思考の落し物

思考の落し物

儚い考え事を置いていきます。

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社会に出るかいなか。

まだ留まるかどうか。



結局人からどれだけ話を聞いても、わからないんだ。
百聞は一見にしかずとはよく言ったもので。

そんな中で、目先にとらわれず、今後何年続くか分からない人生の大半を今決めなければ。


はっきり言って。
無理。


踏ん切りがつかない。


自分を客観し出来てると思っていたのに、結局ここに来てよくわからん。
いわゆるアダルトチルドレンとか言う奴だったのかもわからん。

自分の本心を無意識のうちに何重にも隠そうとしてきた人生。
らしい。

きっと。

考え込んでもどうしようもないけど、考えねばならないこと。

人生はマッチ箱に似ているとは良く言ったものだ。。。

自分自身に向き合わねば…
人生で初めて、万年筆を買いました。

そろそろフォーマルな「書く」道具が必要かと思い購入。



人よりは書くことにこだわりを持っているつもりで、何種類か試し書きをして選んだ。


文字の種類によっての引っかかり、あるいはインクの出が自分の感覚に沿っているか。

なめらかすぎず、ひっかかりすぎず、紙とペン先のわずかな摩擦。


何かの文章で読んだが、このほんのわずかな摩擦こそが、書くことの醍醐味ではないかと思う。


最近のラジオなどでは、いつのまにか番組への「メール」になってしまって。

「ハガキ職人」という言葉が死語になってしまって。


アナログからデジタルへ。

それは、生から死へともいえるかもしれないかなと。


生きること、生きていることの意義を見出しにくくなっているような気もする。

あるいは、わざわざそんなことを考えるのが時代遅れなのかもしれない。


けど、それもなんか違うんではないのかなぁと、松本零士作品を思い返しつつ。

土臭い、生への探求。

生きているからこその感覚。
大学に入って何より思ったのは、人間関係が薄いなということ。

薄いなというよりは、うすっぺらそうだなという疑いかもしれないけれど。


そしてなにより、なんでこんなにすぐ「キャラづけ」しようとするのだろう、ということ。


自分が慎重すぎるとか、即決するタイプではないというのを差し引いても、何か事あるごとに「キャラ付け」しようとするその空気。

まぁ不快である。

ほんの一例で付けたキャラで勝手にその前提で接してくるのはおかしいと思わないのだろうかと。
よくわからない。

いや、全くわからない。




言葉というのは実に便利なものだなあと常々思う、良くも悪くも。

口に出せばそれがその人の本心だとされる。

口にさえ出さなければ少なくとも本心が同かとは分からない。


本音がどうであろうと、相手には口に出してしまったそのままで伝わるのだ。


よく「お前はいいやつだ」と言われる。
それは素直にうれしい。

しかし、中には「あなたがそう思った根拠は何ですか」と思う人も多々いる。

人を悪く言わないから?文句を言わないから?あまり怒ったりしないから?親切なことをするから?

たとえば前者を、本心ではそう思ってるのだろうが口に出さないのがいい、というのだったらわかるが。

いや…


わからないな。

本心なんてわからない。

絶対に分からないものは人の心なんて誰かが言ってた気もするが。


とりあえず、「キャラ付け」なんていうカテゴライズ、そんなレッテル貼りはわざわざ本人に言うなよ。
まるで価値観の押しつけの様で非常にむずがゆい。

心の中にとどめておいてくれよ。


そんなことを少し昔を思い出しながら思った。
今はだいぶましなのかもしれない。


分からないというのが一番怖い。