられてしまう。