これは今の正直な気持ちで、被災地にいて感じることなので、言葉をオブラートに包まずに記してあります。よって多少過激な表現があります。これも震災の記録の一部として、残しておくことにしました。

もう少し状況が落ち着いたら、慰問演奏などをやりたいと思っているのだけど、いつもに増して音楽に気が向かない。
震災を受けてまず思ったこと。
音楽なんて生きるか死ぬかの時には、何の役にも立たないし、誰も助けられない。
もっとダイレクトに役に立つことを学んでおけば良かった。
と、あまりに強烈に思ってしまったからなのか、慰問演奏やチャリティなどと言ってはみるものの、所詮そんなものは生活に余裕のある者の偽善なのではないか、とすら思ったり。
もっと正直に言えば、震災発生から日が立たず、まだ私が学校の寮にいた時、mixiやiPhoneで見た「チャリティコンサート」の宣伝。超有名人以外は、売名行為なんじゃないの?と思った。
チャリティと言えばいかにも人助けで美しいけど、そんな生温い方法でなく今この時をどうにかしてくれ、と、震災を自分を引き立てる材料に使うのはやめてくれ、と、腹が立ったし憎く思った。
こっちは今にも無くなりそうな蝋燭の火を燈しながら、続く余震に脅えながら、自分よりも生徒を守ることに必死で1日1日をやり過ごしているというのに。と。
今は落ち着いたから、冷静にいろんなことが理解できるけど、チャリティならチャリティらしくやってほしい、と思うのです。
チャリティはあってもいいし、あってほしいと今は思うけど、やっぱり期待するのは正直その中身ではなく結果です。
こうやってブログなんか書いてられる私みたいなのは被災者には入らない。
これから被災者の方を支えたり、町を復興させたりするのに必要なのは、間違いなく経済的支援なのです。
でも、震災直後、電気が通らずテレビが見れず、震災の被害を伝えるラジオから時折流れる音楽に、思わず涙が流れたりした。
でもそれは音楽に感動したと言うよりは、歌の歌詞に感動したような気もする。
じゃあ自分には何ができる?と、甚だ疑問を感じてしまう。
いやでも確かに音楽には計り知れない力があるとも思っているんだけど、音楽にエネルギーが向かないという、非常に中途半端な状態の自分自身を持て余している。
そういえば最近、自分は自分のやっている音楽に救われたことはないな。
だからかな。自分を救えないものが、他人を救える気がしないのは。
それでも約25年も続けてきた音楽は自分の血となり肉となり体中を駆け巡っているわけで、それをやめることはもったいなくてできない。
そう。もったいないだけなのかも。
いっそ音楽はもうすっぱり捨てられたらいいのにとも思うけど、それもできない。
潔ぎ悪いけど、どうしようもない。
こんな私に、何かやれることはあるだろうか。
それが分かれば、自分自身は納得がいくだろうに。
でもこんなことを考えていられるのは、やっぱり余裕のある証拠なんだ。

まとまらないけど、この震災で、自分の持つ力の小ささが初めて解った。
それでも友人がくれた「命は持ち主のためだけにあるのではなく、周りの人のためにもある」という言葉は確かにその通りだと実感した。
こんな小さな力でも、誰かを励ましたり、今日や明日や未来を生きていこうと思えるようなエネルギーが湧くことに貢献できるのだろうか。
運良く、ただ運良く助かったこの命、最大限に使わなければ。