12年ぐらい前の写真です。


細い!カラダの張りが違う!だけど超ブス!

なんだこの睫毛。

でも当時は、このカラスの足みたいな睫毛が、

これはこれでトレードマークのつもりだったんですけどね。


それよりも珍しいのが、

邪道とは言え、一応ウェディングの格好をしていることです。


私の中で昔から、

女装のウェディング・スタイルは、

どこか『素人コスプレ・宴会芸』的なイメージが強く、

よほどじゃない限り、したことがありません。


たぶんこの写真を入れても、

白いベールを被って人前に立ったのは、

生涯3回だけな気がします。貴重写真!



何故に、突然こんな写真を引っ張り出してきたかというと……。




クリスマスの夜、テレビで、

『同性婚』の特集をしていました。


改めて『同性婚』という言葉を聞いて、

『これまた随分と恩着せがましいネーミングだこと!』と、

いつものひねくれ根性が炸裂しましたが、

そこは、しかと受け止めなければ、前には進めないのが現実。


そして今年は自分も、『結婚』という制度に、

今さらながら思うところがあったので、

ちょっとだけ考えてみました。



私はね、

仮に将来、同性同士での結婚が法的に認められたとしても、

個人的には、結婚という制度を利用するかどうか、正直分かません。
結婚願望も必要性も、少なくとも今現在は、ほぼありません。



それは例え私が、

異性愛者の男性だったとしても、

異性愛者の女性だったとしても、

同性愛者の女性だったとしても、

です。


人間40年近く生きてくれば、
ある程度自分が何に向いていて、何に向いていなくて、 
何に優先順位を置くかということが、
嫌でも分かってきてしまうものです。


それは結婚だけでなく、
恋愛や仕事や運転や料理やファッションについてもしかり。


ただ、『結婚』という制度に対しては、
やはり自分が、生まれつき異性愛者ではないという事実が、
大きく影響していることは否めません。


どうせ男同士は子孫繁栄できないし…と、
端から放棄の境地もあるかも知れません

しかしどの道、

『結婚』という概念を自分事として、

憧れや願望といったセンチメンタルな部分も含め、どのように捉えればよいのか……。 


『する・しない・できる・できない』といった
結婚に対するいずれのスタンスも、
この国では取り様がない…ことは確かです。


幸い私の性格・性質上、そして環境的に、
今はそれでも困ることはないのですが、

世の中がこれほどまでに、『結婚』というシステムを中心に、

社会も経済も人間関係も回っていることに、

最近ようやく気付き、


そしてそのシステムの中に、

自分の立ち位置がないということにも気付き、
昨年末ぐらいから、なんだかずっと悶々唖然としていました。



今や、
『結婚したいけど、できない』
『結婚できるけど、敢えてしない』
『結婚したくて努力したけど、できなかった』 
というスタンスは、 

さして恥ずかしいことでも、

そこまで気の毒なことでもなくなってきましたが、

よくよく考えてみると、
そのいずれにも自分は該当していない……

という驚愕の事実。



『結婚』という制度の現状に対して、
年齢制限や近親制限があるのは理解できても、
身体的特徴や性的対象の個体差が、その制限の対象となる必要性は、
全くもって、ないと思います。



以前、なにげない会話の中で、
『ほら、所詮、結婚なんていうシステムに、

組み込まれるようなことは、
私にはないからさ…。』的なことを言った私に、


『え!?そんなことないじゃん!
アメリカとかイギリスとか外国に行けば、

全然できるじゃん!』と、
これまた何の悪気もなく言い放った人がいました。それも複数人。



分かります。
今の日本の現状では、

もしそれが、一刻を争うような願望だったとしたら、
それを叶えるには、そのぐらいしか手立てがないことは。


しかしね。
仮に外国で…という選択肢を適用することで、

感情的なものが満たされたとしてもだよ?
それって、ずいぶんなことだと思いません?




例えば、

未成年の臓器提供、安楽死、
男女産み分け、クローン製造といった案件は、
倫理という名のもと、簡単に答えが出るものではないと思いますが、


性転換、
代理母出産、
そして同性同士の結婚については、

そろそろいい加減、
必然の権利として認める方向に行くべき時機だと思います。

正直、今の世の中、良くも悪くも、

理解力と忍耐力と処世術が、

発達・蔓延し過ぎて、
本質が何かということが、曖昧になってしまっている傾向があります。

『受け入れる』とか『認められる』……って、

どんだけ上から目線だよ!と思いつつも、

その現実にさえ噛み付いていたら、人生時間に限りがあります。



理解なんて、必要だけど、

この際いちばん不必要なものでもあるんです。


理解し合うなんてのは綺麗事です。

世の中、本能や常識だけでは片付かないことがたくさんあります。

それに各々が、どう対峙するかは、

いわゆる『好き嫌い』ってやつです。


何事も最終的には、

個人的・生理的な感情で判断するしかありません。
それは友達だろうと家族だろうと同僚だろうと関係なしです。

ただ、
その個人的・生理的感情によって、
あまりにも理不尽で不平等な人生を、

送らずに済むようにする為の『大前提』が、
秩序や法律や道徳というものです。

個人的な好き嫌いの感情なんて、
昨日今日でどうにかなるものもありません。
だから、せめてもの『大前提』が必要なのです。



国や法律に認めてもらえさえすれば、

今は、もしくは死ぬまで、親や家族や友達に受け入れてもらえなくても、
とりあえず前に進める人たちがいると考えれば、

個人が個人の人生を切り開いてく、

最低限の権利と保証の平等性が、

ないがしろになったまま、もうすぐ2015年…

という事実に、あれ?と思わざる得ません。



男女の結婚のそもそもが、

倫理的にも感情的にも法的にも、

これだけ多様化しているのに、

今さら、『結婚は男女間のみでの制度』というのは、

どれだけ客観的に見ても、


偏り過ぎている…よねぇ?



そこのアナタ、

WHAT DO YOU THINK?



電気が通ってもいない村を指差して、
『田舎!田舎~!』と馬鹿にする時代は、
少なくとも今の日本では、もう終わったでしょ?ということです。

かと言って、

『お宅の村、電気通ってないんですもんね。
大変ですよね。お察しします。
でも、お宅の村に電気が通ってないことに、

なんの偏見も持ってませんから!』


っていうのも、何だかおかしな話でしょ?ということです。

21世紀の日本です。

水も火も土も空気も、みんな自由に使えて、
通貨や物価は同じなのに、電気が通ってないなんて・・・。


自家発電している人たちに、
『生き易い世の中になりましたよね。』は、いくらなんでも・・・です。


『あの人たちが選ぶ電球の色って、ちょっと気色悪いわ~。』
『電圧低いのにあんなにタコ足ケーブル使って、漏電しないのかしら?』
『夜中まで電気煌々とさせて、無駄ちゃいます?』的なことを言うのは、
とりあえず電気が通った後にしません?




そこで初めて私も、あの『北の国から』の名掛け合い、


純:「電気がないー?電気がなかったら暮らせませんよー。」
五郎:「そんなことはないですよ。」
純:「夜になったらどーするの?」
五郎:「夜になったら寝るんです。」
純:「寝るったって、勉強とかぁ。」
五郎:「ランプがあります。いいもんですよー。」



ができます。


ごっこ遊びは好きだけど、

好きでやってるわけじゃないごっこ遊びもありますしね。