今日の一言  「 強く 」 | mituのブログ

今日の一言  「 強く 」

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 おはようございます
 今年も、いろいろあるかも知れませんが、何が起ころう
 とも力強く前進して行こうとの願いを込めて
  昭和天皇の一言(御製)。
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 【今日の一言 2013年1月7日】
 『ふりつもる み雪にたへて 色かへぬ
  松ぞ雄々しき 人もかくあれ』
  (昭和天皇)
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  昭和天皇が敗戦後まもない1946年に国民への祈りを
  込めて詠まれた歌です。
  その前年には「海の外(と)の 陸(くが)に小島にのこる

民の上 安かれと ただいのるなり」と詠まれています。

歌を作るということは、自分の心を言葉にあらわすことに

よって人に伝えることですが、同時に自らを見つめ省みる

修養でもあるということだそうです。

 終戦直後、昭和天皇は、自刃までも考えていました。

それを思いとどまらせたのは、母である貞明皇太后でした。

貞明皇太后は、法華経の信者で、戦死者のお名前を10人ずつ

 書きながら、法華経をあげて生涯を送られた方です。

その貞明皇太后が、皇霊殿に昭和天皇をお招きになりました。

皇霊殿は高いので、焼けただれた東京の街や一日千秋の思いで

 わが子の復員を待つ年寄りたちの姿も見えるのです。

貞明皇太后は昭和天皇にそれをお見せになり、

 「陛下、国民は陛下のご不徳によって、このように苦しんでおり

 ます。この国を一日も早う復興しようと召されず、お腹をおめし

 になろう(切腹しよう)などとはご卑怯ではありませんか。

 退位は絶対になりません!」、「天皇陛下万歳を叫んで死んでいった

 護国の英霊の労苦を労いなさい、遺族の労苦を労いなさい、産業

 戦士の労苦を労いなさい」と。

 これが、昭和天皇の全国ご巡幸につながります。


(以下、時間のある時にどうぞ)

「全国を隈なく歩いて国民を慰め、励まし、また復興のために立ち

上がらせる為の勇気を与えることが自分の責任と思う」(昭和天皇)

 1946(昭和21)年2月19日、巡幸の最初のご訪問の地は、

 食糧増産に必要な化学肥料の硫安を生産している昭和電工川崎工場

 でした。社員は、空襲で70%の設備が破壊された工場の復旧に必死

 に努めていました。

 一列に並んだ工員たちに、昭和天皇は「生活状態はどうか」、「食べ物

 は大丈夫か」「家はあるのか」と聞かれます。

 案内していた森社長は、「天皇が身近な質問ばかりされるので、宮中

 で安楽な生活をされていたら、こんなことは口だけでは言えまい、と

 急に深い親しみを感じた」と感想を述べています。感極まって泣いて

 いる工員も多かったそうです。

 このとき、米の報道陣は戦勝国の横暴を隠そうともせず、昭和天皇を

 小突き回し、引っ張りまわしもみくちゃにして写真を撮りました。

 しかし、昭和天皇は嫌な顔ひとつしませんでした。

 この姿を見ていた日本人たちは、

「日本の再建のために、国民のために、“耐え難きを耐え、忍び難きを

忍び“を、身をもってお示しされておられるのだ」と感動し、工場

の士気は鼓舞されたといいます。

 全国での巡幸中には、反対デモが押し寄せることもありましたが、

 「皆様方が私を打擲することによって心が癒えるならば、ご随意

 にめされたがいい。でも日本の国を一日も早う復興し、次の子孫へ

 この国を送り得てこそ、はじめて護国の英霊に対し、我々が報

 いる道ではなかろうか」と逃げることなく対応されます。

 天皇に向けて発砲があるという事件もありますが、それでも

 全国巡幸は続けられます。

 昭和天皇は沖縄以外の全国を約8年半かけて回られました。

 最後の沖縄訪問をひかえた昭和62年、昭和天皇は慢性膵炎で

 倒れられます。

「もう、だめか」と昭和天皇は病床で医師たちに問われました。

 一瞬、医師たちは、ご自分の命の事かと思いましたが、実は

「沖縄訪問はもうだめか」と問われたのでした。

 その思いを陛下はこう詠まれました。

「思わざる 病となりぬ 沖縄を たづねて果さむ つとめありしを」

 全国民を癒し、励ますことを通じて日本を良き国にすることを自分の

 天命とし、生涯を尽くされたのです。



この一年も松の強さを見習って寒風にくじけず元気に顔晴りたいです。皆様、今週も強く明るく素敵な1週間をお過ごしくださいね♡