永平寺 修行成果の明認 | Grand pianoのブログ

 門前で三回叩く音では地面が硬いところでの道路へ打ち込むプラスチック杭だと中々入らず、ハンマーで叩く音ではところどころ苦心する音が振動で音と鳴り響き伝わった。木杭はあるが叩けば折れてしまうことがあり、その門前とは異なった。石杭は土地での明認に用いられるが、座としては、石像やお地蔵様もまた道のどこかに置かれ、何を意味をしているのかと考えれば、ここでお亡くなりになった肩が昔いて、辻斬りや盗賊に襲われ死んだことや旅行く者が目で見て分かる危険のあることをお地蔵様なり石像が明認として知らせていた。

 

 土の中へ入れる際、真っ直ぐによれて曲がり入ってはないか、正座の座は水泡を置いて傾斜角度を確かめ、仮に永平寺が原点座標であるなら、各お寺様の座標地点は曹洞宗での独特のものとなり、雲水が日本全国に散らばれば、正す座禅での明認たる各お寺様が必要となり、寺勤めで雲水は一石の石ともなる明認たる座禅での座標を持ちえ、仏法という慣わしより間違いを犯さず正す人間を育てるそのお姿とは、生老病死を教え、川ではさいの河原と川の間で生後まもなく川を渡れて、また岸辺での此岸彼岸には、渡れず水子たる死後は授かり母体にあり、積み上げられ石の小さなまばらに、また石には積み上げられた五十の塔に見立てた塔婆ならぬ尊さから明認たるがあった。

 

 死んだ子供をよみがえらせてくれとの願いは奇跡が起きなければそれは為しえず、家々を回ってこの方、子供を産んで死んだことが無かった家を尋ね見つければ、お釈迦様は奇跡が起きるとしたが、坊主とて同じ殺生ことで、禅であろう問いに、この方、豚肉、牛肉・鶏肉・魚と得ないでこれた坊主がいるのかと同じ意味になった。奇跡ということより生老病死が人間にはあり、今を大事に生きることが問われ、人間それぞれ明認たる成果は学問の上においてさえ、嘘偽りからでは、生前死後と明認するにあたり、ぞくに言われる仏での悟りの胸中とは、個人個人での僧侶にも三世を行き交い、現在過去未来と悟りを開く。座禅にも現在過去未来があっての成果となり、雲水達とは、見える明星の夜の下にあるが、雲があればその下では見えぬ位置に座として座禅が見えぬ世に何をまた悟るやも各々個人といったこの世を生きて渡る天上天下とした唯我独尊たる己があって始めて悟る目覚めたるブッタとなる。唯我独尊とは人間として生まれた周知に法ある点に我が身が座標と天の上に天の下に一指しゆびで示し、1点に我が座がこの世にあることを明星でのまた1点を確認できよう。

 

 

 
 永平寺投稿動画抜本より感想。