思い出の家庭教師稼業 ①…結婚前はT夫より稼いでいたのだ | miutantの思い出ポロポロブログ

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忘れてしまいそうな昭和の思い出やどうでも良い日々の事柄!徒然なるままに…
映画、漫画、遊び、学校、家族など、思い出す度記録しようと思います


昭和47年(1972)晴れて大学生になったが、電車通を理由にクラブにも入らなかった
家からのお小遣い(5000円?)では遊べないと、アルバイトをさがした
で、最初がこれ爆笑
↓↓↓
何やってたんだろう!
今でも時々見かける紙風船だ
見るたびに50年以上前の記憶が甦り
ひとり笑ってしまう

年賀状の時期には郵便局でハガキの仕分けのアルバイトをした
アイドル(郷ひろみが多かった)への年賀状の内容をチラ見してた爆笑
大学生というだけで仕事の早いおばさん達より100円も時給が高かった
とても申し訳なかったな~

2年生からは地元で家庭教師稼業に
精を出した
学校の掲示板には適当なものがなかった(盛岡市内ばかりだった)

夏休みに親戚の子を教えていた友人が私を後釜に紹介してくれたのが始まりだった
当時は家庭教師のトライもないのであとは
口コミで増えていった爆笑
殆どが商店や会社経営者の家だった

個人営業なので料金もキチンと決めておらず行く先々のお宅で決めてくれていた
そのため
「○○さんところでは幾らもらってるの?」などと聞かれるチュー
もちろん口は濁すが
「○円は貰ってたでしょ?」とか「○円じゃ少ないよねぇ」などと探りを入れてくる

あそこの家には負けたくない等という気持ちが働くのか、私が言わずとも月謝はつり上がっていった
当時のT夫の給料よりはるかに稼いでいた

 結婚するまでの8年で16名ほどを教えてきた
長い子は小学三年から中三まで、受験期のみの子もいた

自分で言うのも何だけど全員ある程度の結果を出したと思う

その子等の内の3人(女の子ばかり)は私の結婚式に参加した
出席させて欲しいと親からも頼まれ3人は車(A子の父親が運転手)で
函館まで来たのだった
Kちゃんの母親は私に夫婦布団まで用意してくれた(高級品だった)

そんなこんなで私の家庭教師稼業は良い思い出になっている
あのまま辞めずにいても良かったかもなあ…
子供達とは勉強以外にも良く一緒に遊んだ
何をしても喜ばれた(親は仕事が忙しく構ってやれない家の子達だったからかも)

クリスマス会をしたりドライブに連れて行ったり映画にも一緒に連れていった🚗
結婚して北海道にいる私をE子は訪ねてきてくれた
嬉しかったなあ照れ


次回も家庭教師稼業で…
いろんな子がいるもので!