2011年3月11日

東日本を襲った大地震が大津波を引き起こし、いわき市の私の住むところから直線距離にして約50km弱のところにある、福島第一原発ではメルトダウンが発生し、東日本大震災の死者・行方不明者は、1万8000人以上に上りました…m(__)m。

 

記憶が薄らいで来ていますが、地震発生から約30分後位だったか?携帯が通じないので公衆電話ボックスで家族や会社へ電話している最中、「シュ!!〜…」というガス漏れのような音が絶えずしていたと思ったら…

 

ズド~ン!!…と‥

錦町にあるとある工場のタンクが爆発し、塀越に私の頭上を爆風が通り過ぎたら辺り一面が黄色い”風景に様変わりし、車へ緊急避難…東日本大震災 発生直後の私の実体験です。

 

その後すぐ近くの広場に避難していた会社の現場”の人達を自宅へ帰るよう手配し、私も本社のある平へ戻ろうとするも道路があっちこっちで寸断され、渋滞も酷くて身動きも取れなく連絡もつかない状況に、結局近くの営業所にだけ顔を出し状況を確認し、走れる道路”を探し遠回りしながら自宅へ帰ったのは23時近く‥(@_@;)。

 

幸い自宅は電気とガスだけは通っていましたが水は出ず、この後断水が復旧したのは約40数日後‥<(`^´)>。

 

そして真夜中の寝ている時にまた大きな余震が来て、枕越しに地中の岩盤が崩れ落ちるような、ガラン”ゴロン”‥という音を耳にした事は、今でもしっかり記憶しています‥(´-`).。oO

 

翌朝5時30分頃だったでしょうか?…「やっと通じた…」と、津波で足止めされ【アクアマリンふくしま】という水族館で一夜を明かした会社の同僚からSOS‥

まだ警察の規制線が張られていなかったので…

 

まるで映画のセットのような‥

津波の引いた道路を…

 

瓦礫や障害物を除けながら‥

同僚の元へ向いました‥(-。-)y-゜゜゜。

 

【アクアマリンふくしま】…⤵

 

 

 

片側3車線の道路をふさぐ大きな浮船?‥(@_@;)。

 

同僚を拾いおそらく誰も居ないだろうと思いつつも、平の本社へ向かう途中…

小名浜の名物食堂‥

 

チーナン食堂の様子見へ…

約2メートルほど津波に遭われ甚大な被害を被ったチーナンも、地域のいろんな人達の応援もあり、確か約2か月後には営業を再開しましたね‥(´-`).。oO。

 

話は戻ってその翌日、12日の運命の日”…東電第一原発1号機の水素爆発!…この日の夕方、原発事故を知った多くの人達が、関東や福島県の西部へと避難して行く中、この時はもう会社の本社も機能不全に陥って全然連絡も取れませんでしたが、私は避難する渋滞車列を恨めしくも横目に地元に残る、仕事関連のお客さんの支援へと向かいましたね‥(-。-)y-゜゜゜。

 

翌3月14日の午前11時…原発3号機が水素爆発!!‥<(`^´)>。

この先どうなる事か先の見通せない状況でも家族は逃げる事なく地元へ残り、手分けして水や食料や灯油の確保へ奔走…でも車の燃料も乏しくなり、長い下り坂ではエンジンを切りブレーキはサイドブレーキで対応し、ガソリンの節約をしたり‥(^^ゞ。

 

翌3月15日の朝は、冷たい小雨の降る北寄りの弱い風に乗り、眼には見えない放射能がいわき市上空に漂い、車のドアを開ける際雨汁に濡れたドアノブに触れた瞬間、どの位の放射能が含まれているのか?気持ち悪かったですね‥(@_@;)。

 

その後もお客さん”の支援や生活物資にガソリン確保の日々‥(-_-)/~~~ピシー!。

 

2011年3月26日…会社近くの菱川町公園に給水場が設置され、自宅の断水が復旧するまで約150ℓの水を毎日持ち帰り2日に一度は風呂へも入れるようになりましたが、4月下旬まではそういった日々でしたね‥(-。-)y-゜゜゜。

ただこの水、放射能に本当に汚染されていないのか?飲み続けても大丈夫なのか?等々、疑心暗鬼に陥る感じもありましたが、それでも水は一番の必需品で食事に洗い物にお風呂…お風呂の後の水はトイレで使用したりと‥(^^ゞ。

 

2011年4月6日…会社からの依頼でこの日、第一原発から20kmのところに位置するJヴィレッジへ赴任し、施設の環境衛生管理と原発への物資輸送業務へ‥

ただ当然ながら空間放射線量も高く、この先どうなるのか?いづれ癌とか??…常に不安が脳裏を過りました‥(@_@;)。

 

原発事故からひと月近く経ったこの頃はまだ、Jヴィレッジ周辺にはコンビニはおろか自販機も使えないし飲み水も無く‥(>_<)。

でも支給されたこういったレトルト食品は有難かった‥(´-`).。oO。

 

Jヴィレッジからいわきへ帰る途中に見られた…

 

久ノ浜の様子‥(@_@;)。

 

2011年4月12日…3・11以降この日まで、震度5クラスの地震が20~30回程ありましたが‥

前日11日の夕方には震6の地震があり、この写真の数分前には3・11の時より揺れたんじゃないかと感じる地震もあり、能登方面も今しばらくは…余震が続くのではと危惧されますね‥(-_-)/~~~ピシー!。

 

Jヴィレッジの正面ホール…

ここで寝泊まりする作業員も多く、まるで野戦病院”のようでした‥(-。-)y-゜゜゜。


当時のJヴィレッジの日常‥(-。-)y-゜゜゜。

 

4月も後半の時期あたりから…

いわきでも買えるようになって来た、コンビニ弁当がJヴィレッジでのお昼”となり‥(´-`).。oO。

 

74式戦車が睨みを利かす方向は、第一原発‥<(`^´)>。 

この時期連日、原発内の瓦礫を除去する訓練をしていましたが、一度も原発へ入る事無く撤収して行きました‥(>_<)。 

 

5月…

 

第一原発へ物資輸送途中の私‥

 

爆心地…

胸に付けた線量計からは、ピっピっピっピっ!~…と鳴りっぱなし‥(@_@;)。

 

どの位の放射線量だったかは忘れましたが…

今となってはいい”思い出です‥(-。-)y-゜゜゜。

 

6月のJヴィレッジ…

コンビニランチ”もだんだんと品数が増えて来て‥(´-`).。oO。

 

…っとまあ東日本大震災、発生当時の事を振り返ってみましたが、私もまだまだ現役”で能登方面の被災地へボランティアで行く事も、また高給取り”でも全然ないので大した寄付も出来ませんし、実際今現在現地で雪降る厳しい環境で避難生活をしている方々に対し、「頑張って下さい」と言葉だけの軽はずみな事は言えませんが、私が言いたいのは{まだ福島の時のような、放射能”は無いんだから…}と思うだけでも、ほんの少しでも気が紛れると言うか、悲嘆したくなる気持ちをぐっ”と堪え、復興へ向け普段の生活に戻る為の、前へ進む気持ちが折れない”事を願いエールを送りたいと思います。

 

ただ‥‥

能登方面の方々で…

このブログを目にする方が、1人でもいらっしゃるのかどうか?‥(^^ゞ。