前回の続きです。
小学時代の後半です。
小学4年のとき、一番うれしかったことは一つありました。
それは、母が私の描いた絵を褒めてくれたことです。
言えない言葉の代わりに絵を描き始まって、クレヨン、絵の具、色鉛筆…
描いた絵はほとんど海、クジラ、イルカでした。青系のばかり描きました。
空や海を見ると不思議に心がすーとスッキリしてくる感じがして、青系ばかり描いたのはそのせいだと思います。
今でも雲が一つもない真っ青な空を見上げると落ち着きます。
絵を描いているとき、母が様子を見てきて絵を見て驚かれました。
「すごい!綺麗な色!ママはこれが好きかなー」
と初めて言われて、すごく嬉しくて照れたことははっきりと覚えています。
絵を描くことは今、特技として趣味として役に立っています。絵が上手くなったのはまた褒めてほしいと思います。
母は実に漫画家に憧れたらしく、私に漫画家の道具を買ってもらいました。
初めて見た道具にどうやって描くの?と母に色々教えてくれました。
絵を描く時間は母との楽しい時間でした。仕事や子育てに忙しい母とこうしてゆっくり話して楽しかった。あの時間は本当に幸せでした。
もしかしたら、あの時間は最初の最後で母との楽しい時間かもしれない。
冬の季節になると、また東京に遊びに行っていつも遊んだら…母の様子がいつもより違うと感じて母の顔色を見ながら母のそばにずっと居ました。
その予感が当たったか、母は財産が全部なくなって地元に帰れなくなって、東京で寒い夜空の下で母が動くまで待つしかなかった。
ご飯も昼から食べれなくてお腹がすいて、意識が飛びそうになった。
トイレで意識が飛んで暫く倒れたら、トイレの扉が激しく揺らせられて母のビンタで目が覚ました。初めて死ぬかと思いました。
扉が閉じた地下鉄の入り口で母と弟と私が強く抱きしめて朝が来るまで寝れずにいました。
気づいたらもう朝になって、母の姿だけがなくなった。
どこにいったの?と周りを見回したら警察署に母の姿を発見。警察署の電話機を借りて誰かに電話をしたらしい。
母が私と弟が目覚ましたことに気づいて
「帰るよ」
といつもの笑顔じゃなく無表情でそう言われました。どうやって帰るの?と疑問を抱えながら母の後をついていくと、
何故か新幹線に乗って地元に帰りました。久しぶりの安心感で地元に着くまで深く寝ました。
駅に着いて降りる先には、なんと父が居ました。数年ぶりの再会であまり驚いてぽかーんするしかありませんでした。
母は実に実家の父と大喧嘩をして、二人の妹まで喧嘩して絶縁しそう状態なのになぜ父を?と疑問がいっぱいで状況についていけませんでした。
父の車に乗って向かう先には、レストランでした。ご飯だ!と喜んでピザやパスタなどをいっぱい食べていました。父は優しく微笑んでいたが、母は一つもご飯を取らずに無表情でいました。結局食欲に負けて食べましたが、母は地元に帰ってからずっと笑いませんでした。
私は父と会えて嬉しくて頭の中で喜びしかありませんでした。もしかしたらこの家族は元に戻れるじゃないかと期待しました。
しかし、その期待は叶わなかった。
本当の家に帰って自分の部屋が引っ越しする前と同じでおもちゃも残ってあって、本当に帰ったんだと実感して弟と暫く遊びました。その時の父と母の雰囲気がまだ悪いままでした。
本当は気づいたけどきちんと話し合ったら仲直りできるはずと期待して弟と遊びました。
数日後、父が仕事に行って家に誰もいないとき、母が「ここから出る」と私たちにそう言いました。私の頭の中が鐘を打つようにゴツーンときて、ショックが大きくて何も言えなかった。
あぁ、母はまだ父のことが嫌いだね…
またあの生活に戻るか…
ここから出ると、二度も父と会えないと気がする
嫌な予感が頭の中にぐるぐると流れて、今まで言えなかった気持ちを初めて言いました。
「やだ!!」と。
上手く言えなかったけど私の気持ちが伝わったか、母は嫌そうな顔をしました。
弟もびっくりしたか、母と私の顔を交互に見ました。
その日の夜、私は母の布団から静かに出て、父のところに行って母の言ったことをすべて言いました。私はここから離れたくないと気持ちが父に伝わったか、父が車でどこかに連れてくれました。着いた先には、どこかの工場の駐車場でした。印象に残ったのは工場の見たことがない高い棒から煙が出て、それをずっと見ました。
夕方になったら、家に帰ると母と弟が居ませんでした。
もしかしてここから出たか?ととてもショックでぼーとするしかありませんでした。
私がここにずっと居たら母が仕方なく諦めるはずと思ったのに
一番ショックなのは私を捨てて出ていったこと。いや、私が母と弟を捨てたかもしれない。
ずっと暮らしてきた二人はもうここにいない。これから父と父方の祖父母と暮らすことになる。
その現実を受けた私は不思議に泣きませんでした。父に大丈夫か?と心配されたが、私はそう言った。
「これでいい!私は自由になった!」
と無理矢理笑っていました。夜になると布団の中で静かに泣きました。
今通っている学校に通うのが厳しくて、地元にある学校に転校することになりました。
その学校は普通の学校だけど聴覚障害者の児童がいて国語と算数だけ別教室で学ぶって。
健聴者と話すのが久しぶりだなぁと思いながら転校する日、先生に連れてくれてクラスの前で自己紹介をするが、みんな全員健聴者で私の手話が通じない。
小さい頃通じたのに今となると通じない。その現実にショックが隠れない私は無理矢理ニコニコとして内容が分からない話を分かるフリをしてきました。
手話ができる児童が居たが、距離がなかなか縮まなくて仲良くなかった。
転校してから数カ月後、かなりストレスが溜まったか、毎日腹痛がきて学校に行きたくないと思い始まりました。しかし祖母は
「甘えるな!もう小学5年生だろ!腹痛ぐらい騒ぐな!!」
と怒られて心配してくれないと思って余計に痛くて保健室に何回も行きました。
保健室に祖母が迎えにきて、家に帰ると一気に私を強く責めてきました。
甘えるな!
ワガママをいうな!
迷惑をかけるな!
泣くな!
小学5年生だろ!
ぎゃあぎゃあと騒ぐな!
と色々怒られて、祖母を怒らせないように行動をして腹痛がきても我慢して学校に行きました。我慢が出来なくて泣くと祖母がまた怒ってそういうことを言ってくる。
その繰り返しで私がうつ病になるまで続いてきました。
ある日、授業中で突然腹痛がきてイスから落ちて倒れて助けを求めるが…
クラスの皆が倒れる私を見ないか、見ないふりをしたか、一人も助けてくれなかった。
一気に現実の残酷を感じて泣きたい気持ちがいっぱいで絶望しました。
担任が助けてくれたが、このショックがまだ続いています。
なんで助けてくれない?
朝になると腹痛、助けを求めると怒られる
昼休みはニコニコしている
夜になると、布団の中で泣く
甘えたくても相手はいない
助けを求めても相手はこない
その時から死への憧れがだんだん強くなって、どうやって死ぬか方法が分からないままで卒業しました。
でもいいことは一つありました。
それは、障がい者の先生でした。
とても優しく、怒るときは怒って、話をきちんと話してくれる先生でした。
恩師の中の一人です。
卒業式のとき、先生からのメッセージに大泣きをした思い出が覚えています。
今、元気ですか?私は元気ですって
言いたいです。
これで小学時代の話、終わります。
次は中学時代です。
現実の残酷と絶望はまだ続いています。