九州倭國の別種分家の旧小国であったヤマト政権が、中国の歴代の王朝との(九州倭國を介さずに)直接的国交を持てたのは何時からであったのか?の問題ですが、神功の新羅遠征も九州倭國の臣下としての新羅遠征であったとしかされず、ヲホド継体が磐井を倒したのも、末子の葛子の日本国天皇の継承を認めたので倭國内の内紛としか見られておらず、また新唐書に記載されたように、ヤマト政権の欽明が梁に接触を持とうとしてうまく浮かず、また用明が九州倭國(俀國)の天子目付役としての「目タリシヒコ」という身分になった事の記録があり、結局は隋代に隋使の裴清が九州倭國(俀國)を訪れた時にヤマト政権の存在確認のために(新たに設置された)難波宮などを訪れた記録が最初であったんですよね。そしてこの頃から、日本書紀では「半島などからの遣使の船」も、「筑紫で帰ってしまった船」と、「難波まで来た船」との書き分けもするようになっていますね。